第3回 形外会   昭和5年2月16日


午後三時開会、来会者二十四名。現患者十二名、例の如く自己
紹介に始まり、次に先生から無指名の紹介があった。 

一 陸軍大尉、これは『神経衰弱及強迫観念の根治法』中の実例にある
、方、今年たぶん一番で陸軍大学卒業のはず。
二 慈恵医専卒業、医師、久しく不眠に苦しみ業務を()る事ができない
で、妻子の将来を思い、泣いて不安を訴えた人。先生が同氏に対し医業
を中止する事を許さず、入院させなかったために、夏休み、先生の留守
中に入院した方。
三 私立大学卒業、不眠のためあらゆる治療法をやり尽くし、あるいは 
寝室のガラス戸を黒布にて張り、あるいはニンニクを(きざ)みて枕辺(ちんぺん)にま 
き散らし、果ては人に頼みて、人頭骨の粉末を服用した事さえもあっ
たという人。
四 わずか十七歳で、神経衰弱のため種々の療法をやり尽くし、母にも
愛想(あいそう)を尽かされ、母はまたかと言って森田へ入院を許されなかったのを、
母を欺いて入院したが、全快して後、母も非常に喜んで礼にきた事のあ
る。今は二十四歳になって、ますます盛んで活動している人。
 五 赤面恐怖で、退院後、大連(だいれん)奉職地で、ふとした事から悟りを
開き、喜びのあまり、東京の方に先生を遥拝(ようはい)したという奇抜(きばつ)な話。こ
れと同時に、いままで備えつけてあった種々の精神修養書、トルスト
イ全集など、(しば)って押入れの中に投げ入れたという話の人。
六 今を時めく裁判所の判事。大正八年五月、本療法の第一番目の人、
精神病恐怖、刃物恐怖であった人。
そもそも本療法の始まりは、近辺(きんぺん)の下宿屋に患者をおいて治療した
ような事もあったが、大正八年四月、先生の関係していた病院の看護
婦長が肺尖(はいせん)カタルと疑われ、長い間の軽熱(けいねつ)に悩んでいたのを、保養の
ために(すす)めて、二階で客分」になって、一ヵ月(あまり)の後に、健康が回復
した事があってから、初めてこの家庭的療法を思いついたものである。

 なお先生は、この会の(もよお)しについて、自分はなるたけ、宿題を設け
あらかじめ用意した講演をやりたくない。それは実際を離れた抽象論
になりやすい、また系統的の話は一般の著書でも読みうるからである。
この会はなるべく、即席の話にし、その場合場合に、会員の質問
に対
する具体的の話をしたいとのべられた。

