82回 女性の為の札幌・巻を読む会   2022. .25

森田正馬全集 第5359 ・第33回例会   昭和8528日から

布留(ぬのどめ)氏 勉強しているとき、遊びに行きたいと思い出すと、いくら

(おさ)えようとしてもだめです。たいていは欲望(よくぼう)()ける。そんな気分が

出ると、我慢(がまん)しようとしても、どうにもしようがない。ついにやぶれ

かぶれで遊びに行く。そんなとき、どんなに苦しくても我慢(がまん)して、本

を読むようにしていた方がよいでしょうか。

 森田先生 (ゆう)(しん)勃勃(ぼつぼつ)というところですかね。それは朝寝(あさね)はどうして

治すかという事と同様(どうよう)です。いずれも思想(しそう)矛盾(むじゅん)、すなわち(あく)()()

きたら、自由にできるようになる。この朝寝(あさね)(ほう)と、両方(りょうほう)(なら)べて(せつ)

(めい)すると、わかりやすくなる。

今の読書の問題は「遊びに行きたい」という欲望(よくぼう)、「勉強しなけ

ればならぬ」という努力とを、そのまま我々(われわれ)の心の事実と(みと)め、これ

両立(りょうりつ)させて自由に開放(かいほう)発展(はってん)させて()くと、(あく)()はなくなって、必

要に(おう)じては、(らく)に勉強もでき、さほどの必要もなければ、愉快(ゆかい)に楽

しく、遊びに行く事ができて、心に拘泥(こうでい)がなく、自由に適切(てきせつ)に、その

行動を(えら)ぶ事ができるようになる。

 これに(はん)して、「遊びたいというような、呑気(のんき)の心を起こしてはな

らぬ」「勉強に興味(きょうみ)を起こし、身を入れるようにしなければならぬ」

という風に、「べし」という事を()いる。これは「毛虫(けむし)をいやらしい

と思ってはならぬ」とか、「(にが)いものを(あま)いと思わなければならぬ」

というのと同様(どうよう)我々の心の事実を否定(ひてい)しようとする不可能(ふかのう)努力(どりょく)

となって、これが(あく)()となるからである。

 それで「ずぼらではならん」という事と、「身を入れなくては」と

いう事との2つの間の葛藤(かっとう)となり、これが循環(じゅんかん)理論(りろん)の形で、()てしが

なく、ノレンと角力(すもう)()るように、奔命(ほんめい)(つか)れて、ついには「やぶれか  奔命:忙しく立ち働くこと

ぶれで、遊びに行く」という無謀(むぼう)()(はち)結果(けっか)になるのである。

 これに(はん)して、楽々(らくらく)と本の上に、()を走らせながら、上野に行こう

か、浅草(あさくさ)にしようかと考えているとか、あるいは一方には、「あの映

画を見たいなあ」と、気ままに思い(めぐ)らしながら、この本を、もう1

(ぺーじ)とか、この(しょう)だけをとか考えて、読んでいるうちに、その本の内容

が、自分と同感(どうかん)のところや、あるいは排斥(はいせき)すべき(せつ)やにぶつかると、

ツイツイその方に、心がつり()まれて、読書(どくしょ)興味(きょうみ)没入(ぼつにゅう)するような

事にもなるのである。

(あく)()葛藤(かっとう)がないと、煩悶(はんもん)がなくて自由になる。試験などで必要な             1

時は勉強するし、今日は頭がぽんやりして、(はら)具合(ぐあい)も悪いとかいう

時には、一つ運動して(あそ)んでこようという(ふう)に、その(とき)場合(ばあい)とに(おう)

じて、丁度(ちょうど)適応(てきおう)するようになる。

朝、(はや)()きはどうしてできるか

次に朝寝(あさね)の事について、説明してみます。 

「もっと心持(こころもち)よく、()ていたい」という事と、「ずぼらではならぬ、

起きなくてはいけない」という事との間に、葛藤(かっとう)のある(あいだ)は、なかな

()きられない。「思いきって、(とこ)()って起きなくちゃ」とか、な

んとか都合(つごう)のよい事ばかりを考えながら、ちっとも(とこ)()らない。

佐藤君が、いつかの形外会(けいがいかい)で、「朝寝(あさね)は、心の(うち)葛藤(かっとう)のある間

は、なかなか起きられないが、考えが()きた時に、ふっと起きるもの 

である」といった事がある。本当にその通りである。

しかし、もう一歩(いっぽ)(ふか)く、自己(じこ)内省(ないせい)を進めてみると、(たん)に考えが()

ただけでは、ただウトウトとして()ているばかりで、まだ起きるとい

衝動(しょうどう)は起こらないのである。それで、葛藤(かっとう)()きた時には、そこに

初めて、欲望(よくぼう)衝動(しょうどう)発動(はつどう)してくる。(たと)えば、(はら)がへったとか。(いけ)

