第7回 形外会 昭和5年11月9日
神経質全治者の座談会
午後3時開会、出席者29名。まず香取会長、開会の辞を述
べ、本会は先生御令息の追悼会の意味をも加える事にした。
次に例の如く各自の自己紹介があった。
次に幹事から、次会には一同の写真を撮る事の相談をした。
香取会長はまず先生の唯一人の故御令息に対する哀悼の辞を述べ
られ、次に先生のような修養をされた方はこの様な時に、普通の
人とどんな風に違うか。その御感想を伺えば、一同の修養上の
参考となるであろうといって、自己の感想を述べられた。
先生の慟哭
香取会長 私も告別式のときは、先生のそばにおりましたが、納棺の
時は先生の非常に悲しまれ、腸を断つように慟哭されました。出棺の
時も、先生は門前で霊柩車を見送られましたが、のち二階に帰られた
時は、はや光風霽月といった風に他の事の話もされて、全く別人の如
き態度になられたのを見て、私も非常に感銘したのであります。「心
は万境に随って転ず」という風に、こんな時に、先生がどうしてこの
ように急変されるのか、その心境を説明して頂けるならば、はなはだ
幸いかと思いますが、皆様の御賛成はないでしょうか。
恐ろしい事は聞きたい
森田先生 僕は身内の者の死に会ったのは、高等学校時代に伯母
と、大学卒業後、弟が旅順で戦死し、大正12年に、父が71歳で
亡くなり、 今度は子供を亡くした経験を持っています。これは経験
しなければ想像のできない事で、子を持たぬ人には子の愛はわからぬ
し、結婚しない人には夫婦の感情という事はわからぬ。これらの事
は、皆自分で経験しなければ、想像した事では、非常に間違いの多い
もので、結婚しない人は、実際には媒介のできないものであります。
肉親の者の死に遭うという事も、これを経験した人同士でのみわかる
事であります。
しかし我々は、珍しいこと、恐ろしいこと、変った事は知りたい聞
きたいものである。それでこの意味で私の事を話しても面白かろうと
思う。その前にまず皆様の内で、このような経験を持たれる方のお話
を少しく伺ってはどうでしょうか。
死んだとは思われない
どなたもお話がなければ、まず断片的に、私がお話しましょう。日
露戦争のとき、慈恵院医学校の3年級であった私の弟が旅順で戦死し
た時は、私も非常に悲しかった。その後10年間くらいは、死んだとい
う事を、はっきり考える事ができない。あるいはロシアの捕虜にでも
なって、偶然に帰ってくるような事はないかと、奇蹟を憧憬するとい
う風であって、兵隊を見るたびに、そのような事を考えたのでありま
す。
「神経質」の12月号から「正一郎の思い出」として、出す事になっ
ていますが、こののち引続いて書いてみるつもりであります。
さて追悼会という事は、故人の昔を思い出して悲しむという事であ
り、追善供養とかいうのは故人の悪を捨てて、善き事のみを思い出
し、これにあやかり、その人を惜しむという事かと思われます。
死んだ人は、月日を経るに従って、追いおいと思いだす事が少なく
なり、忘れられて行く。このしだいに忘れるという事が寂しくて、忘
れたくないという心が働く。先代萩の芝居を見て、泣なければ面白
くない。泣けないようなその芝居はいやになる。これは自分の感情の
鼓舞さるる事を喜ぶもので、単に自己的であるが、身内のものの死に
対しては、これを忘れるという事は、その死んだものがかわいそう
で、気の毒であるという気分が、多分に含まれているようである。こ
こに追悼とか追善とかいう事が、必要になってくるのではあるまい
か。
しかるに今の私の身にとっては、まだ思い出す事が多くて、少しく
立ち入った事の追想になると、胸に迫って話することができない。すな
わち現在では、私は子供の事についての実感をいうことはできず、ただ
抽象的の事のみお話する事ができるのであります。
死んだ人の家へ悔やみに行く人が、よく「死んだ人は、どうせ帰
らないからあきらめるよりほかにしかたがない」とかいって慰めよう
とする人がある。大きなお世話である。そんな事を知らぬ人があろう
か。しかし感情は、そのように簡単ではない。当然に死ぬべき病気で
も、親の心は最後まで、これを死ぬとは思わず、奇蹟的にも助かると思
い、また死んでも帰って来るような気がし、灰になっても、まだなくな
ったように思わない。否、そう思うのがあまりに恐ろしくて、ハッキリ
と理知で、そう認定する事を避けて、我と我心をぼかしておくという
