第75回 札幌・五巻を読む会 2022. 1.20
森田正馬全集 第5巻342頁 形外会・第32回例会 昭和8年4月29日から
なんでも気がつかねばならぬというのは
山野井氏 私が会で、こうしてしゃべるようになった動機について
お話します。以前は、私が大勢の前で話す事は、思いもよらぬ事でした。
いつかの会で、副会長という事にされてしまい、そのとき、会長
が来られないで、私のやるべきところを、井上君にばかり、押しつけ
ていた。会の日が決まると、副会長の事が、心配でした。時には、わ
ざと時間を遅く来てみたりした。それは自分が行くまでには、誰かが
やってくれるだろうと思ったからです。ある会のとき、会長はこず、
井上君は、ぜひ私にやれといって、どうしてもやってくれない。その
とき案外よくできて、それが動機で、その後ずっと司会するようにな
り、こんなに話せるようになった事は、井上君を徳としているところ
であります。入院中の方も、どんどんお立になって、質問される方
がよいと思います。
森田先生 今日は、どうも話が引き立たない。しかたがないから、
水谷君の日記を材料にして、お話してみましょう。水谷君は、時ど
き、気がきいて間の抜ける事がある。(日記を朗読する)「玄関を出る
とき、先生は、玄関前に飾ってある唐桐の植木鉢に、目をとめられて
『まだ花も咲かぬ、このような菜っ葉みたいようなものを、誰が事さ
らに、こんな所にもって来たか』と、御注意があった。見れば、なる
ほど馬鹿げている。現在の僕ならば、あんな事はしないであろう。し
かし僕は、先生から、いわれなかったら、見逃がしてしまったでしょ
うといったら、先生は、『君はまだ、そこがいけない、自分の興味の
ない事でも・全く無関係の事でも、気がつかなくてはいけないと思っ
ている。ただ我々は、自分のかかわりのあることのみ、気がつけばよ
い』といわれた。自分は、よく物に気のつく人や、深い興味を有する
人を見れば、自分も、かくありたいものと思うから、盆栽にも草花に
も趣味がありたい。自然の限りなき美しさを、先生の如く、ヘレン・
ケラーの如く、受け入れる事のできないのは残念だ。そのほか自分
は、あるいは機械の如きにも趣味・研究欲を持ちたいものだ。ラジオ
にしろ・自動車にしろ、あれほどまでに作り上げた人力は、驚嘆に値
する。エジソンやフォードの千分の一でもよいから、あんな研究心・
創造力を持ちたい。しかるに、自分の現在は、ちょっとラジオを組立
てでも、すぐ面倒くさくなる。簡単な自動車の機械でも、これを調べ
る事がややこやしいという具合に、自分の考え方が、先生のいわれる如
く、逆であって抽象的に悲観を重ねるようになるのである。」
この様な考え方は、皆さんの内でも、同感の方が、多かろうと思い 1
ます。
ただ気のつくものを見つめればよい
「多くの人は、さまざまの事に、興味を持ち、勉強するが、自分は、
趣味が少なく努力に乏しい、これではだめだ」と悲観する。これは神
経質の特徴である。この考え方は、みな抽象的で、前の職業選択の話
と同様に、逆の考え方である。我々は、あれにも・これにも・気をつ
けなければならぬと、抽象的に思想するのではない。ただ目にとまる
もの・気のつくものを見つめればよい。これが具体的であり・事実で
あり・実感であるのである。これは子供の心持になって、考えてみる
とわかる。子供のときは、軍人の金モールを見れば軍人になりたい、
汽船に乗れば船長になりたい、エジソンの話を聞けば発明家になりた
い、ジゴマの活動写真や鼠小僧の小説を見てさえ、また自分もそんな
事をやってみたいとあこがれる、という風に、その時どきの感じに従
って、興味をひくものである。それだけでよい。その時どきの感じだ
けでよい。それを逆に、自分の志願には、何が適するかとか、あれ
や・これやに、興味を起こさなければならぬとか・いう風に考えては
いけない。水谷君のように、自動車やラジオにも、興味をもってやら
なければならぬとかいう風に、思想をもって、自分をあてはめてはい
けない。そんな事をいっていては、勉強も何もできるものではない。
