第6回 形外会 2

 靴下(くつした)5,6枚を(かさ)ねてはく

 

 香取氏 神経質の人は、たとえ卒倒(そっとう)する場合でも、危険な場所で(そつ)

(とう)するようなことはない、という事が先生の本にあったのを信じて、

思いきっていろいろの事をやって種々(しゅじゅ)の症状が治った。

 前には私は足の先が冷えてしかたがなかった。しだいに特別製の靴

下を重ねて5、6枚もはくようになった。したがって靴も普通では合

わないから、特別製をあつらえるようになった。このことは先生にも

笑われた。このような風であるから、自分には適度以上に、いろいろ

の事を感ずるのであるから、その感ずるままに放任(ほうにん)しておいて、いち

いちこれに拘泥(こうでい)せずとも、感じが足りないで、危険やとりかえしのつ

かないようになる事はないという事を知って、すべてこれらの事を断

然やめてしまったのである。

 森田先生 靴下を5枚はいたという事は、私は初めて聞いた。(たし)

に神経質は徹底的(てっていてき)である。

 香取氏 私が靴下を多くはいたというのも、その目的は仕事の能率

をよくせんがためであった。それに準じて、自分の住居の方も改造す

るようになった。しかしそれが完全に出来上がった頃には、自分は先生

のところで治ってしまった時であったのである。

 

  不思議に風邪はひかない

 

蜂須賀氏 私もかつて抵抗療法というのをやった事がある。皮膚を

丈夫にするために、冬も丸裸になってやった事がある。その間は皮膚

丈夫(じょうぶ)になったようであるが、後にはやはり前と同じように風邪もひ

くようになった。

 森田先生 ここの修養は、ある人が(いっ)(とう)(えん)の修養に似ていると

た事があるが、それはごく見かけの事で、その出発点や意味が根本的

に違うのである。

 ここの療法は一定の形式の抵抗(ていこう)療法(りょうほう)とかいう意味は全くない。自然

に従う楽なやり方で、決して苦行でもなんでもない。治療中は冷水浴

でも腹式呼吸でも、すべて治療的または修養的の事をやめさせる。そ

れでここでやった人は、石の上で修養したよりも、割合に抵抗力も持

久力も強くなるようである。(きぬ)布団(ふとん)の上に座る事も、(むしろ)の上に座る

もそのときどきの境遇(きょうぐう)に応じて自由にできるようになる。

 全治した人は、誰も不思議に風邪をひかないようになるという事で

あるが、今日お集りの諸君(しょくん)の経験はいかがでありますか。 

 溝淵(みぞぶち)博士(はかせ) 私は森田氏の治療を受けた事はないが神経質である。私

は冬には三度くらい必ず風邪をひく。常に風邪に対する恐怖を持って

いた。少し寒いと。アアまたかと恐怖に襲われた。しかるにその後こ

のような時に、何くそと腹に力を入れることを覚えて、それ以来風邪

をひかないようになった。

 佐藤先生 風邪をひくのは寒いからではなく、気の(ゆる)んだ瞬間にひ

くものである。

 森田先生 私はかつて著書の内にもまた雑誌にも、風邪をひくこと、

魔がさす事について書いてある。私は昔、富士山の頂上で三時間も、

浴衣一枚で寒さに震えて、激しく頭痛のした事があるけれども、こん

な時にも決して風邪をひくものではない。風邪をひくのも魔がさすの

も、必ず常に気の緩んだ時で、周囲の事情とこれに対する自分の反応

が、適応性を失った時に起こるものである。周囲と自分との釣り合い

が取れていれば、必ずそんなシクジリは起こらない。暖かい所ではゆ

ったりし、寒い所では気が引き締まっておればよいけれども、暖かい

所から急に寒い所へ入り、また寒い所から暖かい所に入る時に、これ

に対する心の変化が適応せず、気が(ゆる)んだところで風邪をひくのであ

る。(ゆえ)にうたた寝のような事がよくない。 しかし精神が自然になれ

ば、うたた寝でも風邪をひかないようになる。武士が(くつわ)の音にも目を

覚ますというのは、心が常に緊張しているのであって、こんな時には

決して風邪もひかなければ、魔のさす事もないのである。

 話は変わるが、井上君が五年来も粥を食べる事の多かった生活から、

急に普通食にせられた時は、随分心配な事はなかったでしょうか、そ

の感想はありませんか。

 井上氏 持ってきたから少しずつ、ただしかたなしに食べただけの

事です。

 古閑先生 食事は決して特別にせず、普通のものを持って行くよう

に命じてあったが、初めは煮豆などはそのままに食べないで残してあ

った。が まもなく食欲も高まり4杯も5杯も食べるようになった。

 香取氏 先生に何か質問があったらして下さい。いつもそれが本で

面白い話が出るようになるから。

 森田先生 今日は女学校の女の先生で、対人恐怖の人が外来にきた

がさしつかえがあってこの会に出られなかった。ちょっと面白い症状

であったから、これを種に話をしたら面白いかと思っていました。

 

  人生は遊動(ゆうどう)円木(えんぼく)   (遊動円木:丸太を鉄の鎖で低くつり、前後に動くようにした遊び道具)

 

 山野井君 私はこの前の会で、対人恐怖と書痙の治った事をお話し

た者です。私は今日は、現今(げんこん)の気持についてお話して見たい。私はこ

の前の時に、自分の病気の苦しみはとうてい他の人にはわからないと 

いって、先生からまだ修養が足りないと注意されて非常にためになった。

 この頃私は非常に競争心ができた。自動車で他人に抜かれると、以

前には走ってもつまらないというような、極めて消極的の考えであっ

た。先生はよく波の例によって不安定と安定との事を説明されたが、私

はもっと適切な例として遊動円木をもってすればよいかと思う。すな

わち、そのフラフラと不安定にやっているところに安定があると思う。

私はこの頃あらゆるものに気がつき、すぐに自分で手を出してやって

みたくなる。人が運動していれば自分もまた運動したくなる。まるで

子供のような気持である。子供はちょっとの間もジッとしていない。

丁度私もその通りである。善い悪いが問題ではない。ただそのように

なるのである。また私は例えば掃除なり洗濯なり、自分はそんな事をす

る身分でないからしないとかいう考えはなくなって、なんでも気がつ

き必要な事には、(ただち)に手を出すという事がわかってきたように思う。