風であります。「死んだ」という事の意味を明瞭にする事が恐ろしい。
これは理知ではなくて、そのままの感情そのものである。こんな風で
あるから、その直情のままに、悲痛に迫って、小児のように慟哭す
る。純なる感情であるから、日を経るままに。しだいにその悲しみ
も薄くなり、忘れられるようになる。小児の感情が、早く変化しやす
いのもこのためである。
幽霊にでも会いたい
なお追慕の情という事について、私の妻が、幼少のとき、村でごく
敬愛していた人が死んだとき、今では夜中、便所へ行くさえも、恐
ろしかったものが、その人の幽霊にでも会いたいと思うため、夜の寂
しさが、少しも恐ろしくなくなったという事がある。
私もいま子供の夢を見る事も、ごくまれであるが、心の中には幻覚
でも幽霊でも構わぬ、その顔を見たい、その声を聞きたいのである。
これを神経質の病気を気にするという事と比較すれば、自分が幻覚
で、精神異常を起こすのではないかとか、幽霊の神秘が気味悪い、と
かいうような自己中心的の考えは少しも起こらない。自分は気が狂っ
ても、地獄におちても、ただその子に会いたいという心がいっぱいで
あるのである。すなわち心は決して自分の事ばかりに内向的に向わず、
一途に外向的にその子の事を悲しむだけである。これがあるいは純
情ではなかろうかと思われるが、あるいは下手に悪く、自分の理知を
こねまわす時には、いろいろの考え方を工夫して、かえって自分の直
情を認める事ができないのではなかろうか。
野村先生 私は中学卒業後、受験でたびたび失敗し、ようやく慈恵
大学に入学できましたが、受験後、落第という事が決まった後にも、
自分では直ちに、そうとは信じられず、あるいは及第しているけれど
も、何かの行き違いで落第になり、後からその事がわかって、入学の
通知がくるのではないかと、空想した事もあります。今の先生のお話
と、張りつめた気持という点で、多少似通った点があり、いくぶん先
生の御心を察する事ができるように思われます。
婦人の後ろ姿を見て亡き母かと思う
中島君 私は中学4年のとき、父を亡くし、中学卒業後、母は「可
愛い子には旅をさせよ」といって、私を北海道の姉の農場にやりまし
た。その後3年目、今から7年前に、母がまた死にまして、私一人に
なってしまいましたが、百姓をしていてもしかたがないので、慈恵大
学へ入学しました。
母が亡くなって後、長い年数、例えば東京駅などで、百姓姿の婦人
を見受ける事がありますが、その後ろ姿を見てそれがなんとなく、母
のように思えてならず、わざわざ前に回って、その人の顔を見なけれ
ば、承知ができない気がいたします。年がたつに従って、悲しみも少
なくなってはきますけれども、今でも時どき母を思い出しては、思い
ざま泣いてみたいような気がします。
主義や理論がなければ直情のままになる
森田先生 香取君がいわれたように、僕が悲しい時に慟哭して、ま
もなく後で、ケロリとしているという事は、いろいろの理由もありま
しょうが、その最も大きな条件は、年とって図々しくなるという事
かも知れません。小児は無邪気であるから、泣くも笑うも変わりやす
い。その外聞を構わないという点においては、小児と老人と同様であ
る。その違う点は、老人は酸いも甘いも、多くの経験を積んでいるか
ら、その感情が微細にわたるという事であります。
これに反して若い人、心掛けのよい人、道学者あるいは武士道とか
いうものでは、男は泣いてはならぬとか、人に対して失礼である、み
っともないとか、あるいは諸行無常と悟ったとか、おのおのその主義
や理論や片意地やで、感情を抑えているのであるが、私にはその様な
主義や理論がないから、感情のままに小児のようになる。それでもさ
すがに告別式とか、多数の人の前では神妙にしているが、それは自然
にきまりが悪いからであって、心安い人ばかりの時は、耐えきれない
で泣くのでる。そういう風であるから、泣いてしまえば感情が放電
されて、心が晴れてなんともなくなるのである。
これを私の妻と比較すると、妻の方にはいろいろの理屈がある。ど
うすればこの悲しみに堪えられるか、これから先どうして生きて行か
れるかとか考え、あるいはあきらめる事についても、さまざまに工夫
をする。
僕の方でいえば、死は当然悲しい。どうする事もできない、絶対で
あって比較はない。7歳の子を失うも、20歳の子を死なすも、変死
でも、長い間の病死でも、いずれもその親の心にとっては全的の絶
