第70回 札幌・五巻を読む会 2021. 8. 6
森田正馬全集 第5巻330頁 三省会・第6回例会 昭和8年4月3日から
また近頃よく鼻風邪をひきます。森田先生のお説によれば、また
心が緊張を欠いてきたのでしょうか。また以前は、悲観的な考えのた
めに、不眠に悩みましたが、近頃は、旅行癖から、その計画のため
に、2時3時まで、寝られぬ事もありますけれども、これは愉快であ
って苦痛ではありません。ところが、本年1月下旬、中耳炎を患った
機会に、血圧が230であることを発見して、驚き、動脈硬化症・
狭心症などを恐れたためか、そのころ胸のあたりが引き締められる様
な、また生温かい様な感じを起こしました。以前であれば、大変苦し
んだであろうと思われるが、今はまたきたと思い、別に忘れようとも
忘れまいともせず、そのままにしておくうちに、いつしか忘れてしま
います。これは当院の門をくぐって以来、執着をせぬ様になったため
かと思われます。私は近頃まで、医業を行っていましたので、かね
て生物体が巧妙にできていることは感心している事ですが、最近「神
経質」で知りました事は、睾丸が身体発育の途中、腹腔内にありなが
ら、のち、一見、不都合に思える体外の位置に下りる事も、もっとも
な理由あることと、うなずきました事です。これから考えても、今は
治らぬ病気も沢山ありますが、そのうちには、森田療法の如くよい
療法も見付けられることでしょう。造物主には、ちゃんとその手配
が、整えられており、吾人・科学者は、ただそれを探し当てさえすれ
ばよいのでしょう。
南坊城氏 一昨年夏、2ヵ月ばかり入院し、その後、1年ほどた
って、すっかり治りました。書痙だけでも、16年。そのほか胃アトニ
ー・脱力感など、いろいろな症状に、10年以上も苦しみましたが、本
日は、吃音と神経質との関係について、ちょっとおうかがいします。
私の弟には、吃音がありますが、私は入院中に、吃音と書痙とは、
同じ理屈のものではないかとおもいました。「吃りの独り歌」という俗
言が、その真相を道破している如く、吃音は、予期恐怖からきている
ものではないでしょうか。ある人が、嫁をもらうに当たって、吃りを
治そうと、一語宛ポツリポツリいう事を、1年間決心実行するうちに、
ついに治したという事ですが、これは、書痙に対する森田先生の教え
「活字のように、書くつもりでという事と、精神は同じではないで
しょうか。ある高貴な方は、親しくお話なさる時には、吃る癖があ
り、公開の席では、これが現れぬそうです。吃りは、神経質の一症
状であり、よく治るべきものと思いますが、森田先生の御意見はどう
でしょう。
宇佐先生 吃りの病理は、ここで話しても、なかなか難しいが、神 1
経質の吃音恐怖は、確かに治ります。私が大正14年に、神経学雑誌
へ出した治験例などは、それです。その後多数に治しています。「吃
りの独り歌」というものは、聞いたことはありませんが、寝言は聞いた
事がある。それは少しも吃りませんでした。
大久保氏 私のは、一種の倫理的・道徳的強迫観念とでも申しまし
ょうか。悩みのない世界に行きたい、しかも行けぬ。これが悩みの種
です。聖書に「一日の労苦は、一日にて足れり。思い煩うこと勿れ」
とあります。しかし人間は、思い煩う様にできている事を、森田先生
の本で、教えてもらいまして、今では、悩みもって行くということに
しています。去年、妻を死なせましたとき、子供は泣きましたが、生
死は、天候に晴雨がある様なものだと、たしなめることができまし
た。
森田先生 大変よいが、締めくくりが脱線する。泣く子供に対して
「死は当然だから泣くな」とは脱線である。泣かせておけばよい。君
のいう事は、結局、安心したいということになる。安心したいとは、
寒い季節に寒くないのが目的、雨が降ってもうっとうしくないのが目
的である。これは人間当然の願いではないかという人があるが、例え
ば安田善次郎は、死ぬまで金をもうけた。諸君は、金をもうけるのが
目的か、もうけずとも、安楽に満足するのが目的か。安田氏は、満足
