第4回 形外会 昭和5年4月20日

午後三時開会。来会者二十三名。入院患者十二名。

山野井房一郎氏、佐藤辰郎氏、井上常七氏幹事となる。

例の如く会員の自己紹介あり、次に感想談に移る。

  佐藤氏 (昭和三年入院、十八歳)私が読書恐怖になったのは、十六

歳の秋、試験を間近に控えて、いくら読んでもわからぬ。机に向かっ

端坐(たんざ)し、精神を統一しようとあせる。今考えれば全く馬鹿げている

が、その当時は全くわからなかった。難しい文章をわかるようにとあ

せり努力する。努力するほど、ますますわからなくなる。英語のほか

は全部この恐怖にとらわれる。どんなに読んでも読んでもわからぬ。

かかる苦しい精神的煩悶を有しながら、試験後の成績は四番であった。

当時はそんな成績などはどうでもよい、ただどうしてこんなに本を

読む事ができないかという事のみ悩み、いま思えば自分より成績の

悪い人でも、その人が本を楽しそうに読んでいるのを見ると、恨めし

いやら、うらやましいやら非常に残念に思われたのでありました。い

かにしてこの苦しみから逃れんかといろいろと工夫をした。精神病院

へ行けば、神経衰弱だから充分静養しなければならない、日曜にでも

教会へ行け、些細な事を気にかけないようにと注意される。気にかけ

まい、かけまいとすればするほど、ますます煩悶(はんもん)が多くなる。

 その後先生の著書『神経衰弱及強迫観念の根治法』を読んで、鼻尖

恐怖と読書恐怖とが似ているというところから、自分の病気が強迫観

念であるという事がわかった。しかるにその著書中の種々の言葉にと 

らわれて、これがためにかえってますます煩悶を加えた。

 根岸病院で先生の診察を受けたところが、「あるがまま」という事 

を説明されて、今度は「あるがまま」のなろうとする事に努力するよ 

うになり、一つ一つ言葉にとらわれるようになって、急に成績は悪く

なり、苦しさに堪え兼ねて遂に入院するようになりました。

 その当時、呼吸恐怖、その他五、六の強迫観念があったけれども、

今は忘れました。

 臥褥療法六日間、起床六日目に家庭の事情で退院したが、退院後の

注意を先生に問えば、「理屈はいってもわからないから、ただ働きさ 

えすればよい」といわれ、はなはだ物足らなかったけれども、家に帰 

ってもしかたがないから、そのままに実行しているうちに、年を経て

ある日、机に向かって座っている時に、翻然(ほんぜん)と悟るところがありまし 

た。ようやくにして普通の人となる事ができましたので、今はこのよ 

うにへこんだ頬も肥え、御覧の通りニコニコした顔になりました。 

 森田先生 佐藤君がかつて苦しんだ苦しみは、今の話の声色でもわ

かるけれども、実際は強迫観念をやらない人にはわからない。ただ読 

書恐怖に似た人だけがわかる。ここの諸君の内の頭痛持ちなり、不眠

なり赤面恐怖なりが、みな外形は違うようなれども、実はその本態は  

同一であるから、他の人の強迫観念の心持がわかるようになれば、自 

分の苦痛も治るようになる。その心持に共鳴し同情することができれ

ば治る。これに同情しない上に、さらにに反感を持ち、嘲笑して成績

が四番で、それで読書ができないという人の気が知れない、あまりに

馬鹿馬鹿しい、自分のような不眠や赤面の苦痛などとは比較さるべき

ものではないとか、頑張るような人は、決して治る事のできない人で

ある。初めはお世辞でも、申し訳でも(うそ)でもよいから「なるほど貴方

も苦しかろう」といえばよい。これが外面から形の上から治す法であ

る。これによって例えば南無阿弥陀仏と唱名するほど御利益がある。

それは少しもその訳合いはわからなくともよい。「良き人の仰せに従

ひて念仏申すまでの事なり」と親鸞上人がいってあるように、ただそ

の通りに口でいいさえすればよいのである。しかるに神経質は愚直で

強情であるから、なかなかあっさりと、そうはできない。まず自分で

なるほどもっともである、それに相違ないと会得するまでは、決して

虚偽のお愛想などはしないという風に正直過ぎるのである。前のを他

力の法といえば、この方はいわゆる自力的であって、自分が理解・納

得しなければ決して承知しない。他力の法が四十日で治るとすれば、

自力の法は五年十年かかっても、なかなか治るものとは請け合いがで

きないのである。

 なお強迫観念の性質については、読書ができないといいながら成績

が四番とは、なんだかそのままには聞きとれない、これまでここで治療

した読書恐怖の患者は随分沢山あるが、その内には東大法科を一番で

 卒業した人が六年来読書恐怖に苦しみ、その他多くはみな成績優等の

人であります。これらの人がみな、異口同音に言う事が面白い。成績な

どはどうでもよい。ただ読書が楽にできないのが何より苦しい。こ

こが面白いのである。これは余は思想の矛盾と名付けてある「事実唯

真」という事の反対である。私のいわゆる気分本位である。読書に対

して、サラサラと平気で愉快に、なんの骨折りもなく、どんな困難事

でも容易に理解し、片端から記憶してしまわねばならぬというのは気

分本位である。成績優等になる人だから、相当に読書に苦しまなけれ

ばならない事は当然の事である。成績優秀になりたいから、したがっ

て読書の苦痛がある。成績などどうでもよいという人に、読書恐怖の

あるはずはない。これにおいてか吾人はただ自分自身の心の事実を正

しく認めさえすれば、そこに強迫観念は成立しないのである。すなわ 

ち読書の成績をあげ、能率を高めたいから、そこにそれ相当の苦痛が