対の悲しみである。人に憎まれる悪い子は、それがかわいそうで悲し
く、人に褒めらるる良い子は、その事が惜しくて悲しい。「もろとも
に苔の下には朽ちずして、埋もれぬ名をきくぞ悲しき」。またこの悲
しみを、どうにもあきらめうべきはずのものではない。ただしかしな
がら一定の時日を経る間に、悲しむままに悲しみがなくなり、あきら
めないままに、自然にあきらまるのである。
私もかねての想像では、子供が亡くなれば、自分は身も心も取り乱
して、とても生きてはいられぬかと思ったけれども、実際にぶつかっ
てみれば、やはりなるようになって、このままに生きて行かれ、こん
な事も話する事ができるようになるのである。
繰り言をいうほど悲しみは深くなる
また日常茶飯事のことで、事ごとに子供の事を連想する事は、日を
経るに従ってしだいにその度が減ずるけれども、絶えず悲しき連想が
電光のように、心の内にひらめくのであります。例えばちょっと本を
読んでも、あの子がかつて、器用にすばしこくページを操っていたこ
とを思い浮かべ、落語を読んでも哲学書を見ても、極めて突飛な事ま
で思い出す。例えば落語で「懐は温けえかえ」といえば、あの子が、
腹へ湯タンポを入れた事を思い出し、あるいは中庸を読んで、「以て後
の学者に継ぐ」とかいえば、直ちにあの子が、「お父ちゃんの後を継
ぐ」といっていた事を思い出すとかいう風で、とても想像もできない
ような連想であります。普通の人はこれを思うがままに、サラサラと
思って、思い流して行くから、直ちに忘れて、自分で思った事さえも
気がつかないのである。
しかるに僕の妻は、心安い人がくれば、相手は変わっても主は変わ
らず、子供の生前の治療手抜かりの事や、さまざまの残念の事をく
り返して、その人に訴える。ちょっと考えると、それで自分の悲しみ
の感情を放散して、安楽になるようである。しかし、それは例えば腹
の立つ時に、悪口・雑言で放散してしまうば、一時は気分も清々する
けれども、その事が後で気がかりになり、後悔になって、同じ事を反
復するごとに、ますます不快を重ねて行くようになる。すなわち忿怒
は、そのままじっと堪えるほうが、最も安楽への近道である。
ここの治療で、頭痛や強迫観念を常に口外し、人に訴えて、同情を
求めてはいけないというのも、これと同様の理由である。
僕は自分の悲しい思い出の事についても、妻にでも親友にでも、こ
れを話すには、まずこれが互いの共鳴するか、あるいは有効であり参
考になるかと考慮して、しかる後にするから、人に話すような事柄が
非常に少なくなり、不言で終わる事が多いのである。このようにして
悲しみの印象が、しだいに強くなるような事がないのであります。
どんな腹立ちでも3日も我慢すれば喧嘩はできない
香取会長 私は先生の本は随分、くり返して読みましたが、博士論
文の内に、感情の法則というものが3つある。その一つは感情はそ
の衝動を発表すれば、頓挫し消失する、例えば飢えた時食を摂れば、
その苦痛が去るとか、あるいは結婚は恋愛の終結であるとかいう様な
ものであるといわれております。
また一方には、感情はそのままに堪えて、これを放置して置けば、
しだいに消失する。例えば忿怒して喧嘩をしようと思っても、これを
そのままに堪えて、3日もたてば、その感情も自然に消えて、喧嘩を
する機会もなくなるようなものである。
この二つの法則の関係が込み入っていて、はっきりわからなかった
が、今夜の先生のお話で、この関係がよくわかりました。
森田先生 つまり感情は、自他のために害になる悪いものは、これ
をそのままに抑えて、自然に消滅させるがよいし、良い感情は、これ
をしばしば表現して、これを心に深く印象して修養して行くべきもの
と思います。
是非・善悪に一定の標準はない
桜井君 我々が日常の事で、してよい事と、抑えなければならない
事と、是非・善悪について、何か便利な大体の標準というものはない
でしょうか。
森田先生 僕のところには、善とは何ぞ、とかいうような標準など
は一切用いる事をしない。是非・善悪・大小とかいうものは、相対的
のもので、常に時と場合とで、変化極まりないものである。大きな
虫、小さな牛とかいうように、一寸もしくは一間以上が大で、それ以
下が小とかいう事はない。すなわち小とは何ぞ、善とは何ぞという事
は、細胞では天体では、とかいう条件があって、善の哲学とかいう難
しいものができるのであります。
