*自分の知らない表情(カオ)*
「…とにかく…ゲホ…きゅうしゅうのしょるいははなしにならん…ゴホ…きさまがなんとかしゅうせいして…」
『わーった!わっーた!もうしゃべんな東海道!』
ほとんど雑音にしか聞こえない東海道の声に聞き耳を立てていた電話の向こうの山陽は、そう言って会話を強制終了した。
『すげぇ声だな…ペリカンの呻き声みてぇだぞ…マジ大丈夫か、東海道?』
「う、うるさい…ッ!…ゴホ…そのたとえがわからんわ!…ゲホゲホ…きさまはよけいなしんぱいをしなく…て…ゴホッ!」
『へいへい…ま、山形もいるし大丈夫っしょ。お大事にー。今夜は見舞い持ってそっち顔出すわー』
呆れたように、心配げに、電話は切れた。
携帯をポケットに戻すと、東海道はマスクの下でふーっと息をつく。
いきなりの寒波のせいだろうか、すっかり体調を崩し、腫れた喉からはかすれ声しか出ない。
隣に控える山形が、ほれ、と、喉を潤すトローチを差し出した。ほんの気休めではあるが。
「…東海道…ほんとにひでぇ声だぁ…少し部屋で休んでたらどうだ?」
「だいじょう、ぶ、だ!…きさまはしゃべるな山が…ゲホンゴホン!」
「んなこつ言ってもなァ…」
別に運休しろと言っているわけではないのに。
まったく、ムリすることが生き甲斐のような東海道新幹線には困ったものだ。
こんなときこそ、JR東海お得意の雨でも嵐でも…いや、この季節なら関ヶ原の大雪でもいいから、彼の足を止めてくれればいいのに。
…と、山形が大変不遜な考えを思いめぐらせた次の瞬間…
「──あっ──とっ」
「「…?!」」
上官専用室のドアの向こうで、奇妙な声?音?がした。
続いて、なんだか頼りないノックの音。
「──す、すいません上官!さ、さいきょ、埼京線ですっ!書類を届けにまままま──参りましたっ!」
「えっ…」
東海道はマスクで覆った顔を山形に向けた。明らかに困惑している。
本来この時間の定期報告には京浜東北、もしくは東海道ジュニアが顔を出すのが常だ。
それが何で埼京…?
「あ、あのっ、今、あの、都内で人身事故頻発中で…京浜東北も中央も東海道も山手もぐだぐだなんです…それで、あの、何とか動けるボクが代わりに」
なるほど。そうだった。
聞いてもいないのにドアの向こうから震える声で一通りの説明。
で、状況完全把握。
「むむ…」
しかし、困った。
京浜東北には、既に東海道の容態については話を通してある。
ジュニアについては言わずもがな。
…が、埼京線はきっとこの状況を分かっていないだろう。
そんな部下に、掠れた声で、弱りきった顔で対応しては高速鉄道としての威信に関わる。
とはいえ、明らかに在室中であるにも関わらずシカトを決め込むわけにもいかず、かと言って、今ここにいるのは東海道とそして──
「入れ」
「──!?」
「し、失礼しますっ!」
「うむ」
「…!?…や…っ!」
“やまがたっ!しゃべるなっ!”
