第74回 札幌・五巻を読む会          2021.12.26

森田正馬全集 第5340 形・第32回例会   昭和8429日から

 野口英世(ひでよ)博士やエジソンや、(だれ)でも成功(せいこう)した人は、(かなら)ずかつて自分

が、貧乏(びんぼう)であり身分(みぶん)(いや)しかった事を、むしろ誇張(こちょう)して、自慢(じまん)にする

ようであります。貧乏(びんぼう)そのもの・強迫観念そのものは、(だれ)もこれを()

(まん)にする人はなく、なるたけこれを(かく)して、見栄(みえ)()ろうとするもの

であるが、ひとたびこれを突破(とっぱ)すると、今度(こんど)これがかえって自慢(じまん)

(たね)になるというのも、不思議(ふしぎ)ではありませんか。それは実は、我々

は、自分の力の発揮(はっき)という事を喜ぶ事に帰着(きちゃく)するのではなかろうかと

思います。                            

 日高君が、気の小さいのを(かな)しまず、欲望(よくぼう)の大きい事を喜ぶという

のも、やはり自分の力の発揮(はっき)という事に、(ほこ)りを感ずるのであって、

神経質礼賛(らいさん)というのは、ただその心境(しんきょう)(よろこ)ぶので、苦痛(くつう)とか安楽(あんらく)とか

いう事を、(まった)度外視(どがいし)しての話であります。((ちゅう)一座(いちざ)しばらく沈黙(ちんもく)

先生は、話のとだえたとき、口髭(くちひげ)を右手でひねる(くせ)あり。左方(ひだりかた)(ひげ)

で、右手でひねられるから、おかしい。)

 (だれ)か話はありませんか、あまり本当の事をいわれると(こま)る。僕が話

をする余地(よち)がないから。 (笑声)またあまり見当違(けんとうちが)いの事も(こま)る。(かおり)

(とり)さんが来ると、丁度(ちょうど)よいくらいの問題が出てくる。 (笑声)誰か質

問でもしてもらいましょうか。ただし哲学(てつがく)宗教的(しゅうきょうてき)の問題はいけませ

ん。                               

  職業(しょくぎょう)()てるということは(いのち)のつぎに大きな問題

 森田氏 昭和3年に、読書恐怖で入院しました。今は根岸(ねぎし)病院で、

看護人(かんごにん)をしています。今度(このたび)新聞にも出ていたように、根岸(ねぎし)病院の労働

争議(そうぎ)(こま)りました。労働党の後援(こうえん)で、目的を(たっ)したようですが、私も

入党(にゅうとう)(すす)められて(こま)りました。何かよい知恵(ちえ)があったら、()して下さ

い。

 森田先生 この人は、元陸軍(もとりくぐん)大尉(たいい)で、病気のためやめたのですが、

残念(ざんねん)でした。

 神経質の患者(かんじゃ)で、一番残念なのは、そのために職業を()てる人です。

病気が治ってのち、あとから取り(かえ)しがつかない。ここの山野井(やまのい)君や

玉木(たまき)など、(あぶ)ないところを(しょく)から(はな)れずにしまった人です。神経質

の患者で、私のところへ診察(しんさつ)を受けに来る人には、私は(けっ)して職業を

()めさせない、これは私の大きな人助(ひとだす)けの事と思っています。普通の

医者は、この同じ患者に対して、(かなら)休学(きゅうがく)させたり、(しょく)()めさせた

りするのが、(つね)である                       

  吉岡君のようになれないと思うと憂鬱(ゆううつ)になる

 布留(ぬのどめ) 自分の職業を決める場合、興味(きょうみ)のあるものを選んだ方がよ          1

いでしょうか。あるいは自分の才能(さいのう)のある方を(えら)んだがよいでしょう

か。

森田先生 ここにも「自然に服従(ふくじゅう)し、境遇(きょうぐう)柔順(じゅうじゅん)なれ」という事が

あてはまる。興味(きょうみ)とか才能(さいのう)とかいうものは、単なる机上論(きじょうろん)であって、

実際(じっさい)(おこな)われるものではない。                  

 布留(ぬのどめ) しかし、得意(とくい)不得意(ふとくい)は、先天的(せんてんてき)に、あるいはそうでなく

とも、後天的(こうてんてき)にほとんど決定的(けっていてき)のもので、足の筋肉(きんにく)の弱い人が、いく

らランニングの練習をしても、吉岡君のようにはなれないと考えると

憂鬱(ゆううつ)になるのです。僕は語学(ごがく)下手(へた)です。建築科(けんちくか)へでも行けば、自分

の才能が(あら)われるような気がするのです。今から、建築科を(こころざ)すわけ

には行かないから、あきらめて、語学を勉強するつもりです。

 森田先生 この(よう)な考え方は、ちょっと、もっともらしく思われる

けれども、実際(じっさい)には、そんな事はない。自分の興味(きょうみ)とか得意(とくい)とかいう

ものが、予定(よてい)されるものではない。もし自分が軽率(けいそつ)に、これを想像(そうぞう)

たり・独断(どくだん)したりしては、(だい)なる間違いのもとになり、またわがまま

になる事が多い。興味(きょうみ)は実行により、得意(とくい)熟練(じゅくれん)し・成功(せいこう)する事によ

り、しだいに(あと)からあとからとわかってくるものである。      

 我々(われわれ)の仕事なり・職業なりは周囲(しゅうい)境遇(きょうぐう)によるいわゆる運命(うんめい)によっ

(さだ)まる事が多い。(したが)って()(ゆう)で・自由になんでもできるような人

は、いたずらに仕事に(まよ)う事が多く、なす事もなく終わる事が多い。

これに(はん)して、貧乏(びんぼう)の人はやむを得ず、境遇(きょうぐう)柔順(じゅうじゅん)であるよりほかに

しかたがないから、ますますその才能(さいのう)発揮(はっき)するようになる事が多

い。野口英世・後藤新平(しんぺい)・エジソン・ムッソリーニなど、みなその(じつ)