したいのではなくて、ただ金がもうけたい側であった。エジソンは、
ただ発明したい発明したいで、昼夜働いた。釈迦もキリストも、のべ
つに働くばかりで、安心したらしい形跡はない。安心したとか満足し
たとかは、偉人のいう事ではない。釈迦が、安心したいと努力したの
は、悟までの事で、既に諸行無常と悟ってからは、その様な騒ぎを
することなく、その後50年間、ただのべつに働いた。ただしこれ
は、私のいうことでなく、お寺さんの専門事項であるが。
山田氏 私は、生まれつき神経質で、いろいろな恐怖をもち、それ
は腹ができていない結果と思って、これを信仰で修養しようとあせっ
た事がありました。絶えず何かを求め、心中に相闘うものがあり、煩
悶に堪えませんでした。本院に入院したのは12日間でしたが、「あ
りのまま」の教えがよく身に沁み、森田先生の書を読んだのは、退院
後でしたが、よく理解できました。ありのままで・だらしなく・馬鹿
になったのではないかとも思いましたが、振り返ってみると、実際は
仕事の能率もあがっています。
宇佐先生 あなたは、実に成績のよい方でした。
森田先生 近頃、僕の書いた色紙に「求むれば、世の中に、いかな
る楽しみも、楽しみではなく、いとわざれば、世の中に、いかなる
苦しみも、苦しみではない」というのがあるが、エジソンの如く、決して安 2
楽など求むる事なく、終始働いてさえいれば、終始楽しみである。
宇佐先生 浄土教では、欣求浄土・厭離穢土といって、穢土を去っ
て、浄土を求めよ、と教えるが、考え方によっては、浄土を求める心
の故に、浄土を遠ざかる様になる。穢土の中にいて、穢土をそのまま
に、見ていれば、それがすなわち浄土極楽である。これが浄土教のそ
のままの教えであろう。また経文に「求不可得」とあるが、苦の時、
楽を求むれば、楽は得られぬという事である。一方には「求めよ。さ
らば与えられん」という一見・矛盾する句もあるが、この方は、常に
欲求し努力してこそ、その結果は得られるという事で、全く別の事で
ある。
上原氏 僕が入院したのは、大分前です。先から話を聞いています
に、治ったとか治らなんとかいう話がある様ですが、私は心悸亢進と赤
面恐怖とでした。今は、治っているか否かは、問題にしておりませ
ん。以前でしたら、胸が動悸打ち・顔が赤くなれば、自分の事ですか
ら、苦痛でしたが、いつの間にか、他人の事の様に、他人の失敗を見
て、おかしく感ずるくらいの気持です。内心、非常にびくびく者です
が、また一面ヌーボー的な所もあり、そのままでよいと、押し通して
います。
宇佐先生 上原君は、立つ時に、ちょっと赤くなり、途中平静とな
り、座る頃に、また赤くなりました。多人数の中で、物をいうときこ
うなるのは、誰でも当然の事であるが、この事のわからぬ人は、こ
れを問題にして、苦しむものであります。
高田会長 上原君は、私の近所の人です。平常病気の様に見えぬの
に、時どき休まれるので、聞いてみると、胸がドキドキしたり、顔が
赤くなるために、家に閉じこもっておられるとのことでした。私が3
年間勧めて、やっと入院することになったのでした。
尾崎氏 昭和3年冬ごろ、本院にお世話になり、昨年夏に60日、森
田先生の所でお世話になりました。近頃はほとんど治っています。人
前で、足が震え、震わすまいすれば、なお震えて困りました。今もな
お残っていますが、震えながら、仕事もでき、話もできます。まだ完
全に、完全を求めようとする、その求むる心がいけないのでしょう。
梅原氏 治ったはずで退院しましたが、今でも書痙があり、盃を持
つ手も震えまして、出した盃は、早く注いでくれぬと困ります。帳面
もなるべくつけず、残して置いて、月末に、一挙にやってしまいま
す。鉛筆かペンを使って、毛筆は用いません。
宇佐先生 まず商売を大切にやりなさい。帳付けを月末まで延ばし
て書いては、気がいらつくから、なおさら字がうまく書けません。平
生から、ゆがみなりにでも、書くことが大切で、商売に勉強することが、なによりの薬です。 3