第9回 形外会  昭和6年1月18日

  午後3時開会。香取会長欠席、日高、山野井両氏副会長とな

る。来会者29人。

日高副会長の開会の辞あり。

  多くの知人を治した

 山野井副会長 今日は私が最近、神経質の知人を治した実例をお話

します。それは5人あって、不眠と便秘と赤面恐怖と気管支カタル恐

怖と朝起きのできないという人とであります。

 便秘の人は、5、6年来、毎朝、食前に食塩水をコップに一杯飲ん

でいる。それでも終始便秘に悩むが、東京の下宿から田舎へ帰るとす

ぐに快便があるという事である。この点で私は神経質の人の便秘では

ないかと考えた。すなわち父母のもとへ帰れば、便秘の不安などはど

うでもよくなるので、その生活状態の結果、自然に便秘がよくなるの

ではないかと思う。

それで私にまかせるなら必ず治してやるといって、塩水などを断然

やめ、そのほか通じをよくする目的の運動とか、軟らかいものを食す

るとかいうすべての方法を中止させる事にした。しかるにその後20

日間も便通がなく、自分も少し不安心になったけれども、悪くなれば

その人も放っては置くまい、医者にもかかるであろうと考えて、放任

して置いた。その後、初めから40日目に会った時に、彼は「近来快

便が出る。君のいう通り充分に実行はできなかったけれども、できる

だけはやった。最近赤倉でスキーをやって、その結果が非常によい。

多分温泉の効能であろう」といっていた。その男はまだ我々の生活状

態が自然になれば治るという事は知らない。

 (ぼう)婦人は朝起きができないといって苦にしているものであった。

「自分の身内が来て泊る時には、そうでもないが、主人の身内の人

が泊まれば気になって、自然に早起きもできる」とかいっていまし

た。私はそれは当然の事で、我々の自然の心である。重いものを持て

ば気が張るのと同様である。朝起もただその事ばかりを気にしていれ

ば、かえって苦しくて起きられなくなる。仕事が忙しくなって、気が

張るようになれば、自然に朝起きもできるようになるといって教え

て、その婦人も朝起きができるようになりました。

 親戚(しんせき)に21歳の対人及び不潔恐怖者があって、18歳から学校に

も行かず、昼は家に閉じこもって夜出る。歩くと人に見られるのが恥

ずかしいから、自転車に乗り、その提灯(ちょうちん)も家の名のついたのは人に知

られるからといって、無名のものを(よう)いるという風である。食事や風

呂の時間なども、これを違えると不機嫌で、女中や家族も非常に困っ

ている。私のところへ来るようにいっても、なかなかいう事をきかな

いからしかたがない。

  懺悔(ざんげ)すれば治る                      

 森田先生 今日御出席の内にも、赤面恐怖すなわち対人恐怖が一番

多い。およそ6人ばかりもあるようです。

 今日、副会長をお願いした日高君も、山野井君もともにそれであり

ます。今日もこの両君のお元気はどうでしょう。これが赤面恐怖だっ

たかと思うと、不思議ではありませんか。

 山野井君は、いままでこの会でも報告された通り、書痙の治った方

であるが、いま入院中の山庄(やましょう)さんは、お茶を飲むとき、左の手が震え

て、お茶をこぼすようになる。最近に私はこの方よりズッとひどいの

を診察した事もあります。これを茶痙とでも名付けましょう。まだこ

んな名は聞いた事がありません。書痙と同じように、従来、職業性痙

攣と名付けられているものであります。

 いま私が御本人に代わって、この事を紹介するのは、自分の悪いと

ころを告白・発表する懺悔という意味もあって、早く治る1つの手段

であります。もし自分でこれを発表する事ができれば、なおさらに早

く治ります。山庄さん、貴女は僕に紹介されると、まだ恥ずかしいで

しょう。これが恥ずかしいのは当然のこと、やむを得ない事と観念が

できるようになれば、その震える事がすっかり治るのであります。日

高君も山野井君もみな治った人は、みな自分は恥ずかしがりやであ

る、人前でまごつく、演説をしても声が震えるとかいう事を、ありの

ままに告白する事のできるようになっているのであります。

