第6回 形外会  昭和5年6月1日  (全集56頁~)

   神経質全治者の座談会

 

出席者27名、まず香取氏の開会の()あり。(れい)(ごと)く各自の

自己紹介あり、次に会員の感想談に移る。

 

読書恐怖

 

蜂須賀(はちすが)(不眠及び読書恐怖)昨年、森田先生の診察を()うた時に、

すべて物事を気持でなく、事実から判断せよという要領(ようりょう)を教えてもら

い、1ヵ月ぐらいは気が張って勉強もできたが、また逆もどりしてこ

の3月に再び御診察を()うた。その結果、古閑(こが)先生のところへ入院す

る事になった。

 私の(しゅ)症候(しょうこう)は不眠と読書恐怖とで、高等学校時代から起こり、大学

へ入ってますます苦しくなった。入院中、起床(きしょう)第2日頃のこと、入院

前、古閑(こが)先生には自分の症状を詳しくお話してなかったから、不安に

なり、日記で3時間ほどかかり、家庭の事情や自分の症状を(くわ)しく(じゅう)

幾枚(いくまい)書いて、先生の御批評(ごひひょう)()おうとしたが、先生の御注意は(きわ)めて

簡単で、くどい説明はいらない、しばらく机上論(きじょうろん)は中止しなければな

らないという事であった。 これが入院中の一番印象深いものであっ

た。その後、しだいに不安のままに先生におまかせするという気にな

り、不眠も起床7、8日ごろから気にかからず、問題でないようにな

った。前後、勿論(もちろん)寝付(ねつ)きが悪いという事もあったが、何かの事情から

起こる事であろうくらいに片付けてしまうようになった。

 さて、私の読書恐怖については、読書の時は端坐(たんざ)して精神を統一しな

ければならぬなどと、態度(たいど)心構(こころかま)えばかりに苦心して、本を読んでも

読んでも少しも理解ができない。入院後、読書を許された時も、これ

が一番気にかかる事であるから。ツイツイ読書の工夫が取れなかっ

た。本は自然科学のものを読んで、2日目ぐらいで興味を覚えた。次

の日、「読んでみるとすぐ眠くなる」という事を日記に書いたところ

が、先生から読んでみるというのは、自分を試験しようとするので、

眠くなるのは当然であると注意され、また読めないのは身体の疲労の

ためであろうといったら、先生から理屈はいらぬといわれた。

 退院後は朝も早く起き、学校の講義も面白くなってきた。今から4

日の後に、追試験(ついしけん)を全部受けるつもりで勉強の最中であるが、自分の

能力はわからないけれども、ともかくも必要な勉強はやって行かれる

という状態になった事を感謝している次第であります。

 

  胃のアトニーは簡単に治る

 

井上氏 私は5年来、胃のアトニーで、ある医者から潜状(せんじょう)結核(けっかく)

いわれて心配した事もあった。年中多くは粥食(かゆしょく)で、大根おろし、ホウ

レン草など、(やわ)らかいものばかりを食べていた。非常に衰弱していた

から、入院の前に古閑先生のところにソッとのぞきに行き、皆の患者

のするように、いろいろの仕事が自分にもできるかどうかと心配し

た。入院して後に、お家の人からも、初めの(うち)は肺病かと疑われた

うであります。

 入院してわずか40日の間に、一貫(いっかん)三百(さんびゃく)(もんめ)の体重を増して、今日こ

こに出席するにも以前のチョッキを着る事ができず、ズボンもこのよ

うに腹のところがつまって、ようやく着てきたような事であります。

 

  病の診断は身体と精神の両面から

 

森田先生 さきほど、蜂須賀(はちすが)君がいわれたように、医者に対して自

分の症状をこまごまと説明しなければ、医者の診断や治療の上に間

違いがありはしないかと心配する事は、当然の事であり無理もない事

である。ただかえって自分のその心配のみを押し通さずに、医者の(こころ)

