第10回 形外会 昭和6年2月22日 

 午後3時開会。出席者27人。倉田百三氏、高良博士、佐

藤、古閑、長谷川諸先生の出席あり。時あたかも学校試験の時

期にて、学生諸君の出席のなかったのは残念であった。

 この会の発会当時、これが2、3回も続けば、()いてくるであ

ろうと噂した人もあったけれども、思ったよりもますます盛ん

になるばかりである。幹部の内で、これから時には名士の講話

を頼むとか、余興に講談師(こうだんし)を呼ぶとかいう事をしては、どうで

あろうか。ついては会費も、会員は出席の如何(いかん)にかかわらず、

1年1円とし、その代わり現在の出席者普通1円と、学生50

銭の会費を減額する事にしてはどうかなどの話も出た。

 開会の前に、森田、倉田両先生の揮毫(きごう)があった。森田先生は

 「事実唯真」「雑念即無想」「()くあるべしという()お虚偽た

り、あるがままにある(すなわ)ち真実なり」その他のものを書かれ、

倉田先生は「(くら)上人(じょうひと)なく鞍下(くらした)に馬なし」という事について、

「うち()りてたたに走らな、()(くら)の下びに馬はありもあらず         

も」の歌、および西行(さいぎょう)法師(ほうし)の「雲にただ今宵(こよい)の月をまかせて

む、いとふとてしもはれぬものゆえ」という強迫観念に関係の

 ある歌を書かれた。                         

   縁なき衆生

 日高副会長 倉田先生は有名な方であり、かつ我々神経質者にとっ

ては親しみ深い方であります。今日は会員の方は、この機会を失わ

ず、何かとどしどし質問されん事を願います。

 神経質は内気で、しかも内心は欲望に燃えております。しかし強迫

観念にとらわれている間は、心が(のり)づけにされている。一度これを突

破して、口になり筆になり表現する時に、(おおい)なる(かん)(こう)(しょう)ずるもので

す。これによって自然に対する心がわかる。縁なき衆生は()(がた)しと

いうが、縁とは実行する事によってできると思います。

 森田先生 同じ神経質でもその治り方はいろいろであって、私の著

書によってのみ治る人が相当に多いという事は、沢山の礼状によっ

てわかります。また1回の診察、数回の外来で治る人も多い。倉田さ

んも先年、藤沢からはるばる雪の日もいとわず確か5、6回、ここへ

お出になったかと思います。入院しては、早いのは1、2週間で全

治した人もあるし、まれには4ヵ月もいた人もあります。平均は40

日くらいです。治らない人も百人中、6、7人はあります。治ると治

らないとは、ただ私の療法に柔順に服従すると否とによる事です。自

己流の理屈をいうものは、縁なき衆生というよりほかしかたがありま

せん。
 橋本さんは古閑君のところへ入院して、3日目に逃げ出して、その

後私の方へも入院を頼んで来たけれども、勿論許しません。ついに根

岸病院で佐藤君にかかって全治したのであるが、その逃げ出した時の

心持を話してもらうと面白かろうと思います。

  3日目に逃げ出す

 橋本氏 私は4年前に、熱が続いてあって、医者からチフスを疑わ

れ、病気が治って後にも、自分の病気の事が気になって、長い間職業

も何もできないようになりました。ついに森田先生の診察を受けて、

古閑先生のところへ入院する事になりました。臥褥中にいろいろな強

迫観念に襲われ、恐ろしくなって、3日目かに古閑先生のところを逃

げ出しました。森田先生のところへも入院ができないので、『根治法』

の内で佐藤先生の事を知り、根岸病院に入院しました。ここでは逃げ 

出す事はできず、かえって安心して働く事ができました。50日くら

いで、もう退院してもよいと先生からいわれましたけれども、家に

