第82回 女性の為の札幌・五巻を読む会 2022. 8.25
森田正馬全集 第5巻359頁 形外会・第33回例会 昭和8年5月28日から
布留氏 勉強しているとき、遊びに行きたいと思い出すと、いくら
抑えようとしてもだめです。たいていは欲望に負ける。そんな気分が
出ると、我慢しようとしても、どうにもしようがない。ついにやぶれ
かぶれで遊びに行く。そんなとき、どんなに苦しくても我慢して、本
を読むようにしていた方がよいでしょうか。
森田先生 遊心勃勃というところですかね。それは朝寝はどうして
治すかという事と同様です。いずれも思想の矛盾、すなわち悪知が尽
きたら、自由にできるようになる。この朝寝の方と、両方を並べて説
明すると、わかりやすくなる。
今の読書の問題は「遊びに行きたい」という欲望と、「勉強しなけ
ればならぬ」という努力とを、そのまま我々の心の事実と認め、これ
を両立させて自由に開放、発展させて置くと、悪知はなくなって、必
要に応じては、楽に勉強もでき、さほどの必要もなければ、愉快に楽
しく、遊びに行く事ができて、心に拘泥がなく、自由に適切に、その
行動を選ぶ事ができるようになる。
これに反して、「遊びたいというような、呑気の心を起こしてはな
らぬ」「勉強に興味を起こし、身を入れるようにしなければならぬ」
という風に、「べし」という事を強いる。これは「毛虫をいやらしい
と思ってはならぬ」とか、「苦いものを甘いと思わなければならぬ」
というのと同様で我々の心の事実を否定しようとする不可能の努力
となって、これが悪知となるからである。
それで「ずぼらではならん」という事と、「身を入れなくては」と
いう事との2つの間の葛藤となり、これが循環理論の形で、果てしが
なく、ノレンと角力取るように、奔命に疲れて、ついには「やぶれか 奔命:忙しく立ち働くこと
ぶれで、遊びに行く」という無謀・捨て鉢の結果になるのである。
これに反して、楽々と本の上に、眼を走らせながら、上野に行こう
か、浅草にしようかと考えているとか、あるいは一方には、「あの映
画を見たいなあ」と、気ままに思い巡らしながら、この本を、もう1
頁とか、この章だけをとか考えて、読んでいるうちに、その本の内容
が、自分と同感のところや、あるいは排斥すべき説やにぶつかると、
ツイツイその方に、心がつり込まれて、読書の興味に没入するような
事にもなるのである。
悪知の葛藤がないと、煩悶がなくて自由になる。試験などで必要な 1
時は勉強するし、今日は頭がぽんやりして、腹の具合も悪いとかいう
時には、一つ運動して遊んでこようという風に、その時と場合とに応
じて、丁度に適応するようになる。
朝、早起きはどうしてできるか
次に朝寝の事について、説明してみます。
「もっと心持よく、寝ていたい」という事と、「ずぼらではならぬ、
起きなくてはいけない」という事との間に、葛藤のある間は、なかな
か起きられない。「思いきって、床を蹴って起きなくちゃ」とか、な
んとか都合のよい事ばかりを考えながら、ちっとも床を蹴らない。
佐藤君が、いつかの形外会で、「朝寝は、心の内に葛藤のある間
は、なかなか起きられないが、考えが尽きた時に、ふっと起きるもの
である」といった事がある。本当にその通りである。
しかし、もう一歩深く、自己内省を進めてみると、単に考えが尽き
ただけでは、ただウトウトとして寝ているばかりで、まだ起きるとい
う衝動は起こらないのである。それで、葛藤が尽きた時には、そこに
初めて、欲望の衝動を発動してくる。例えば、腹がへったとか。池の
鯉はどうなったろうとか、講義の事を忘れていたとか、さまざまの事
が、頭に浮かんできて、それが衝動になって、初めて床を蹴って起きる
ようになるとかいう風である。そして、あるいはこの衝動の起こる時
が葛藤の尽きるとき、あるいは葛藤の尽きる時が、衝動の起こる時と
いう風に、これはどっちがどうともつかぬ、同時的のものとみる方
が適当であろうと思うのである。
朝寝の習慣が、いつまでも治らぬという人は、いつまでも、この悪
知にとらわれて、これから脱する事のできないものである。 「どうす
れば朝起きができるか」とか、「どうすれば。読書の興味が得られる
か」とか考えるうちは、ますますこの悪知から脱する事のできないよ
うになるものである。
その様に、我々の心は、作為、すなわち「はからい」の心がなく
て、自然のままにあった時には、兼好法師が「筆をとれば物かかれ、
杯を見れば、酒を思う」という風に、事に触れ、物に接して、何かに
つけて、絶えず心が発動するものである。朝寝ている時にも、池の鯉
の跳ねる微かな音にも、昨日入れた鯉はどうであろうか、机の上の一
輪さしが、目にとまっては、昨日、外ヘサボテンの鉢を置き忘れて
いたとか、いう事を思い出して、些細な事でも、それが床を蹴って起
きるという衝動になるのである。
強迫観念が治れば親孝行になる 2
「心は万境に随って転ず。転する処、実に能く幽なり。流に随って性
を認得すれば、無喜亦無憂なり」といって、もし心が自然のままであ
った時には、その発動が盛んであって、周囲に適応する事が、極めて
微妙であり、かつ強盛である事を体得する事ができるのであります。
神経質が強迫観念にかかり、この難関を通過し、これから解脱した
時には、初めて、この「心は万境に随って転ず」の心境を体験する事
ができる。それは強迫観念は、実に人生の煩悶の模型的のものであ
る。例えば「人の前では恥ずかしい」「難しい本を読めば、いやにな
る」とかいう当然の心の事実を、そうあってはならぬという「べし」
という事で、その心を否定し・圧制し・回避しようとする不可能の心
の葛藤であるからである。
この強追観念が治れば、その人は、従来とは、すっかり変わって、
朝起きになり、勉強家になり、柔順になり、親孝行になる。その人た
ちは、みな自分ながら、その変化の不思議に驚くのである。それは我
我の自然本来の性能が発揮されるからである。蜘蛛が巣を作るとか、
栗鼠がクルミを土の中に埋めて貯えるとか、動物には、不思議な本能
というものがあるが、人間は、さらにそれよりも、不思議な適応性の
本能というものがあるのである。
布留氏 私は夜寝る時は、本が面白くて、明日の朝、読もうと思っ
て、楽しんで寝るんですけれども、朝になると、思い出さないし、な
かなか起きません。読みたいという欲望はあり過ぎるのに、早く起き
ないのはなぜでしょうか。
森田先生 ちょっと、難しくいうと、欲望とか、なんとかいう抽象
的の文句が、いつでもいけない。我々には、本を読みたいという抽象
的の事は、事実において、あるものではない、本はただ読む時に、面
白かったり、わからなくていやになったり、時々刻々に欲望の変化し
ているものである。ただ新しい知識欲を充たす時どきに面白いのであ
る。この抽象的の思想が働かない時に、常に「心は万境に随って」絶
えず変化して行くものである。
この変化の有様を、最もよく知る事のできるのは夢である。それ
は、我々の心の、最も自由なる流転の状態であるからである。
恋しき人を夢に見るには
例えば、お正月に、宝船の夢を見ようと、一生懸命に、その事ばか
りを考えて寝ると、決してその夢は見ないで、全く思いがけない夢を
見る事が普通の場合である。それは我々の連想は、決して一つ事にの
み停滞していないで、自由に流転して行くからである。それで、眠りが少し浅くなった時に、 3