ある。その苦痛は欲望と正比例して全く当然の事である。百円を得る

には百円の骨折りを要するし、虎子を獲るには虎穴に入らなければな

らないのである。成績はどうでもよい、心持よく読みさえすればよい

というのは、実は我と我心を欺くものであって、もし実際にそうとす

れば、毎日講談本ばかりを読んでいさえすればよいはずである。しか

もそれが決してできないのが、神経質が意志薄弱者と根本的に相違す

るところである。自ら欺く事なく、自己を正しく如実に認める事を自 

覚という。例えば自分は苦痛を回避する気分本位のものである、怠惰

であり低能であり、欲望過大であるとかいう事を、自ら省みて、よく

これを承認する事である。    

 今この自覚という事について、少しく注意すべき事は、自覚はただ

自己の本性を正しく深く細密に観察認識しさえすれば、それでよいの 

である。やりくり手段はいらない。ただ認めさえすればよい。これが最 

も大切な事で人の思い違いやすいところである。自分は怠けてはいけ

ない。読書の興味を持たなければならない。人前に出ても大胆になら 

なければならないとかいう風に、人間の小知悪知を(ろう)する事が最もよ 

くない事である。しかもそれが今日の教育でも修養書でも宗教でも、

みなそのように教えるところであるからなおさらに難しい事である。

 いま例えばここに湯飲みがある。これは薄焼きの磁器であって、家

伝来のものである。値に見積もれば十円もかかる、洙器でもなければ、

鋳物でもない。それだけを確認すればよい。取り落として壊してもよ

いとか、悪いとかいう事は、さほどやかましくいわなくともよい。多 

くの人はいたずらに、茶器を持つ礼法や、取扱い方をやかましく工夫 

するために、「静かにといえば遅く、動けといえば騒がしく」というよ

うに、挙止、進退が自由にならず、貴重なものを破損して、安物を大事

 にするような事ばかりになるのである。まずその物の価値を正しく認

めていさえすれば、決して思いがけない間違いは起こさないのである。

 また自覚について、今日は赤面恐怖の人が多いようであるから、そ

の方にあえて例を探ってみよう。赤面恐怖の人はまず自ら顧みて、自

分は成功したいとか立派な人間になりたいとかいう気があるか、ない

かという事を自覚するべきである。この事ももとより神経質者の愚知で

観察する時には、自分にはそんな欲望がなくなったように思い違える

事もある。実際、神経質が深く自己内省する時には、自分の腹がはっ

ているか、へっているか、食欲があるかないかという事さえわからな

くなる事があるのである。

まず自分は赤面恐怖を治したい。なぜ治したいか。、もし偉くなり

たくなければ、何も骨折って治す必要はない。なんの目的に対して、

どのように治したいのかの予定判断をなるべく正確に設計すればよ

い。ここの家でも昨日、畳換えをしたが、これに対しても、それには

客間にするか、仕事部屋にするか、おのおのその目的に対して換え方

が違う。人の住む必要もないところに畳換えはいらないのである。

 今日の外来の診察で、今ここにおられる方であるが、十三年前から

発病し、人の顔が自分に対して忿怒(ふんど)しているように感じられ、不快に

なる事を気にするようになり、また五年前からその上に、人の咳払い

が、自分に当てつけるように感じ、最近三年間はこれを気にするため

に、耳にゴムの栓をなし、家に閉じこもりて外出する事もできないよ

うになった。

 これは読書恐怖や赤面恐怖と同じように、一つの強迫観念である

が、要するに自分は何を目当てに生き長らえているか、ということの

自覚が足りないから起こる事である。

なお孤独になり閉居(へいきょ)して、外出ができないという事についてはかつ

て六年間全く外出しなかった赤面恐怖患者が、ここで治療しその後工 

科大学を卒業した事がある。また心臓麻痺の恐怖では二十二年間、家 

を出た事がないという婦人もあった。

 もしこれが自覚の上の苦行ならば、必ずそれ相当の成績があがり、

直径一尺とか三尺とかの石の柱の頂上に立つ事二十九年間であって、

多くの善男善女の尊敬信仰を得たとの事である。昔から宗教には人間 

味を超越した種々の苦行があるが、達磨(だるま)の面壁九年は人の知る所であ 

る。

 この如く自覚の上の行いならばよいけれども、強迫観念は全くこれ 

と反して、ああもしたいが苦しくて恐ろしい、という欲望と恐怖との 

間に行きつもどりつ、ウロウロと戸惑いの有様であって、幾年たって 

もなんのうるところもない。ただ苦悩にさいなまれるだけのものであ 

る。されどもこれが強迫観念であり、神経質であった時には、その本 

来性として一度自覚する事ができさえすれば十年二十年の迷いでも、

必ず一朝にして悟る事ができるのであります。

 重ねていう、自覚する事を知らないでいたずらに目前の思想の矛盾

に迷っているものは、いたずらに物を大切にしなければならぬ、とい  

う事ばかりに屈託して、土塊と宝物との見境さえもつかなくなる。こ 

の得難く立派な素質として、世に生れ出たる神経質の一生を酔生夢死(すいせいむし)

に終わらせるや否やという事が、一にこの自覚するや否やという事に 

帰着するのである。 

 なお重ねていいたい事は、佐藤君の読書恐怖のような苦しみに対し

て、あまり気早くけなす事を遠慮しつつ、なるほどやっぱり苦しいか

なあ、とお互いにしばらく考え合うだけの時間と余裕と思いやりとが

あって欲しいものである。もしこの事ができれば、それが強迫観念の

治る第一歩に入るのである。