平成216月札幌5巻を読む会 参考用

 

亡児の思い出 (全集第7巻 615頁〜)      (編集:余を私・旧漢字を常用漢字)

1、臨 終

 911日は、我が正一郎の誕生日である。(この)()・午後5時に、我が正一郎は、

あらん限りの生の努力を尽し、20歳を一期として、(つい)に最後の息を引き取った。

 今年(昭和5年)12日からの絶対臥(ぜったいが)(じょく)6(はじめ)(ころ)から、仰臥(ぎょうが)のまま、寝返

り出来ぬようになり、7(なか)(ころ)より(みずか)ら読書も出来ず、僅かに絵ハガキ位のものを

いじる事が出来、看護婦に、小説本など読ませて、(これ)()き、(この)(ころ)から、ラジオの

放送も聴く事が出来なくなり、日夜(にちや)病苦(びょうく)に悩まされるようになった。外国切手の

蒐集(しゅうしゅう)にも、620日頃から、中止になっている。

 513日には、起きて座る事が出来るまでは(もち)いない・という約束で、タイプ

ライターを買入れたが、それでも四五日(しごにち)間は、(ごく)短い時間、簡単なものを打つ事が

出来た。同15日には、同じ約束で大きなギターという楽器を買って、仰臥(ぎょうが)のまま、

之も二三日(にさんにち)(ばか)り、音を出して(なぐ)さんだのである。

 

 臨終(りんじゅう)の前、一時間許りの時、「叔父ちゃん、胸が何だか変なようだ。一寸診て頂戴」

といった。(この叔父というは、8月初め、郷里・土佐から、わざわざ開業を捨てて、

正一郎のために、治療・介補(かいほ)に来てくれ、日夜、付ききりで、世話をしてくれたもの

である。)

 (また)(その)少し前には、排尿の後を、初めて看護婦に()かせて、「キチンと奇麗(きれい)()いてよ」

指図(さしず)した。これ(まで)は、常に必ず、(みず)脱脂綿(だっしめん)にて(ぬぐ)、手は必ず、酒精(しゅせい)で消毒したの

である。いつも看護婦に足を揉ませていたが、それを、もっと強く揉むようにと命じ、

枕の高さや、傾き方をこまごまと直させ、「息がしにくい。叔母ちゃん酸素」と言って、

酸素吸入をする事、少時(しょうじ)(のち)、自ら酸素のゴム管を()(のぞ)けると共に、短かき吸気(きゅうき)を二

つばかりして、目を上につりあげと同時に、呼吸が()えた。

 溝淵(みぞぶち)博士は、脈をみたり・心音を聴いたりしていたようである。

 

 今迄も、()の重大な・()の恐ろしき死というものの、よもや今・現前(げんぜん)しようとは思い

得なかった私も、今は、此の絶命を認定せざるを得ない。私は主治医の溝淵博士の前も

(はばか)らず、声を挙げて泣き・身もだえて悲しんだ。佐藤君や医員達が、私をいたわって、

次の間へ導いてくれた。私は伸びあがりあがり、立っている人々の隙間から、正一郎の

死顔をのぞいては泣いた。

 

 

 

「生の欲望」森田正馬著 水谷啓二編

水谷先生の「森田先生の救われた私の体験」より

捨て身のこころ  271頁) 

・・・中略・・・

 これほどのはげしい悲しみにあわれても、先生は23日たつと何ごとも

なかったように談笑され、その態度は平常と変わるところがなかった。そ

の心境を、次のように説明された。

「それは、捨て身ということで説明できるかと思う。子を失い、妻を失った

悲しみは絶対である。死んだ者のことを思っても仕方がないとか、あまり悲

しむと病気になるとか考えて、悲しみをまぎらそうとしても、それはできる

ことではない。だからわしは、悲しみのなかに何の抵抗もなく突入するのだ。

悲しみは折にふれてどっと押しよせてくるが、それから逃げようとしないで

悲しみのままになりきるとき、それはあたかも夕立ちのように(すみ)やかに過ぎ

去り、心はいつの間にか他に転じている」

 先生はこのことを、「心は万境に従って転ず、転ずる処実に能く幽なり。流

れに随って性を認得すれば、無喜亦無憂なり」という言葉で説明されること

もあった。