  医者が知ってくれなくて困る

 さて山野井君のお話で、同君は多くの神経質患者を治し、また前の

会では、石川君が不眠その他の患者を7人も治したということ、こん

な風に行けば、患者は非常に助かる。

これにつけても、私が常に残念に思うのは、医者がこの事を知って

くれない事であります。この病は治った人は皆よくわかる通り、実は

病ではない。神経衰弱ではない。ただ主観的のもので精神的のもので

ある。それで神経質の体験のある人には、その真髄までもわかる事が

できるけれども、体験のないものには医者でもわからない。外科や伝

染病などは物質的であるからわかりやすいけれども、精神的のものは

想像がしにくい。しかしながら微菌を顕微鏡で詮索するのと同じ骨折

りで、推理判断によってこれを知る事ができる。微菌の実験も神経質

の心理も、ただその発見者の教える通りに模倣すれば直ちに理解でき

るのに、不思議に医者がこの精神的方面の事を毛嫌いするのである。

とくに私共の不快に感ずるのは、神経精神科の医者で、やはり物質的

の方面を研究している人は、神経質に興味を持たない事である。

 これからこの会には、なるべく医者を誘うようにしたら都合がよか

ろうかと思います。                      

  私の著書は、常にできるだけ平易な言葉を使うように努力してあ

る。その内容の真実さと深さという事は、少しも言葉の硬軟には関係

はない。それで医者は私の『根治法』のようなものは、通俗だと思っ

て初めから手にとらず、『本態』のようなものは、少し込み入ったと

ころは、面倒と思って、ろくに読まないという風である。

 とくに日本の学者は、学問というものを、通俗と実用とから高く

離さないと威信を失う、という虚栄心が強くはないかと疑われるの

である。医者がドイツ語でいわなければ、偉くないように思うのもそ

れである。諸君はいかに感ぜらるるか。昔、万葉仮名で書かなくては

学者でない。その後の時代も、久しく学者は漢文で書かなくては、人

から軽蔑されると考えていたから、微細なこと・精密な事は、表現が

思うようにできず、文芸や学問が進歩を妨げられた事は推測に難くな

い事であろう。しかるにその時代に、女ならば学者でないから、俗語

でも仮名でも思うままに書いてもさしつかえないと考えたがために、

源氏物語とか枕草紙とかいうものができて、女によってかえって大文

学の先駆(せんく)つけられたようなものである。これは藤岡文学博士の説で

あります。このような訳であるから、人生の実際を離れて、いたずら

に高くとまり、学者ぶるとかいう事は、よくない事であります。

 さきほど日高君の開会の辞の中に、ここではすべての事を具体的に

研究するという事をいわれたが、誠によい言葉である。宗教とか人生論

とか論じるのも、面白い事ではあろうけれども、屁理屈などいってい

ては、スピード時代には間に合わない。ここに一言、その具体的とい

う事について説明すれば、例えば「生活を正規にせねばならぬ」とか、

「精神を常に緊張していよ」とか、そんな事は抽象的の事で、実際に

はなんの用にも立たない。ここではその言を例えば「7時間以上、寝

ていてはいけない」とか、「終日(しゅうじつ)戸外(とがい)にいるように」とかいう風に、

具体的に教えて、それで立派に生活正規、精神緊張の結果が得られる

のであります。これを抽象的にいうようでは、私のいわゆる思想の矛

盾で、かえってその結果は思う通りにならないのであります。

 またこの雑誌については、なるべく皆さんの希望と批評とを遠慮な

くお願いしたい。これを売るために書けば、その内容は、人の弱点に

つけこんで挑発(ちょうはつ)的になったり、虚偽になったりする事を(まぬが)れない。実

質的に真面目にすれば経済がなり立たない。皆さんの後援(こうえん)を待つより

ほかありません。

 先日私の心安い県庁の某課長に、この雑誌を見せたところが、少し

もわからないとの事であった。驚きました。我々神経質者と普通の人

との区別は、これほどまでとは思わなかったのであります。世の中に

実際の世渡りの上に、人生問題を考える人と考えない人との相違は、