(こい)はどうなったろうとか、講義(こうぎ)の事を(わす)れていたとか、さまざまの事

が、(あたま)()かんできて、それが衝動(しょうどう)になって、初め(とこ)()って起きる

ようになるとかいう(ふう)である。そして、あるいはこの衝動(しょうどう)の起こる時

葛藤(かっとう)()きるとき、あるいは葛藤(かっとう)()きる時が、衝動(しょうどう)()こる時と

いう風に、これはどっちがどうともつかぬ、同時的(どうじてき)のものとみる方

適当(てきとう)であろと思のである。

朝寝(あさね)習慣(しゅうかん)が、いつまでも(なお)らぬという人は、いつまでもこの悪

知にとらわれて、これから(だっ)する事のできないものである。 「どうす

れば(あさ)()ができるか」とか、「どすれば。読書(どくしょ)興味(きょうみ)()れる

か」とか考えるうちは、ますますこの(あく)()から(だっ)る事のできいよ

うになるものである。 

その(よう)に、我々(われわれ)の心は、作為(さくい)、すなわち「はからい」の心がなく

て、自然のままにあった時には、兼好(けんこう)法師(ほうし)が「(ふで)をとれば物かかれ、

(さかずき)を見れば、(さけ)を思う」という(ふう)に、事に()れ、物に(せっ)して、何かに

つけて、()えず心が発動(はつどう)するものである。(ちょう)()ている時にも、(いけ)(こい)

()ねる(かす)かな音にも昨日(きのう)入れた(こい)はどうであろうか、机の上の(いち)

(りん)さしが、目にとまっては、昨日、外ヘサテンの(はち)()(わす)れて

いたとか、いう事を思い出して、些細(ささい)な事でも、それが(とこ)()って()

きるという衝動(しょうどう)になるのである。

強迫(きょうはく)観念(かんねん)(なお)れば親孝行(おやこうこう)になる                      2

「心は万境(ばんきょう)(したが)って(てん)ず。転する(ところ)(じつ)()(ゆう)なり。(ながれ)(したが)って(せい)

(にん)(とく)すれば、無喜(むき)亦無憂(またむゆう)なり」といって、もし心が自然のままであ

った時には、その発動(はつどう)(さか)んであって、周囲(しゅうい)適応(てきおう)する事が、(きわ)めて

微妙(びみょう)であり、かつ(きょう)(せい)である事を体得(たいとく)する事ができるのであります。

神経質が強迫観念にかかり、この難関(なんかん)通過(つうか)し、これから解脱(げだつ)した

時には、初めて、この「心は万境(ばんきょう)(したが)って転ず」の心境(しんきょう)を体験する事

ができる。それは強迫観念は、(じつ)に人生の煩悶(はんもん)模型的(もけいてき)のものであ

る。(たと)えば「人の前では()ずかしい」「(むずか)しい本を読めば、いやにな

る」とかいう当然(とうぜん)の心の事実を、そうあってはならぬという「べし」

という事で、その心を否定(ひてい)し・圧制(あっせい)し・回避(かいひ)しようとする不可能の心

葛藤(かっとう)であるからである。

この強追観念が治れば、その人は、従来(じゅうらい)とは、すっかり変わって、

朝起きになり、勉強家になり、柔順(じゅうじゅん)になり、親孝行(おやこうこう)になる。その人た

ちは、みな自分ながら、その変化(へんか)不思議(ふしぎ)(おどろ)くのである。それは(わが)

(われ)自然(しぜん)本来(ほんらい)性能(せいのう)発揮(はっき)されるからである。蜘蛛(くも)が巣を作るとか、

栗鼠(りす)がクルミを土の中に()めて(たくわ)えるとか、動物には、不思議(ふしぎ)本能(ほんのう)

というものがあるが、人間は、さらにそれよりも、不思議な適応性(てきおうせい)

本能(ほんのう)というものがあるのである。

布留(ぬのどめ) 私は(よる)()る時は、本が面白(おもしろ)くて、明日の朝、読もうと思っ

て、楽しんで寝るんですけれども、朝になると、思い出さないし、な

かなか()きません。読みたいという欲望(よくぼう)はあり()ぎるのに、早く起き

ないのはなぜでしょうか。

 森田先生 ちょっと、(むずか)しくいうと、欲望とか、なんとかいう抽象(ちゅうしょう)

(てき)文句(もんく)が、いつでもいけない。我々(われわれ)には、本を読みたいという抽象(ちゅうしょう)

(てき)の事は、事実において、あるものではない、本はただ読む時に、面

白かったり、わからなくていやになったり、時々刻々(じじこくこく)に欲望の変化し

ているものである。ただ新しい知識(ちしき)(よく)()たす時どきに面白(おもしろ)いのであ

る。この抽象的の思想が働かない時に、常に「心は万境(ばんきょう)(したが)って」()

えず変化(へんか)して行くものである。

この変化の有様(ありさま)を、(もっと)もよく知る事のできるのは(ゆめ)である。それ

は、我々の心の、(もっと)も自由なる流転(るてん)の状態であるからである。

(こい)しき人を夢に見るには

(たと)えば、お正月(しょうがつ)に、宝船(たからぶね)の夢を見ようと、一生懸命に、その事ばか

りを考えて()ると、(けっ)してその夢は見ないで、(まった)く思いがけない夢を

見る事が普通の場合である。それは我々の連想(れんそう)は、(けっ)して一つ事にの

停滞(ていたい)していないで、自由に流転(るてん)して行くからである。それで、(ねむ)が少し浅くなった時に、    3