*特効薬はキミ*
「…おなか…いたい……かも」
そんな秋田の、壁相手のかすかな呟きを、聞き逃さないのがやっぱり上越。
「あらら秋田上官、いよいよ臨月?」
ギッ!と射殺される勢いで睨まれて、ついで書類の束が顔面に飛んできた。
「いってー!ごめん!ゴメンごめんって!お願い顔はやめてっ!」
「もうホントに君って男はッ!いつか誰かに背後から刺されるんだからね!」
「秋田に刺されるんなら本望ですよ〜ん♪」
「…ったく…」
それでも、威勢の良いのはどうやら言葉だけで、すぐに「イタタ…」と屈むように机に突っ伏す。
「…ねぇ、マジ大丈夫?」
いつの間にか散乱した書類を集めて、上越が隣に座っていた。
「もしかして…また食べ過ぎ?」
「“また”って何!?“また”って!」
「ハイハイ、お静かに。正直に申告してみなさい、秋田上官。一体何をどれくらい食べたんですか?」
珍しく真面目に迫られて、ぐっ、と息を飲みつつも──秋田は降参したように下目遣いで上越を見上げた。
「大したことない…栗羊羹と、生ういろうと、三笠詰め合わせ、を」
「…一人で?」
「だ、だって、賞味期限が今日までだったんだもの!もったいないじゃない!」
「…秋田の“大したこと”の基準がわからないんですけど」
はぁああ〜っと大きくため息をつく上越に「実はそこに“ずんだ餅”を入れるの忘れていた上に、全部“×2”なんですけど」と言い出せない秋田。
いや、言うのやめよう。それでなくとも、視線が、いやもはや空気がイタい。おなか以上に。
「で、薬は飲んだの?」
「うん…でも飲んだばっかりだから…まだ効かないよねぇ」
「羊羹たちに阻まれて、薬が胃に届かないんじゃない?」
「ちょっともうっ!からかうならアッチ行って!ますますイタくなるから…!?…え?」
秋田には珍しくはだけた深緑の制服の間に、上越の手がスッ、と伸びた。
そしてそのまま、ワイシャツ越しに、胃の上をこしこしと大きな掌が撫でる。
「ちょっと、何!?」
「こうやって、手で撫でるといいんだって」
「…?」
「うちの乗客のバアさまがね、お孫さんにこうやってたの。お腹痛い、って言ったら、こうやってゆっくり何度も撫でてね。“人の手には、病気をよくする不思議な力があるんだよ、痛みだって楽になるよ”ってね」
「…上越ったら…」
「ま、迷信だろうけど、気休めにはなるんじゃない?」
迷信だなんていいながら、こうやって実践しているあたりが。
ほんと、上越らしい。まるで迷路みたいに複雑な心の持ち主。
でも、その、誰もたどり着けない奥深い部分に、きっとみんな以上の優しさとか思いやりが眠っているって。
僕は密かにそう思ってるんだけど…
「あ、信じてないでしょ?僕の言うことだからきっとウソだって…」
上越が自嘲気味に言う。
どうやら秋田が黙り込んだのを、そんな風に勝手に解釈したらしい。
「何でそんな被害妄想なわけ?そんなこと思ってないよ全然」
「秋田はねぇ、東海道とはまた違う意味ですごくまっすぐで正直な人だから」
「…だから?」
「そういう人には僕、ウソはつかない…あんまり」
「“あんまり”っていうあたりがキミらしいよねぇ、今のでぐっと信憑性が高まったよ」
「……どう、楽になった?」
「えっ?」
「笑ってるから」
自然と浮かんできた笑顔と反対に、いつしか先程までの胃の痛みや重みはきれいに消え去って。
今はただ、上越の大きな掌の温かさだけが心地よく肌に染み渡る。
「薬、効いてきたかな」
「…違うよ、上越」
効いたのは、キミの優しさだよきっと。
お腹に触れる手に自分の手をそっと添えて──秋田がそう臆面もなく返すと、いつも冷笑を浮かべるだけの口元が、ほんの少し困ったように緩やかな弧を描いた。