恐らくは私の我田引水(がでんいんすい)の説でありましょうけれども、食う事に困らぬ

人と余分に財産のある人、あるいは読書する人としない人との相違の

ようなものではありますまいか。

  私は恥ずかしがりやです

 日高副会長 私は対人恐怖ですが、学校を出て後、1年ばかり中学

校の教師をした事があります。学校の往復で生徒に会うのが苦しかっ

た。朝起きるとすぐその事を考えて苦しんだ。生徒はよく騒ぐが、自

分にはこれを(しず)める能力がない。ここへ入院して体験した結果、心の

置き所が違うようになった。昔は下宿で洗濯などはとてもできなかっ

たが、今はこんな事をして後に、かえって愉快を感ずるようになっ

た。以前には道で上役の人を追い越す事ができず、後をついて行った

が、今は挨拶して先へ行く事もできるようになった。

  理論は実際の役に立たない

 世良(せら) 先日、倉田百三(ももぞう)先生のところへ行った時に、先生は強迫観

念のような精神的の苦痛は、精神力で克服する事ができるが、肉体的 

の苦痛に対しては、しかたはないだろうか、例えば拷問(ごうもん)せられて答え

ずにいるとかいう事が・・・・・とかいうようなお話がありました。

 森田先生 苦痛という事は、苦痛と名付ける事もしくは考え方であ

り、または苦しいという感じで、主観的のものであるから、精神的で

も身体的でも、その苦しいと感ずる事は同様である。いずれが苦しい

とかいう区別はない。「心頭(しんとう)減却(げんきゃく)すれば()亦涼(またすず)し」といって、苦痛

そのものになりきってしまえば、そこに比較なく、名状(めいじょう)なく絶対にな

るから、苦痛と名付くべき何ものもないのである。

 しかしながらそれを単に文字通りに解釈して、麻酔薬を(もち)いた時と

か、麻痺した身体とかいう風に、実際に苦痛がなくなれば、生命を保

護する事ができず、実際に空腹にならなければ、生きる事はできな

い。ただ感じつつもこれを感じないのが心頭(しんとう)減却(げんきゃく)である。ただこれら

は体験によってのみわかる事であって、決して理論でわかるものでは

ない。

 ただいま出席された中村君は、入院前にあらゆる哲学書を読んだ

が、結局、悪知の集積というよりほかに、うるところがなかった。つ

いに入院して全治したのであります。

 古閑先生 理屈や哲学的の事が役に立たないという事は、最近『西

部戦線異常なし』を読んで感じた事がありました。その内に18歳の

青年が、「10年間の学校教育よりも、戦線10週間の方が感銘が深かっ

た。それは抽象的でなく、実際であるからである。ショーペンハウエ

ルの哲学よりも、金ボタン一個を光らせておくという事が、実際の役

に立つ」というような事がありました。

  余計に痛がる人がある

 高浦氏 ただいま痛みの問題が出たが、医者は日常この事について

もいろいろ考えさせられる。患者で同じオデキに対しても、非常に敏

感の人と、よく堪えられる人とがあります。あまり敏感で医者も随分

困らされる事もある。この痛みに対して、普通、感受性が強い弱いと

いっているが、神経質は一体に感受性が強いのであろうか、また感受

性の強い人は、すべて神経質であろうか。「心頭減却」という事も患

者がそうならぬからしかたがない。なんとか方法はないでしょうか。

 森田先生 古閑君、この痛みの事について医学的に説明して下さい。

 古閑先生 今の医学では、患者はあまり薬物に頼るので、精神的に

は、患者は少しも苦痛に堪えようとしない。痛い時にこれを止めてや

らなければ、患者も医者の技術を疑うようになるから、医者もツイツ

イ、麻酔薬・鎮静剤を与えるようになる。私はここの患者は勿論、東

京病院の患者でも、なるたけ薬物による害毒を避けるために、患者に

苦痛を辛抱するようにしむけています。すべて苦痛というものは、肉

体的でも精神的でも、同一のものと私は信じています。

 高浦氏 私は痛みの病理なり心理なりを、もう少し詮索してみたい

と思います。これがお尋ねしたいと思うところです。私は元来、自分

が痛みに対して弱いからであります。私は歯も痛むし、蜂窩(ほうか)織炎(しきえん)(たん)

