第十三回 形外会   昭和六年六月七日

   東村山(ひがしむらやま)貯水池(ちょすいいけ)へピクニック

 午前九時、高田(たかだ)馬場(ばば)(えき)集合、森田先生御夫妻・御家族二名・古閑(こが)

野村の両先生が御参加下され、会員十三名、在院中の五氏を加えて、

一行二十四名で、予告者中一人の不参加者もなかった事は、さすがに

神経質の特質を示して、ことに御多忙の香取会長も、とくに行をとも

にして下された事は、一同の喜びであった。九時三十六分発、途中、

二度乗り換えて、十一時・貯水池に着く、持参の「神経質」二十部を

人びとに渡した。よくよんでいる人・ちょっと見て捨ててしまう人・

初めから「いりません」という人など種々(しゅじゅ)ある。よく読んでくれる人

は、我々も嬉しい。捨てる人・受け取らぬ人は随分(ずいぶん)欲のない人だ。()

脱哲学(だつてつがく)の実行者なのか。しかし、それらは二、三人のみであったのは

心強かった。

 第二の坂下(さかした)芝地(しばち)は、ゆったりと傾斜(けいしゃ)して、実に気持がよい。電車

から降りた一同は、この一目ですっかり満足の様子だ。気象台の予

報に、気づかわれた天気も、全く心配なく、(ゆる)やかな日差(ひざし)しで、満

点の遠足(えんそく)日和(びより)。カンカン照りつけられたらたまらない。途中先生のお話

があった。「団体行動には、どうしても先導者(せんどうしゃ)がなくてはいけない。

このくらいの小団体でも、統制(とうせい)する事はなかなか難しい事である。お

のおのが実際に、自ら規律(きりつ)を守って行く事のできず、自分勝手に振る

舞う人に限って、当世(とうせい)流行(りゅうこう)の社会主義に雷同(らいどう)する。」

 一同中腹の芝地(しばち)に腰を下した。日高副会長は、案内の準備に先に進

んで行った。もうお腹のすいた人びとは、弁当を食べている。先生は

水がなくても、弁当にさしつかえないとの事である。それは昔、学生

時代に旅行して伝染病の恐ろしさから、水を飲まずに通した事から自

然に修養された結果であるとの事だ。「お宅にいられる時は、人一倍

お茶を召上るのだが・・・」と古閑先生が笑っておられた。先生の奥様

はどこからか「いたどり」の少し大きくなり過ぎたのを取られて「こ

れは食べられますよ」と教えられた。

(せき)の上へ出た。水、水。「湖だ・・・」「まあ・・・」「貸舟を・・・」

「どこから水が・・・」ドヤドヤと声が起こった。池と呼ぶには大きす

ぎる。きれいな水だ。泳ぎたくなる。「このままでは少し()しい」。誰

かが言った。「飲料水だから舟を許さないのでしょう」と野村先生。

この奇麗な水の上へ、遊覧船を出してくれたらと思った。物を投げ

入れたり、不潔な事を禁じたら、衛生上もさしつかえはなかろうと思

う。一行は松林に陣取って弁当を開く。先生は先に上の(せき)へ自動車で

向かわれた。ここで、上下両水面が見渡せるベンチで弁当を開いた。お

茶もなかったが、うまかった。大西さんが、バナナと夏蜜柑(なつみかん)を持って

きてくれた。

桜井氏が口を開かれた。「日本はなぜ、外国のように、偉大な人、

ことにエジソンの(ごと)発明家が出ないのでしょうか。」先生はこれに

答えて、「日本対外国の比較は、土地でも、人口でも、世界の何十分

の一かでしょう。もしエジソンが世界に三、四十人もいれば、日本に

も一人くらいいてもよいでしょう」と答えられた。

一同、上の(せき)へ集まったので対岸へ向かった。そこに市の主張所が

ある。池の中へ突き出た橋のようなものが見たいので、お願いをした

ら、係員の方が見せてくれた。見れば別に面白いものでもないが、や

っぱり見たいものである。中に目盛りの細長い板があり、それが自動的

に流出量を示すこと、上の池と下の池との水面の差が、四十五尺ある

ことなど吏員(りいん)が説明してくれた。四十五尺の差とは意外であった。

日高氏が我々全員を写真に撮った。野村先生も盛んにパチパチやって

おられた。(せき)から少し離れた雑木林の中にひと休みして、サイダーを

飲んだ。このサイダーは、実にうまかった。各自自由に林中を歩き回

