第7 女性の為の札幌・巻を読む会   2022. 5.19

森田正馬全集 第5352 形・第33回例会   昭和8528日から

  素直(すなお)感心(かんしん)する事ができない

 小川氏 昭和63月の入院ですが、家に帰ってみると、ガラリと     

変わっていた。退院の日、丁度(ちょうど)、桜の(ころ)で、家の者23人と散歩し

た。そのとき、桜を見て「奇麗(きれい)だなあ」といったところが、家の者が

そんな言葉を聞くのは初めてだといって(おどろ)きました。以前には、素直

に感心するとか、それを言葉に出すとかいう事ができなかった。そし

て友達などが、愉快(ゆかい)やっているのを見ると(おれ)神経(しんけい)衰弱(すいじゃく)でなかっ

たら、どんなに楽しかろうと、終始(しゅうし)うらやみ(なや)んでいた。以前には、

人がみな自分に同情(どうじょう)がなく、(うら)めしく思われたが、今度はみな人が、

自分に愉快(ゆかい)(した)しみのあるように感ずるようになった。

 森田先生 面白い。よく表現ができた。ここで全治(ぜんち)退院した人は、

(みな)その通りであるが、自分ではっきりとその事に気がつかない。つま

当世(とうせい)の言葉の認識(にんしき)不足(ぶそく)ですね。

 中には、周囲があまり変わっているので、(われ)ながら不思議(ふしぎ)(おどろ)く事

がある。鈴木君も、もう古い事で忘れたでしょう。

 鈴木氏 前には、親たちが、小声で話していても、私の事を(うわさ)して

いるのではないかと思ったが、退院してから、そんな感じは、(まった)くな

かった。

 退院後、流感(りゅうかん)にかかって、1週間ばかり、親類(しんるい)(とこ)についたが、そ

の間、庭の(けやき)新緑(しんりょく)の美しさに見とれて、退屈(たいくつ)するような事もなかっ

た。以前には、こんなものを見て美しいとか、思えるような事は(まった)

なかったのであります。

 学校で、英語を読まされてひっかかると皆が笑う。今までは侮辱(ぶじょく)

感じたが、退院後は、そんなとき、一緒(いっしょ)になって笑うようになった。

 森田先生 これまでは、(うら)めしく思っていた義母(ぎぼ)が、親切な人にな

ったというような(れい)は、よくある事ですが、(ぼく)著書(ちょしょ)に出ている赤面

恐怖の(れい)はそれである。こんな事は愛すべきもの、感謝(かんしゃ)すべきものと

かいう「べし」という理論(りろん)では、(けっ)してない。それで、こんな時に、

先方(せんぽう)が変わったのではなく、自身(じしん)が変わったためであるけれども、そ

の事には、気がつかずに、周囲(しゅうい)が変わったように感じられるという点

面白(おもしろ)いのである。

  母も一緒(いっしょ)に死ぬといって泣いた

 水谷氏 以前は、()けず(きら)いで、相手の(むこ)うを(はり)りたいという気持          1

が強かった。学校などで、あまり(した)しくない友達などが歩いてくると

あいつが」と、心の中で、軽蔑(けいべつ)して、わざと(かた)いからして歩く。

相手が多勢(たぜい)で、心細(こころぼそ)く感じた時は、とくにそれがはなはだしくなる。

また道で、ゴロツキなどに会えば、道をよけないで、かえって敵視(てきし)

態度(たいど)をとるという(ふう)であった。また村の青年を見ると、彼等(かれら)から「(ぼく)

(など)は金がないから、一生(いっしょう)田舎(いなか)()てなければならぬ」とか、反目(はんもく)

されるような気がして、具合(ぐあい)が悪かった。それが退院後は、(まった)くその

様な反抗(はんこう)気分(きぶん)がなくなり、人に会釈(えしゃく)もできるようになり、青年(せいねん)倶楽部(くらぶ)

へ行って、()ちよけるようになった。学校でも、孤独感(こどくかん)がなくなり、

近頃(ちかごろ)は、クラス雑誌(ざっし)のメンバーに加わり、いろいろと世話をやいてい

ます。人に対する(した)しみが、大変増(たいへんま)したようであります。

 母親に対しては、随分(ずいぶん)ひどくいじめたものです。悲観(ひかん)(すえ)に、(ぼく)

死ぬといったら、母も一緒に死ぬといって、泣いたので、尻込(しりご)みした

事もある。全体(ぜんたい)癇癪(かんしゃく)()ちで、随分(ずいぶん)母を(こま)らせた。また高校時代には、

マルキシズムにかぶれていて、外出すると刑事(けいじ)尾行(びこう)するという評判(ひょうばん)