(どく)にかかった事もある。そういう痛みの激しい時には、なんとかこれ

を除く工夫をする。そしてモヒなどを注射したりする。そういう時に

何かよい方法はなかろうかと思う。

 古閑先生 いま1人、内科に慢性呼吸困難の患者があるが、パント

ポンを注射していたので、ほかの薬では承知しないで困る。医者が患

者の望みに従わないと、ほかの医者に行くから、普通の医者のなかな

か難しいところである。

  痛みの病理

 森田先生 痛みの理論をちょっと説明してみようと思います。しか

し皆さんに望む事は、理論は興味であって、実際ではないという事を

常にわすれないようにしてもらいたい。理論は実際に是非必要のように

考えて、それからそれへと進むと、ますます実際から遠ざかって行く

という事を忘れてはならないのであります。ここに茶碗が、1円のと

10銭のとがありますが、興味は非常に違うけれども、実用には変わり

がないと同様であります。これは勿論、ここの修養についての第一の

心掛けを注意するまでの事であって、一般論ではありません。

 疼痛もしくは苦痛に、末梢神経性と、脳中枢性と精神的のものとが

ある。歯痛などは末梢性ですから、その痛みを止めるには、脳中枢を

麻痺させるところのモヒ注射などよりも、末梢性に働くアスピリンの

ようなものがかえって有効です。それで歯痛や、ロイマチス性の痛み

やあるいは慢性呼吸困難とかいうものに、モヒとかパントポンとかい

うものを濫用(らんよう)すると、には丁度酒を飲んで酒癖がつくように、モヒ

類の陶酔の気持が忘れにくくて、いつしかモヒ中毒にかかるような事

がある。薬もその適用を誤っては有害になります。

 また、これは多分中枢性のものかと思いますが、例えば腕を失って

いる人が、ときどき元あった指の先に痛みとか(かゆ)いとか感ずる事があ

る。これは現在は指がないのであるから、末梢性ではない。

 また抑鬱病という精神的がある。これは脳の変化から起こると考え

るよりは、むしろ胃病から心配性になり、生殖器病から悲観的になる

という風に、全身の一般感応から、反射的に精神病の苦痛・懊悩(おうのう)とな

るものではないかと思われます。今日まだその明らかな病理はとらえ

られておりません。

 これは精神的の本来性、もしくは特発性で実際の苦痛であるが、私

は同じ精神的のもので、明らかにこれと区別しなければならぬところ

の観念性、もしくは続発性のもので、実際でなく想像的のものがある

という事を主張する。これはまだ一般の医学が認めていない所であり

ます。

 私がかつて大学助手時代に、24歳くらいの白痴で、言語を10か

20しか持たないものについて、痛みの観念という事を実験した事が

あります。その白痴に手の皮膚病をちょっと手術したのである。その

時に患者のその手を後ろに回し、前では看護婦が、菓子や芋やを患者

に見せびらかしながら、後ろでその手を手術する。患者は額に汗をか

き、苦痛の表情はあるけれども、自分の手が切られているという事は

知らない。手術を終われば、患者はお芋をもらって、喜んで、はしゃ

いでいるという風である。この患者も血を見たり、外科器械を見せれ

ば、恐れて声を挙げて逃げ出すのであるが、目に見えなければ、その

訳を知らないのである。半年未満の小児に手術する時も、多く麻酔薬

なしにやる事があるが、手術中は泣くけれども、手術を終わると同時

に、ケロリと泣きやめるのである。

 成人はこれと違う。人の手術を見ても、自分がズイズいと痛いよう

に感ずる。自分が手術を受けるにも、実際よりも観念の痛みが強くて

かつ持続するものである。

 私のいう神経質の苦痛は、実際のものでなく、私のいわゆる精神交

互作用によって、自ら増悪させた観念性の苦痛である。一部の学者

は、前の抑鬱症とこの神経質のあるものとを混同して考える事がある

けれども、その本態が違うから、その療法を誤るときは、かえって有

害であって、病を増悪させるばかりであるから、充分に注意しなけれ

ばならない。

 「心頭減却」とは、苦痛に対する想像すなわち精神交互作用を全く止

める事で、すなわち苦痛に対する批判をやめて、苦痛そのものになり

きる事である。これによって神経質の症状に、本来観念的のものであ

るから勿論全治する。さらに「火も亦涼し」というように、実際の疼

痛でも、これを感じなくなるものである。ただしこれは高浦君のいわ

れるように、患者に対して「心頭減却せよ」と教える訳には行かな

い。これを医術に実行しうるものは催眠術であって、これはいつで

も実験する事のできるもので、つまり苦痛という観念を取り去る事で

ある。これで小手術もできれば、痛みなしにお産もできる。歯痛など

は軽度の催眠で痛みを取る事ができる。しかしながらこれを誰にで

もかける事はできない。神経質の人にはとくにかかりにくいという事

が最も都合の悪い事であります。

 一般の場合に、医者として患者を取扱う場合に、患者をして痛みは

しかたがない、どうにもやむを得ないと思わせて、その苦痛をそのま

ま忍受するようにしむける事が、心頭減却させるところの方法であっ

て、おのおの医者の実際の手腕に待つところであります。

  (えん)なき衆生(しゅうせい)()(がた)