(れい)である。これらの人びとが、(けっ)して自分の興味(きょうみ)とか才能(さいのう)とか、何が

自分に(てき)するかとかいった事は、ないようである。

  まさか(ふんどし)興味(きょうみ)としたのではあるまい         

井上氏 私は熱海(あたみ)の先生の旅館(りょかん)を手伝っていますが、旅館が自分の

職業に(てき)しているかどうかという事はわからない。()(きら)いや・自分

の才能とかいう事は、実際(じっさい)に当たっては、無意味かと思う。一生の職

業ですから、当然(とうぜん)考えざるを()ませんが、周囲(しゅうい)事情(じじょう)から、自然に決

まってくるもので、そんな事は、議論(ぎろん)しても、(はじ)まらないと思いま

す。                              

 この旅館で、ここの石井さんも、手伝っておられますが、何をやっ

ても、よくできるし、私も心強く思っています。それで石井さん自身(じしん)

は、何もできないできないと、しょっちゅういっている。そうかと思

うと、またある人は、おれがやればなんでもできる、という(ふう)にいう

人があるが、その人は実際には、よくできていない。こんな点でも、

(ども)は、神経質は有難(ありがた)いと思っています。                     2

 日高(ひだか) 職業(しょくぎょう)選択(せんたく)の話ですが、何はいっても、いつかは、自分の

面目(めんもく)発揮(はっき)する事になると思いますね。商業学校を出て、官史(かんし)になっ

て、成功(せいこう)した人もあるし、何をやっていいかと考える時機(じき)は、何をや

っても大した事はできず、せっぱつまってくれば、本当の仕事が、で

きるかと思います。私は以前(いぜん)、健康保険・社会政策(せいさく)に興味をもってい

たが、大学を出てから、内務省(ないむしょう)から、警視庁(けいしちょう)に入る事になり、前には

(まった)く、思いもよらぬ事でありました。何が自分に(てき)しているかという

事は、大した問題にはならぬと思います。              

 森田先生 職業には、随分(ずいぶん)さまざまあって、(こやし)()りや(はい)達夫(たつふ)などあ

るが、大概(たいがい)興味(きょうみ)適性(てきせい)でやっているとも思われない。(むかし)、ある人が

東京で、(ふんどし)(ふる)いのを買い集め、これを()めて、布団(ふとん)(うら)にし、成金(なりきん)

になったという話があるが、これも(おそ)らく、(ふんどし)興味(きょうみ)であったという

のではあるまい。我々(われわれ)(むかし)幾何学(きかがく)語学(ごがく)やをつめ()まれたが、これ

もみな適性(てきせい)やったのではなかったのである。

 昔から、(えら)くなった人は、みな予期(よき)(がた)い運命の道を(とお)っているよ

うです。クレマンソーも後藤(ごとう)新平(しんぺい)も、医者であった。ムッソリーニ

は、小学校の教員(きょういん)であった。野口英世やエジソンやは、みな(むかし)貧乏(びんぼう)

であったという事に感謝(かんしゃ)し、かつこれを誇り(ほこり)としている人びとであろ

うと思います。強迫観念に悩んだり・神経質の種々(しゅじゅ)症状(しょうじょう)に苦しんだ

人は、これを解脱(げだつ)した(のち)に、(かなら)ずその自分が神経質であった事を感謝

し、かつ(ほこ)りとするようになるの同様(どうよう)であろうかと思います。    

 近頃(ちかごろ)はメンタルテストで、適性(てきせい)とか職業(しょくぎょう)選択(せんたく)とかをやる事があり

ますが、野口英世やエジソンやの適性(てきせい)調(しら)べて、職業を選択したら、

どんな人物ができるでしょうか。天才(てんさい)偉人(いじん)は、超学問(ちょうがくもん)で、理屈(りくつ)超越(ちょうえつ)

したものである。やっぱり「自然に服従(ふくじゅう)し、境遇(きょうぐう)柔順(じゅうじゅん)」であった人

かと思われるのであります。

 亀谷(かめや)君は、今度、保険会社で採用(さいよう)されるはずで、東京へでて来た

が、体格(たいかく)検査(けんさ)ではねられた。しかたがないから北海道へ帰ろうかとい

っているところに、井上君から、熱海(あたみ)風呂番(ふろばん)欠員(けついん)ができたという

事を聞いて、風呂番でもやるつもりで熱海へ行った。そうすると、(ちょう)

()石井君が徴兵(ちょうへい)に行く事になり、その()わりに会計の手伝いをやる事

になった。この(あと)どうなるか、なかなか人の運命(うんめい)はわからぬものであ

ります。

 布留(ぬのどめ) 我々が、職業について、いろいろ理屈(りくつ)をいうのも、現在の

努力(どりょく)がいやで、気を(まぎ)らすという点も、あるようですね。

  なんでも気がつかねばならぬというのは

 山野井氏 私が(かい)で、こうしてしゃべるようになった動機(どうき)について

お話します。以前(いぜん)は、私が大勢(おおぜい)の前で話す事は、思いもよらぬ事でした。           3