帰ってまた起こりはしないかと心配して、70日くらい病院にいまし

た。先生からは、それが完全欲であるといわれました。

 退院後は病気をしない前よりも盛んに働くようになりました。

 古閑先生 橋本さんは、入院中最もうるさい人でした。絶えずいろ

いろの請求があって、夜中に苦しいから帰してくれといい出した事も

ある。迎えを呼ぶからといっても聞かずに帰ってしまいました。翌日

また入院を頼んで来たけれども、こらしめのため許しませんでした。

  器械的作業では再発する

 森田先生 ここへ入院して全治した人の中でも、途中苦しくて逃げ

出したくなった人はいくらでもありましょう。誰がその時の心持を詳

しく話してもらうと面白かろうと思う。この逃げ出す日が、大体定ま

っている事も面白い。3、4日目とか11日目とかに決まっている。

 一度逃げ出したら決して再び入院はさせませんけれども、ある人は

52歳の男でしたが、夜退院して、翌朝は早々息子と一緒に来て、

謝って帰らないからしかたがありません。この人はこんな事が2度

もありました。この人はつまり、ここで苦しいのを耐えるのも、家で

耐えるのも同様、同じ働くなら家で働いた方が得であるという風に考

えたのであります。

雑誌に4月号から続いて出ている赤面恐怖の患者は、11日目に相

談なしに退院して、その後、はるばる横浜から兄さんが2人連れで来

る、母さんが2度も来る。ようやくのことで、1ヵ月余りもたって入

院が許されましたが、幸いにしてこの人は非常によくなって、大喜び

でした。

 ここの作業療法の起りは、私の著書にも簡単に書いてありますが、

詳しく話せば、専門的には相当に興味のある事です。私が精神病院で

作業療法を始めたのは、私の大学助手時代で、明治37年、今から

25年前であります。この作業療法の研究で、加藤という人は、医

学博士になりました。

 この作業も以前には、いろいろ工夫して仕事の材料を与え、豆より

楊子けずりなど、夜業の仕事にし、また仕事のために(まき)を買い入れた

りしました。これが現在では、自然のままに自分で仕事を見付けなけ

ればなりません。ここに非常に必要な自発的活動というものが現われ

て来る。成績のよいものは、退屈という自然の心から、こまごました

事が目につくようになり、うまくできないものは、いつまでも申し訳

の仕事のふりばかりして、自然の心になってできないのであります。

器械的に規則的にあてがわれた仕事では、患者がよくなったように見

えても再発しやすいが、自然の欲望から発展したものは、決して再発

はしません。

 治ったという事は、容態(ようだい)のなくなる事です。私自身も昔は心悸(しんき)亢進(こうしん)

発作とか、脈の結滞(けったい)とか、頭痛持ちとかいろいろあったが、今はそん

な事は思い出すも、はっきりしないで、脈の結滞なども、全く起こら

なくなりました。井上君なども昔は随分沢山、容態があったようです

が、今は大分昔あった事を忘れているようですね。

  神経質は偉いもんだよ

井上氏 私も前には随分症状がありましたが、今はあの時どのくら

い苦しかったか、よく思い出せません。昔は神経質同士とよく話が合

いましたが、今では少しじれったいようになりました。

 私は自分で頭が悪いと知っていますから、人の2倍も3倍も勉強し

なくてはならぬと思っています。先日叔母のところで、この事を話し

ますと、叔母は「そんな事じゃいけない。自分は頭がいいと思ってい

なければ」と申します。

 森田イズムといっては適当でないかも知れませんが、人は自信がな

くてはいけないとか、どうも目的論的になる事が面白くない。かくあ

るべしという、なお虚偽だってあります。お釈迦様は人を見て法を()