我々は、いつでもその境遇に応じ、時と場合とによって、物にぶつか
って行きさえすればよい。それによって初めて、後藤新平でも野口英
世でもできる。野口英世は、墨もないという赤貧で、母一人に育てら
れ、幼時、火傷のために、一方の手の指が曲がり、不具であったが、
小学時代に、ある人の好意で、手術をしてもらった事から、医者にな
りたいと志した動機になった。その後、その手術を受けた医者の玄関
番になり、医術開業試験に合格して、さまざまの境遇にぶつかりぶつ
かり、困難に打ち勝って、あんな風に、世界的の大学者になったので
あります。
水谷君のように、ラジオや自動車の機械を見る。あるいは興味をひ
く。それだけならばよいけれども、それに興味を起こして、その熱心
を持続しなければならぬ、という考えが悪いのである。法科大学生が
自動車に熱心になっていけない事は、常識では何も理屈にならない事
である。水谷君のように、先生が玄関で盆栽に気がついたから、自分
もそれに気がつかなければならぬ、などと考えるのは、随分おかしな
話である。しかし神経質は、こんなつまらぬ思想の矛盾にとらわれる
事が多く、そのために神経質の種々の症状が起こるのである。
そこでなお注意すべき事は、それなら我々が、興味をひく事は、サ
ッササッサと、思い流して、その熱心を持続してはいけないかと、逆に 2
反問してはいけないという事である。神経質には、この逆の問い方が
多くて、ますます思想を混乱させるのである。いつもいつもいう通
り、林檎は丸い、それなら、丸いものは林檎かと反問してはいけない
のであります。
休息は仕事の中止ではない、仕事の転換にある
山野井氏 私はいま、紙くずでも捨てないで、それで御飯を炊いて
いますが、よそに紙くずを捨ててあるのを見ても、もったいないと思
う。いつも隣の玄関脇に、紙くずが雨に濡れている事があるが、私は
それが濡れる前に、なんとかしたいと思うが、私はまだ思いきって、
それに手を出すまでには行かない。こんなときどうすればよいか、先
生にお尋ねしたいと思います。
森田先生 紙くずでもなんでも、有効のものが捨ててあるのを見
て、自他の区別なく、物そのものがもったいないと感ずるのは、我々
は、それに細かく気のつくほど、精神の発達したものである。しか
し、ただそれだけでよい。これに反して、紙くずを拾わなければなら
ぬという事にとらわれてはいけない。それはみな、時と場合とによっ
て違う事である。山に行けば、もったいないように、焚物が腐ってい
る。しかし拾ってくる訳には行かない。隣の玄関の紙くずを捨ててあ
る。しかしこれをもらってくるのも、能率があがらない。
しかるに僕の家庭のような場合には、例えば僕が種々の精神的の仕
事をする。その間の暇ひまに、廃物を利用すれば、それが同時に、掃
除になり整理になる。また「休息は、仕事の中止にあらず、仕事の転
換にあり」という風に、丁度この様な仕事が、精神の保養になるので
ある。それで僕の家庭では、ごみは、すべて燃えうるものは、五右衛
門風呂の燃料にする。その間、紙くずや・汚くないものは、ヘッツイ ヘッツイ:かまど
の焚物にする。また腐るものは、穴に埋め、または植木の肥料にす
る。燃料は、これを石炭に換算すれば、一貫目十銭の価値がある。そ
れでつねにごみは整理されて、いつも掃除ができて行くのである。以
前に東京市内で、ごみを捨てる運搬費が、一年に170万円とかであ
り、大掃除の時には、一区画に千円をも要するとの事である。僕の家
では、一切ごみは外に出さないし、平常掃除ができて、大掃除といっ
て、特別にごみの出る事はないから、もし一般の人が、私共の心掛け
であったら、東京市からみれば、相当に大きな問題である。しかしそ
の様にしなければならぬと、とらわれたら、そこにいろいろの間違い
が起こるのである。
江戸っ子はハキハキして、にぎやかです
石井氏 皆さんの間には、対人恐怖の方が、多いと思いますから、
私も一つ話させて頂きます。私は今度、熱海の旅館で手伝いをしていますが、 3