 山野井氏 私共の周囲にも、随分苦しんでいる神経質者があって、          

救ってやりたくてたまらぬけれども、なかなか私共のいう事をきかな

いで困る。なんとか仕方はないものでしょうか。          

 森田先生 僕のいう事さえもなかなかいう事を聞かない。どうもし

かたがない。これを「縁なき衆生は度し難し」というのであります。

しかし皆があまり治ってしまってもいけないから、少しは治らぬ人も

なければ面白くない。種がなくなってしまう。

 藤枝夫人 私はどうも腹がたちやすく、その時は心悸亢進が起こっ

たり、胸苦しくなったりしますが、そんな時はどうすればよいでしょ

うか。なんとか腹の立たないようにする方法はないものでしょうか。

 森田先生 腹が立って苦しく、いろいろの気持になるのは、寒い時

に震え、暑い時に汗が出るのと同じように、ある事件に対する腹立ち

という反応であり、現象であるからこれをどうする事もできない。こ

のとき腹を立てないように工夫する方針をとると、その人はしだいに

ヒネクレの方に発展する。ただ腹の立つのはなんともしかたがないか

ら、その衝動をジッと堪え忍んでいさえすれば、それが従順というも

のであります。これは体験すればなんでもない事で、理屈ではちょっ

と思い違いやすい事であります。

  学者の療法と通俗療法との差異

 森田先生 通俗療法には勿論いろいろの弊害があるが、立派な医学

者にも、随分いろいろの思い違いがある。神経質に関係したもので、

眼性神経衰弱とか性的神経衰弱とかいうものがこの頃盛んに流行する

ようになった。しかるにこれは神経質というものの病理を知らぬため

に、殆ど通俗療法と同様の結果になる事が多い。ここの患者には、こ

れらのいやな経験をなめた人が非常に多い。

 ○○博士は角膜表層炎を治療して、心悸亢進症の危篤なものが治っ

たとか、○○博士は潜在遠視の眼鏡矯正によって、強迫観念が治った

とか、○○博士は性的に対する注射を2、3ヵ月もやって、重症の神

経衰弱が治ったとかいう報告があり、著書がある。しかしながら眼を

治して神経衰弱が治ったから、神経衰弱は目に原因しているという論

理は、紅療法やオキシヘラーでいろいろの病気が治ったから、これは

その病に有効であるという通俗の説明と同様で、少しも学術的ではな

い。すなわちその療法によって、(なに)(ゆえ)に治ったか、という病理を明ら

かにしなければ、偶然に治ったものと区別ができないから、これを信

ずる事はできないのである。

 我々はこの神経質患者のために、いろいろの気の毒な誤りたる治療

法が立派な博士によってさえも行われているけれども、いたずらに職

(かたき)と見られる恐れがあるために、いちいちつっ込んで、これを論議

することができないのは遺憾である。                        

 真鍋氏がかつて温泉の事を研究して、ところどころの温泉のラジウ

ム含有量を調べた事がある。これによって学術的には、その温泉の効

力の如何(いかん)が定まるのであるけれども、これを一般に公表する事ができ

ない。なんとなればあるいはこれがために、従来一般の評判になって

流行している温泉が、たちまちその声価を落とすようになる事がある

からである。この様に世の中は、なかなか理屈一遍に行かないところ

にいろいろの残念な問題がある。

  午後6時、晩餐会後余興に移った。

   まず「職業当て」と称し、1組2人の背に、芸者・医者・女

  中など書いた紙片をつけ、互いにこれを見せ合いたる後、決し

  て言葉を用いず、身振りのみで、これを相手に知らせる。

   次に「トエンティー・クェッション」と称し、相手が例えば

  電灯・鯛など、ある一つの物の名を考えているのに対し、20

以下の問答にてこれをいい当てるものである。その問う方の人

は例えば人工物か、鉱物質か、この室内にあるかなどと問い、

答え方はイエスとノーとのほかは答えてならぬという規則であ

る。__9時頃散会

          (『神経質』第2巻、第5号・昭和6年5月)