いたといわれるが、叔母にはこの様な理屈をいってもわかりませんか

ら、その場のお茶を濁しておきました。私は森田式には方式がないと

考えます。つまり理想主義とかいう風に、一定の理屈にあてはめる事

はいけないと思います。

 昔は私は他人から神経質と見られるのを恐れて、神経質の本を包み

の内に(かく)していましたが、今では神経質は偉いという事を吹聴(ふいちょう)するよ

うになりました。この頃は学校でも神経質という事が大分流行するよ

うになりました。先日も学校で、雨が降り出した時に、ある男は傘の

用意をしていまして、神経質は偉いもんだよといっていたような事が

あります。

  目的論は科学者に禁物

 日高副会長 キリスト教では全人類を救うために天がイエスを下

されたと申しますが、私共は全神経質者を救うために神が森田先生を

下されたと思います。

 森田先生 目的論という言葉が出ましたが、科学者にも時どきこの

様な傾向の人があって、私はこれをはなはだ好まない。昔のキリスト

教などでは、この目的論的の説明が多い。世の中のものは造物主が造

ったという、人間のために神が動植物や何やを下されたものである、

この言い方は種々迷妄に陥りやすくて都合が悪い。我々は世の中の現 

象を事実ありのままに見る事を心掛けなければならない。  

 人のために地球ができたのではない。地球は自然に生成(せいせい)して、その

上に空気や水があって、そこに水生動物ができ、食物ができて、そこ

に人間も発生したというのが、事実の見方であって、それが善いか悪

いかという事は別の事である。人間の都合のよいように説明するのは

事実ではない。事実が唯真であるのみである。

 キリストはユダヤの旧教や政治の(へい)を救わんとして、そこに出現

し、インドのバラモン教に対して釈迦が起こったので、戦国時代に豪

傑ができるようなものである。私が神経質を研究したのも、神経質に

苦しむ患者があるためであって、診察料を取り生活の資を作るため

に、神経質や療法やをこしらえたのではありません。

 井上氏 私の父はクリスチャンです。キリスト教では、物は神が造

ったと教えています。内村鑑三先生は、今までのキリスト教は間違っ

ているといって、一生をその改革に捧げられました。このキリスト教

は道徳の宗教ではない。キリストを信ぜよというのは、真宗でただ、

南無阿弥陀仏と唱えるのと同様であります。

 古閑先生 畔上さんのお父さんは、新しいキリスト教の一派を立て

ておられる方です。いま畔上さんは、その立場から説明を加えられ

た。この人は非常に強い対人恐怖でありましたが、今はこのように大

勢の人前で自分の意見を主張するようになりました。いま18歳です

が、前には家で、4ヵ月ほども外に出る事ができず、布団の内に閉じ

こもり、風呂にも入らず(しらみ)がわいたとの事である。しまいには精神病

院に4ヵ月半も入院させられた。狂人と思われては損と思い、おとな

しくしていたから退院を許されたとの事である。昨年私の家へ入院し

て、対人恐怖もよくなり、今は府立の六中へ行くようになりました。

  解決の文句を何回でもくり返す

 加藤氏 私は15年くらい、強迫観念で苦しんだ。私の強迫観念は

皆で11くらいあるのですが、以前のは順々に変化しております。最

近のものには、こんなのがあります。人間と猿とはどこが違うかとい

う疑問が起こり、その解決ができないので苦しみました。それで猿を

見るのも、猿という言葉を聞くのも恐ろしいのです。

 そんなのは先生の本を読んで、よくなりましたが、ここへ御厄介に

なったのは、何か心に疑問が起こると、これを解決する文句が頭の内

にできる。それが長いのになると1回に10分も20分もかかる文句に

なる。これを心の内で満足するまで何回でもくり返さねばならぬから

大変なものです。京都に行った時も、汽車中でも、見物中でもその文

句が続いて、どこをどう歩いたか、わからなかったくらいです。

 森田先生 加藤君のくり返すという事は、中村君もこれと同様な事

がある。ある一定の文句を作ってこれをくり返さなければならない。

例えば「お前は今、過去の事に執着したり、未来の事を杞憂(きゆう)したりし

てはならない。自分はただ現在のこの一事にベストを尽くさなければ

ならない。それ以外には何もないのだ」というような、もっと長い複

雑な文句を気のすむまでくり返さなければならない。同君はこれを祈

念恐怖と名付けて、勉強も何もできなくなり、随分苦しんだものであ

ります。この強迫観念の経過は、その内に雑誌に出るかも知れませ

ん。加藤君の疑問解決という事と、少し内容は違うけれども、その外

形と苦痛とは同様であります。

 倉田さんも計算恐怖、観照恐怖とかいう意味の強迫観念に悩み、こ

れは同氏の『絶対的生活』という著書にも出ている事ですが、読書

中・仕事中にも「いろは」をくり返すとか、難しい数字の計算を反復

してやらなければ気がすまないという風であります。

 しかるにここに大事な事がある。加藤君はさきほど、京都へ行って

も、何もわからなかったといわれたが、私が想像するに、汽車の時間

も電車の乗り換えも間違えず、見るところも見て一人前の旅行を仕遂(しと)