った。やすえさんと小野さんと越川さんと一団になって、盛んに何か           1

掘っていた。青葉の下は全くいい気持ちだ。先生もやがて、あちこちを

歩き始められた。先生は古閑先生とネムの木を掘っておられた。時ど

き毛虫に出会う。奥さんの折箱の中には、松、杉、山つつじ、ささご

けなど、沢山の名も知らぬ木や草が一杯になった。

三時半頃、一同下の(せき)にもどって、いよいよ帰りだ。一台の自動車

が往復して全員の到着を待つ間、先生と奥様とやすえさんたちは、名

も知らぬ小さな豆を芝草の間に探して()んでおられた。先生は「疲れ

ても、小児のように、花なり豆なりをそこらに、目に触れるままに採

ってみたい。 野に来れば野になり、風呂(ふろ)()きの時は風呂焚き、診察の

時は診察と、常にその時どきの同じ心持である。今の現在に価値批判

はない。いずれも全体に心が傾注(けいちゅう)される。しかるにある人びとは、山

に来て山になることができない。一緒になっていつでもできるよう

な、実用にも立たぬ議論をしている」といわれた。

途中歩きながら、香取氏の話、「ある学者は先生の説を学術的でな

い、理論的でないと非難するそうである。先生は実際に合うからよい

ではないか、といっておられる。学者もいろいろの意見があるもので

す」。

誠に今は理論の時代のようだ。外部の自然現象に対しては、そのま

ま理論が適用されるであろうが、自分自らを理論にあてはめる事はで

きない。理論と実際との間には、あまりにはなはだしい(へだた)りがある。

少なくとも神経質は、理論では救われない。実際にあう先生の教育こ

そ、正しい理論ではないか。現代が理知の時代なら、次に来るべき時

代は体験の時代、総合的の時代でもあろうか。理知(りち)至上(しじょう)が行きづまっ

て新たに開かれる時代こそ、神経質者の・・・これは空想の大脱線。

古閑(こが)先生に松の木の下で、「動物の中で猿だけは、少し顔を赤くす

る。で猿はほかの動物よりちょっと偉い。人は内に誇りのこもれる恥

ずかしさの時は赤くなる。恐怖の時は青くなる。私も形外会などで話

をする際は赤くなる。赤くなるのがよいから赤くなるのではない。悪

くてもしかたがない」などと患者を笑わしておられた。私は「赤面恐

怖は電車に乗って、人びとに暑くて顔が赤いのだ。と思わせるため

に、帽子で扇いだりするとは、赤面恐怖もなかなか大変な工夫をする

ものだ・・・」との高良先生のお話を思い出した。自分も以前そんな事

をやったのを思い出して、おかしくなった。                  

「赤面を帽子で扇ぐ的はずれ」

四時二十五分、貯水池発。今日の遠足で麦の熟したこと、青葉が一

杯に開いた事など、初めて気がついたように思われた。家にいても、

青葉は見ているが。やっぱり(おもむ)が変わって、頭にはっきりと感じ

る。車中古閑(こが)先生に質問した「I氏は、強迫観念を説明して、『例え           2

ば家を出て、火鉢(ひばち)の火を埋めてこなかったような気がして心配にな

る。帰って見ると、ちゃんと埋めてあるので、なんの事だ、という事

になるが、この心が火の強迫観念である』というが、これでは森田先

生の教えるところとは違うようである。医学的の説と、普通心理とで

は意味が異なるのであろうか」と。

古閑先生はこれに対して「それは、普通の気にかかる心配する程度

のもので、排除(はいじょ)せんとする心がなければ強迫はない。M医博なども、

そんな事をいっておられるが、専門違いなのだから」と説明された。

電車は大分込んだ。一同も相当疲れたように見える。六時、高田馬場

着、解散。幹事は先生宅に帰った。病後の先生は、相当お疲れの事と

思われたが、随分達者になられた事は嬉しい。帰宅されても早速、採

ってきた木を植えておられ「こんなものでも、自分でやらなければ気

がすまぬ。値打ちがないからという価値批判はない」などお話があっ

た。                      (井上・記)

         (『神経質』第2巻、第8号・昭和68月)