理論で定める事は容易な事でないが、日常の実際では少しも難しい
事はない。理論でいえば、栄養物を摂る事は善で、人を殺すことは悪
であるが、それも空腹で食えば善で、満腹の上に御馳走をつめ込めば
悪である。また戦争では人をも殺さなければならぬ、とかいうような
ものであります。
話は少し違うけれども、ここで最も忌む事は、思想の矛盾もしくは
悪知と称して、我々の行為を一定の型にはめる事である。実行は常に
そのことごとに当たって、実際でなくてはならない。さきほど、柿原
さんの質問で、頭痛がして嘔吐するような時に、やはり無理に押し通
して、働かなければならないかとの事でありましたが、これは疲労の
ためか、単なる神経性のものか、おのおの場合によって違うもので
あるから、これに対して一般の規定として、お話する事はできない事
であります。一般にお話するには、極めて複雑なる条件付きの説明を
要する事になるのであります。
修養という事は、実行の復習であって、思想の規定ではない。撃剣
のようなもので考えると、最もわかりやすい。これは相手の隙間に打
ち込み、受け止めるには、こうするとか思想判断する余地は少しもな
い。打つもはずすも、そこに間一髪もない。いわゆる電光石火の機が
それであります。
少し話が脱線しましたが、つまり思想を排し、直覚と実行とから出
発する、という事を強調するにとどまるのであります。
二男坊の不平
香取会長 前にここで、私と同時に入院していた人で、近頃私に手
紙をよこして、非常の苦衷を訴えてきたのがあります。
第一に、この人は、次男であるが、新潟県では、地方の風習とし
て、長子偏重だそうです。この人の父親は、その極端な人で、この人
は次男という事のために、病気でも親の世話になる事ができず、三番
目の弟に頼んだ事があるが、父親はその弟に手紙を出して、その次男
を世話しては、お前のためにならぬから、追い出してしまえとまでい
ったそうであります。
第二、この人の入院は、家庭的の煩悶と不眠とであったが、今度
肋膜炎が再発して苦しんでいる。
第三は、今までは妻君の家から、困った時の補助を受けていたよう
であるが、最近その家も没落して、補助を受ける事ができなくなっ
た。同君は子供が一人あるらしく、この妻子を擁して、一体どうした
らよかろう。先生に相談も出来にくいから、私に相談するとの事であ
ります。こういう人も世の中にはありますから、皆さんも学生の時代
で、親から自由に金のもらえる人は、その幸福を喜ばなければなりま
せん。
そこで私も大いに同情して、早速返事を出してやりました。私の返
事は、第一、長子偏重は、現在の事実であるから、なんともしかたが
ない。いわゆる「事実に服従し、環境に柔順なれ」であって、自分は
生まれながらの孤児であったと考え、現在の煩悶に費やす努力をもっ
て、これを実生活の方へ向けたらよいと思う。第二の肋膜炎、第三の
妻君の家の没落という事も、いずれも皆事実であるから、元から妻は
なかったものと思いあきらめて、そのまま境遇に服従するよりほかは
しかたがない。なおこのような煩悶は、森田先生に直接に相談した方
がよかろうといってやりました。
その後これに対して、喜んだ礼状がまいりまして、その終わりに
「皓々たる明月は、玉楼にも伏屋にも一様に照らすものである」とか
いう詩句のようなものを書いてありました。
これに対して先生の御批評を願いたいと思います。
佐藤先生 私は今の香取さんの返事は、直栽・簡明ではあるが、抽
象論になっているかと思います。これでもし相手が普通の人であった
ならば、よいかも知れませんが、神経質であるとすれば、そういう風
にいってやる事は、少し考えものかと存じます。
上山君 私も長男偏重という事について、自分の経験がありますか
ら、ちょっとお話します。私は三男でありまして、母の方が非常に昔
気質で、やはりこの風習を実行しました。それで子供の時から、兄に
は何もさせないで、なんでも弟の二人にやらせる。菓子でも、兄が余
分にもらい、弟二人は少ないという風でありました。これはあるいは
当然の事かも知れませんが、思い出せばやはり不服であって、日記の
内にも不平を書いた事があります。先生のお話では、これは口に出さ
ない方がよい事になりますが、修養の足りないために、できないので
あります。
五時半、晩餐、食事中、肉親者に死別した場合の感情につい
て、各自の感想を述べるところがあった。