げられた事と考えます。その時の模様はいかがでしたか。

 加藤氏 やはりその通りでした。それに土産物も買ったし、俳句も

3つ4つ作りました。

  同時に5種類の仕事ができる

 森田先生 そこです。「事実唯心」というのは、加藤君は自分の事

実を正しくいう事ができなかった。すなわち嘘を言った訳です。苦痛

であったけれども、人並みの事はできたというのが事実の告白であり

ます。読書恐怖が成績優秀であり、赤面恐怖が堂々と演説したりする

のもみな同様である。倉田さんも、のべつに心の内に「いろは」をくり

返しながら、それで原稿も書かれ、仕事もできたのでありましょう。

 最近、朝日新聞に、5重奏という事が出ていた。それは本を読みな

がら、会話をし、字を書き、計算をするとか、同時に5種類の事をす

るという事です。今度、同新聞社で、これを公衆に見せるという事があ

ったけれども、私は残念ながら行く事ができなかった。聖徳太子は一

度に8人の訴えを聴かれたとのこと、すなわち8重奏である。私共も

平常、2つや3つの仕事は同時にやっている。例えば病院などでも、

患者の家人に面接しながら机上の雑誌を読み、一方には看護婦に用事

を命令するとかいうようなものである。3重奏である。

 今の5重奏をやるという人は、つまり曲芸をやる人が特別に稽古し

て上達したと同様であろうと思われるが、我々の日常は、誰でも同時

にいくつもの方面の事を考えているのが普通の事である。強迫観念で

も、苦しみながらなんでもできるものである。神経質の人の考え方の

特徴として、それを自分でできない事と、理論的に独断してしまうの 

のである。それ故に加藤君のように誤って嘘をいうようにもなります。

  宇宙の事実の大肯定

 加藤氏 倉田先生が去る17日から、朝日新聞に御執筆(ごしっぴつ)なってお

ります「自分の問題」というのを拝見しまして、少しばかり感じた事

を述べまして、先生のお教えを(あお)ぎたいと存じます。少しづつ拾い読

みさせて頂きます。

「私が作仏(さぶつ)というのは、宇宙と一致して生きているとの自覚に達する

こと、すなわち我々のあるがままの生をその内容の如何(いかん)によらず、そ

のまま肯定して生きうることこれである。自分はこの意味の作仏(くぶつ)をも

って、私の願いとしている。」

 ここの療法を受けた我々には、このお言葉は割合によく理解しうる

ことと存じます。私は、事実は絶対である。あらゆる宇宙の実在・事

実を肯定する事ではないかと存じます。いわゆる大肯定によって生ず

る法悦とか安心とかいう境地ではなかろうかと存じます。

 次に同先生の「今、ある内容の生を、例えば火傷して苦しむ事をそ

のまま肯定せんとするとき、我々は思想的にその事実を肯定する事は

でき、また意志をもって肯定せんと努力する事はできても、その肉体

的苦痛の感覚を如何ともする事はできない。それは我々が潜在(せんざい)意識的

に、肉体の健在を選択するからである。もとよりこの場合、そのまま

生を肯定するとは、肉体的苦痛の感覚を生じてはならないという事で

はない。その苦痛の感覚ありながらの生を嫌う心を生ぜず、その生を

受け容れうれば足りるのである。が肉体的苦痛が過ぎ去った後で、そ

の生を肯定する事はできても、その苦痛の中において、その生を肯定

する事は容易でない、拷問(ごうもん)の打ち勝ち難いのもそのためであって、も

しこれをなしうるものは殉教者である。」

「そして解脱(げだつ)法が可能であるという生きた人での証人もこれまでに

2,3あったが、生来疑い深い自分には、それが偽りの証(たとえ意

識的ではなくとも)ではないかという疑いがとれなかったが、最近に

至って、有力な信ぜずにはいられない証人を得た。その人は自分と

極めてよく類似した求道過程を()た人で、ついに純粋事実の境地に到

達し、その験証によって、本態や潜在意識や肉体的苦痛をも、克服し

うる自信を獲得したのである。自分は残念ながら、未だ肉体的苦痛、

克服の験証を持っていない。これが自分の不安であり、したがってこ

の験証をうる事が自分の現在の問題である。」

 この場合、先生の「肉体的苦痛の克服」というのは、苦痛を肯定し

ようとするのか、あるいは否定しようとするのでありましょうか。結

局、苦痛を感じなくなるのでありましょうか。それとも肉体的苦痛は

現存しながら、生を肯定する事ができるというのでありましょうか。