全集第5巻 第5回形外会p46~
自分の命と先生の名誉と取り替える
深山氏(18歳、昭和4年入院)先生に反抗の気分を持ったという
事について、私もその事をお話します。私は心悸亢進発作で入院した
が、退院後も、まだ心臓麻痺の恐怖が残っていた。それで自分がもし
外出先で突然死ぬるような事があるとすれば、自分は身分の低いもの
であるから、自分の命に代えて、先生の地位と名誉とを奪ってやろう
と考え、先生の診断と自分の症状を書いたものを常に懐に入れてい
ようと考えた事があったが、つい忙しさに追われて、実行しないうち
に忘れてしまいました。
馬場夫人(26歳、大正10年外来)私もここへくるまでには、電
気とか注射とか、いろいろの治療をやり尽くしました。少しも効果が
なかった。先生にかかって一切の薬を廃するという事がなかなか苦し
かった。先生のいう通りにして、もし悪くなったら、元の身体にして
返してもらうという意地でやりました。4週間くらいで一番苦しい峠
を越した。もはや10年になりますが、その後全く健康で現在はその当
時に比べて、2貫目くらい増やしております。
法悦から犠牲心が発露する
森田先生 宗教的の歓喜の体験を法悦というが、それはわずかな心
の置き所によって、今までの人生の苦悩がたちまちにして楽観にかわ
る。極めて簡単である。間一髪の相違である。そこに法悦があるので
ある。例えば親鸞が9歳から叡山で修業し、20年の苦心もますます
煩悩を増すばかりであった。ついに法然上人に会って、ただ南無阿弥
陀仏といえばよいということを忠告されて、たちまちにして悟ったよ
うなものである。もし人生において財産とか地位とかいうものは、必
ずそれ相当の努力と年数とを要するものであるが、心の置き所は、自
分が一度その境涯になってみれば、極めて簡単であるから、世の中の
人の誰にでも、ちょっとこんなうまいものを一口食べさせてみたいと
いうのが、すべての宗教家の希望である。ここに初めて犠牲心が起こ
り、もし世の千万の人びとに、この大安楽を与えうる事ができれば、
自分の命も惜しくない。すなわち法然が遠国されても喜び、キリス
トが身を殺しても自ら満足するのであります。
ここで神経質の全快した諸君も、この法悦に似たものがある。心機
一転により、たちまちにして全快する事が多い。自分が治るととも
に、同病相憐むところの他の患者をも治したい心が当然起こるの
である。もし単に自分が治ったというだけで、犠牲心が発動せず、自
分の打明け話が恥ずかしいとか、人に知られては損害になるとかいう
風では、まだその人は小我に偏執し、自己中心的であって、本当に神
経質が全治しているのではない。本当の法悦の味を知らない人の事で
あります。
どうか皆様も同病相憐むほかの患者のために、自分の病症やその治
るに至った成行きを詳しく打ち明けて、後進の人のために犠牲心を発
揮してもらいたいのであります。