──と、東海道は心の中で叫んだが、時既に遅し。
山形がさっさと開いたドアの向こうから、怯えきった小動物のような埼京線が顔をのぞかせた。
「お、遅くなりました、ほ、報告書です、あの、今月5日までのデータが、そのっ」
「うむ、ご苦労だった」
山形は震える手からJRのロゴ入り封筒を受け取ると、チラと中身を確かめ、頷いた。
「これは私が預かっておく。人身の遅れはどうだ?まだ混乱しているか?」
「あ、はいっ!京浜東北は動き出しましたが、30分以上の遅れが…幸い山手の方が復旧が早かったので、現在フォローに回っています!あと、中央はあと少しで運転再開、それから、えっと、そう、東海道…東海道本線の遅れはほぼ回復しました!」
尋ねられる想定をしていたのか、たどたどしいながらも一生懸命に仲間の状況を報告する埼京に、山形は微笑ましげな視線を向ける。
「よく分かった。一刻も早く平常運行に戻ることを期待する」
「い、YES上官っ!頑張りますっ!」
「──埼京線」
「えっ!?」
埼京の声がより一層上擦った。
無理もない。日頃まったく接する機会のない北の上官に、まさか名前を覚えられているとは夢にも思っていなかったのだから。
「い、YES!なんでしょうか、や、山形上官!?」
「君たち無事なラインに負担がかかるのは無理ないが──こんなときだからこそ気を引き締め、トラブルの連鎖を回避するように」
「え、えっと」
「つまり無理をしすぎるなということだ。無理をすることと頑張ることは違う。分かるな?」
「い、YES、分かります!」
「ダイヤが落ち着いたら、交代で休憩を取るように。高碕線や宇都宮線にもそう伝えてくれ」
「あ、ありがとうございます、上官っ!」
涙まで浮かべる埼京の顔は、感動と驚きに満ちている。
それはそうだろう。
いつもは一方的に諌められたり命令されたりする上官から、このような思いやりのある言葉をかけてもらっているのだから。
しかい、驚き具合なら、このやりとりを目の当たりにしていた東海道だって負けてはいない。
だいたい、山形がこんな風に部下と(いや、他の誰とだって)澱みなく会話を交わしている風景などついぞ見たこと無い。
いやそれもこれも、元はと言えばキツい方言を上官の沽券に関わる問題として“喋るな!”条例を徹底している東海道に原因はあるのだが。
──それにしたって!あの綺麗な標準語!
練習をしていたのは知っていたが、まるで別人じゃないか!
「では失礼しますっ!山形上官…東海道上官!」
「──!?──っ──う、む」
いつの間にか埼京の用事は終了したらしい。
自らにも(引きつってはいるが)笑顔で礼をされ、東海道はマスクが見えないように背を向けたまま片手を上げて返事をした。
バタバタバタ…と来たときより数倍軽やかな足音が遠ざかるのを確認して振り返ると、すぐ背後には封筒を持ったままの山形が立っていた。
「んー、勝手に対応してすまんがったなぁ東海道。だどもほうっとくわけにもいかんべ?」
──これだ!何だこの落差!
東海道の体から一気に力が抜ける。
しかし、いつもの山形弁を耳にしてどこか安心する自分がいることに気付き、戸惑いもした。
誰彼とも無く平等に、てきぱきと親切で、話し上手で見事な標準語──あれは誰だったんだろう。
少なくとも自分の知っている山形ではなかった。それだけは確かだ。
「…?…東海道どした?…怒ってんのが?…それとも熱でも出たが?」
「…いや…」
「そったら元気ねぇと、こっちがヘコんじまうべなぁ」
どれ、と、おでこに当たった山形の手はいつもと変わらず優しく暖かだった。
「…やまが、た…」
「んー?何だぁ?」
「……いや、いい」
だから、東海道は心のスイッチを切り換えることにした。
つまり、山形だって自分の知らない顔をいくつも持っていて、今日、その一つを垣間見たに過ぎないのだ、と。
何がどうしてどうなったって、こうして風邪がうつるのも恐れず自分の額に手を伸ばす山形は、紛れもなくいつも隣で見守ってくれている山形新幹線に間違いない。
「熱はねぇけどなぁ…少しでも横になった方がええ、なぁ東海道?」
「…そうだ、な…そうするか…」
「ネギ巻くか、喉に」
「それはいらない」(きっぱり)
そうかぁ、よく効くんだけんどなぁ。
山形は口を「へ」の字に曲げてそう反論する。ブツブツと独り言をこぼすように。
それを耳にした東海道はいつものように眉間に皺を刻んだまま──器用に微笑を浮かべて見せた。