が立って、それが随分(ずいぶん)、母を苦しめた。

 また不眠の苦しみも、母の(ほう)が、かえって心配して、不眠であっ

た。療法(りょうほう)をあさり(まわ)り、ついには性的(せいてき)神経(しんけい)衰弱(すいじゃく)の注射を、2ヵ月も受

けたことがある。経済(けいざい)の苦しいため、父は金をくれず、いつも母から

無理をしてもらっていた。その注射のため、上京(じょうきょう)する時も、父には(ない)

(みつ)で、こっそり(ぼく)をやってくれた。一体(いったい)に母は素直(すなお)で、平常(へいじょう)、父に(はん)

(たい)した事はない。それを(おか)してまでも、私の一生の事だからというの

で、(ぼく)上京(じょうきょう)させてくれた。(あと)でこの事がわかって父が(おこ)り、顔の()

れるほど、母を()った。母はそのために、当分(とうぶん)外出ができず、たまた

他人(たにん)から()われて、(なべ)が落ちたからといって、ごまかしたそうです。

 ここへ入院するについても、父はこれを(まよ)いの一つと考えて、やっ

てはくれず、母はこの時も、後はどうでもなるから、行けといってく

れたけれども、以前の事件(じけん)が心配になって、入院ができなかった。そ

こで今度は父を説服(せっぷく)する事を考えた。だますでもなく、(まこと)でもなく、

父の心を(やわ)らげるようにと工夫(くふう)して、約半年の間に、倹約(けんやく)に倹約を(かさ)

て、70円ほど()めた。それを(たね)にして、父に(たの)()んだのです。父

もついに()()って、そうまでお前が熱心(ねっしん)ならば、父はお前がまた

まされに行くという事は、承知(しょうち)(うえ)であるけれども、父としての愛情

がないと思われるのもつらいからといって上京させてくれることに

なった。母も今度、私が大学に入学ができるとは考えていなかったか 

ら、帰ったら農家の手伝いでもせよといい、僕もまたそう考えてあき          2

らめていた。入院のため上京(じょうきょう)したとき、入学試験まで2週間あった。

私は診察を受けるとき、治ってから来年受験すると、いい()ったけれ

ども、先生は、10日でもよいから、勉強して受験しなければいけない。

そうでなければ入院させないといわれて、準備にかかった。(おや)(ほう)

らは、無論(むろん)合格(ごうかく)はだめだから、やめよという書面(しょめん)がきたが、とにかく

受験したところ、思いがけなく合格した。家では電報(でんぽう)歓声(かんせい)をあげた

そうです。

  水をやらねば植木(うえき)()れる、これが(さと)りである

 森田先生 親をいじめる話。これよりも、まだなかなかひどいのが

あるが、翻然(ほんぜん)と治る。なかなか面白(おもしろ)い。

 ここでちょっと注意すべき事は、今日の話は鈴木君でも、水谷君で

も、みなただ「自分はかくかくであった」という事実(じじつ)(かた)だけであ

る。(ぼく)()()くあるべしと()()()虚偽(きょぎ)たり。あるがままに

ある。(すなわ)真実(しんじつ)なりという事がある。ここでは。いつもただ、事実

(もっと)大切である。入院したての人はこの関係がなかなかわから

ない「何々(なになに)なくてはならぬというべし」すなわ当為(とうい)持ち

すのが、当世(とうせい)教育弊害(へいがい)であって、教育が高いほどますますこの

「べし」で(きた)げて融通(ゆうずう)()かぬものになってしまうのである。

ここでは、決して愛とか誠実(せいじつ)とかいう事をいわないが、全治(ぜんち)して退

院すると、親や友人に対し、または(けやき)青葉(あおば)桜の花に対しても

然の愛情ができているのである。

 今日も、庭で私がしおれた(はな)(ばち)(しめ)て、水をやらねば植物は

枯れる。人が食わねば、死ぬると同様である」という事を知らせた。

たったこれだけの事が、体得(たいとく)できれば、すなわち(さと)である。患者が

庭に出て、仕事がなくて失業(しつぎょう)退屈(たいくつ)していて、目の(さき)に花が()

かっていても、それが少しも目にとまらない。それが悟りでないので

ある。ここではただ、実行について、これが(さと)これが悟りでない

とか教えるだけで、決して「(さと)るように心掛(こころが)なければならぬ

いう(ふう)教えてはならないのであります入院したての人はなか

なか、こんな簡単(かんたん)事がわからないで、いたらに理屈(りくつ)ばかりをいう

のである。

 話は少し(ちが)うけれども(むかし)から支那(しな)では、(りん)教えとかいっ

て、道徳(どうとく)やかましいが日本では(こと)()(くに)いって忠孝(ちゅうこう)

(みち)もとから行われているからそんな教えはいらないというの

である。支那(しな)には、24(こう)といって孝行人(こうこうにん)たった24

ないが、日本には、20不孝(ふこう)といって、不孝者(ふこうmono)は、たった20人しかなかったとの事であります。  3