 次に雑誌「神経質」について、これは会員諸君(しょくん)のために書くものであ

って、主として精神修養、神経質の研究、さらにこれより関連して、広 

く人生問題に触れて行きたい、そしてなるたけ、通俗的に誰にもわかり

やすいものにしたいと思うとて、これに対する会員の希望と意見とを求 

 これから会員の感想談にうつる。

 浦山氏 私は神経衰弱のためには、あらゆる薬も療法もやり尽くし、

ここへくる前には、神戸の神経病のサナトリウムに一年余りも入院して  

いた事があった。最後にここへくる時にも、また山師(やまし)にかかるのではな

いかと疑ったけれども、、先生が患者を(しか)る事とお世辞をいわない事  

とで、山師(やまし)でないという事がわかった。入院わずかに二十日間で全   

治退院したが、ここで入院中に、生まれて初めてというほどの大きな 

喜びを得ました。ここに私の沢山の歌を書きつけたものがあるが、こ  

の入院を一時期として、その前後の歌の感想が全く変化している事が 

わかる。その後すっかりよくなって、日頃引込み思案(ひっこみじあん)の神経質が、今 

ではなかなか図々しくなっています。今夜もこれから長唄(ながうた)の会でうな  

る事になっています。ここに切符がありますから、皆さんどうか一つ 

私のこの図々しさを見ておいて下さい。 

小保内(こぼうち)氏 私は浦山君の紹介で出席したものですが、私は心理学、

倫理学の教授をして、変態心理の講義などもやる身でありながら、強度の

不眠に悩まされました。それは昨年の四月、京都で心理学会の

時、その前夜、睡眠が不十分であったところ、会の当日、一友人から

君の顔色が非常に悪いが、何か病気ではないかと注意されたため、大な

る精神的ショックを受け、ソコソコに演説をすまして宿屋(やどや)に帰り、そ

の夜から全く不眠の恐怖にとらわれるようになった。その後先生の診

察を受け、八月頃には全快し、今では昔以上に元気です。この治療法

については、今日外国でも自己内燃(ないねん)の力によって治療するとかいう

学説は出ているようですが、実際の治療法は、まだここのようなのは

行われていないようであります。

 後藤氏 二十一歳で中学卒業、その頃麻疹(はしか)にかかり、()(じょく)中、船に

乗っているような動揺感を起こして恐怖を起こし、その後音響恐怖、

刃物恐怖、精神病恐怖などに悩み、妹などを見ては、自分が突然、気

が狂って殺すような事がありはせぬかと恐れ、空気銃とか刃物とかを

一切持つ事ができないようになった。その後、九大医科の(さかき)博士の診

察を受け、(ぼう)精神病院に八ヵ月余り入院したけれども治らなかった。 

治療のため上京して、親戚(しんせき)でここを紹介され、入院後四週間目には(すで)

に一人で旅行する事もでき、日光見物などにも平気で行きました。こ

れまでは 付添がなければ近いところへも、一人歩きはできなかった

のであります。この年、徴兵(ちょうへい)検査は第二乙であったけれども、先生の

お勧めで、進んで一年志願で入営しました。除隊後、明大に入学、今

では判事を務め、かつての独身主義者が、今は二人の子の親となって

いる事を思うと、今昔の感に堪えません。 
  次に一、二会員の希望によって、大尉が立った。 

 黒川氏 私の病気の動機は、幼年学校のとき、柔道で投げられて、
頭を打ち、人事不省(ふせい)となり、意識回復後、ふと今日は幾日だろうかと
思ったところ、その月日が思い出せず、それが私の記憶力減退を恐れ
出した始めです。私は常に偉いものになりたいと思っていたのに、こ
の様に記憶力がなくなってはだめだと悲観を続けた。それでも、どう
にか、学校は卒業した。その前から私の手紙で、親たちも非常に心配し
ていたが、卒業式に来て見ると、私が元のように元気だから安心した
というのです。上京して士官学校に入り、卒業する時には本当に()(ちが)
いになるのではないかと思うほど苦しみました。ところが今度も卒業
式にでて来た親の目から見れば、なかなか元気だというのです。で私
は永い間、苦しみ抜いた神経衰弱も、今までのような窮屈(きゅうくつ)な寄宿舎生
活をやめて、自由な下宿 生活になれば、自然に治るものと思っていま
した。ところが、連隊に勤めるようになり、心の余裕ができるほど病
気はますます悪くなるばかです。陸軍大学に入るつもりで勉強しま
したが、とうていできません。こんな風で前後九年間、悩み続けまし
た。大正十四年七月、先生の御指導を受けて、長い間の苦悩から脱す
る事ができました。思えば過去の苦しみは一場(いちば)の夢でありました。退
院後たびたび御厄介(ごやっかい)にあがります。あがるごとに何か新しい教えを受
けて帰ります。いや、先生のお顔を見たばかりで新しいものを受けま
す。私は生来(せいらい)創造力(そうぞうりょく)に乏しいものと思い、とくに手先の仕事は少しも
できないものと決めていましたが、入院中、大工仕事の事で先生にほ
められた事が元で、今日そうした方面でも、決して人に負けないとい
う自信を抱くようになりました。今は大学最後の卒業試験に最善の努
力を払っているところであります。