(もち)をも推測(すいそく)して、遠慮(えんりょ)しているというのが普通の人のするところであ

る。神経質のように自己一点張りでないからである。

一方、医者のほうからいえば、病の診断をするには、種々(しゅじゅ)の方面か

ら必要だけの調べ方を尽くさなければならぬ。この故に医者は患者に

対して必要なる種々の質問を試みるのである。しかるに神経質の患者

は、いつも医者の(とい)に対してあまり耳をかさないで、自分で言いたい

だけの事を言い尽くさなければ自分の気がすまない。すなわち医者の

診断を信頼するのではなく、自分の診断と治療の方針とを医者に()

てさせようと欲するものである。

 さきほど、鈴木君が自己紹介の時の話では、ここで初診のとき、()

(くん)同伴(どうはん)であったが、私の質問に対してその父君ばかりが答えて、当

の鈴木君は何も答えないから、私から小言を言われた。しかるに鈴木

君は私の葉書を見て、診察の時にはクドイ事をいってはいけないとい

う事を一概(いちがい)読み違えて、返事もしてはいけないと思い違えたとの事

である。それで私から入院が許されず、()いて家内にい頼み込んで、特

別に入院を許してもらったとの事であった。これについては私からい

えば、本人が私の問に対して相当の答えをしない事は、神経質の特徴(とくちょう)

たる自己内省がなく、病の治療に対する欲望の乏しい意志薄弱者では

ないかと思い違えたからであったのである。このような訳であるから、

医者の診断治療の上に必要な事は、正確に詳しく答えてもらわなけれ

ばならぬけれども、無用なクドイ事は医者の迷惑になるのみならず、

診断治療の上にしばしば大なる障害となる事が多いのである。

 なおこの神経質の診断については、多くの場合に種々複雑なる症状

を訴える事があるから、まず内科的に種々(しゅじゅ)の方面から器質的の病でな

い事を証明しなければならぬ。しかるにその否定的の検査は、5を調

べ10を調べて皆これを否定したとしても、まだそのほかに医者の知る

事のできない、思いがけない病因(びょういん)がないとはかぎらない。これが内科

または一般医師の迷うところで、断然たる治療の方針を定める事がで

きない理由である。さらにこれよりも患者の身になりては、医者は大

丈夫と安心させてくれるけれども、それに対して果してどれだけの責

任を負わす事ができようか、今日(こんにち)(いま)だ医学の知らない(ひそ)みたる恐るべ

き原因があるかも知れぬと(おそ)るるものである。

 しかるに神経質の診断は、上述(じょうじゅつ)(ごと)く内科的の知識ばかりではでき

ない。一方には精神病理の知識があって、ある一定の心理作用によっ

てその込み入りたる種々の症状を組み立て、これを明らかに解説する

事ができて初めてこれを積極的に肯定する事ができる。すなわち一方

には、内科によって種々(しゅじゅ)の器質的疾患(しっかん)を否定し、他方には心理的にその

症状の成因(せいいん)を明らかにして、その病名を肯定する事ができるのである。

 これに反して通俗(つうぞく)療法家(りょうほうか)は、この両方面の知識の素養(そよう)がある訳では

なし、ただ病が治ることがあったという漠然(ばくぜん)たる経験から、医療の(こう)

のない慢性病(まんせいびょう)はもとより、大胆なものはどんな危険な病でも、盲目(もうもく)()

におじずで、十束一(じゅうたばひと)からげに随分(ずいぶん)思いきった事をやるものである。

 井上君のように胃病(いびょう)で、ひどく衰弱(すいじゃく)しているような場合は、我々も

実際に潜状(せんじょう)結核(けっかく)を恐れざるを得ない。このような時には、ただ神経質

の特徴から、その衰弱が精神的の結果として起こるものである事を知

ると同時に、もし潜状結核であっても、私の療法は自然(しぜん)良能(りょうのう)によるも

のであって、決して無理な、過激(かげき)な事をするのではないから、有害と

いう事はなく、必ず有効の結果を来すものである。