*走り出すことができる*
肌を斬るような寒さが訪れ、特に岐阜あたりの空を見上げると鉛のように重々しい灰色が視界いっぱいに広がる。
この空模様は、高速鉄道の重鎮──東海道の眉間の皺をより一層深く刻ませる。
長年走り続けていると、この色合いが意味するものが何かは痛いほど分かる。
つまり、間もなくこの灰色は真っ白い氷の結晶をざんざんと降り注ぐこととなり──結果、積雪での運休、そこまで行かなくとも遅延、という目も当てられぬ状況を生み出すに相違ない。
だから、灰色は東海道のもっとも嫌う色のひとつだった。
あの男が現れるまでは。
* * *
「…あれか?あれが新しい高速鉄道?」
「そうだな、いわゆるミニ新幹線だ」
1992年7月。山形新幹線が開業する日。
初めて目にした新型の車両は、自分の知っている高速鉄道の車両とはほど遠い姿をしていた。
いや、軌道の幅とかそういうことではない。そこじゃない。
なんであんな…と、東海道はさすがに口には出さなかったけれど、東北に意味ありげな視線を送った。軽い抗議の視線を。
山形という男自身を先に知っていた東海道には、あの純朴で懐の広い彼にこの車両が相応しいなどと到底思えなかったのだ。
なんだあの色は。
銀色、というより、灰色に近い。真冬の空のような。
せっかく初夏の陽気に包まれたこんな清々しい日を開業日に選んだというのに──
「来てくれたんだべなぁ」
のんびりした声で呼びかけられて、背後の気配に首を傾げて答える。
「ああ、ようやく実車を見られた…しかし」
「んー?何か気に入らんけ?400系」
気に入らないというわけではないが、と東海道はやや口ごもりながら説明した。
新幹線というのは──やはり白いボディが基本ではないのか?
ラインが緑色なのは仕方がないと思うが。何も雪の多い地方を走るのにこんな──
「冬空みてぇな色、か?」
心の内を読まれたようで、東海道は反射的にぎゅっと眉をしかめた。
これからうまくやって行きたい相手に対して少々礼儀が欠けたか、と。
しかし側で話を聞いていた東北の態度に変化はなかったし、なにより目の前の山形自身が相変わらず穏やかな表情で自分を見つめていたので、この指摘が東日本の面々を不快にさせたわけではないことに安堵をした。
「いや、誤解をされては困る。非難をしているのではないし、だいたいこれは東日本の車両だ、私に口を出す権利はない」
「雪、嫌ぇだもんなぁ、セントラルさんは」
「慣れていないだけだ。それに、東とて対策があるとは言え積雪量が多いのは歓迎されることではないだろう?」
「んー、確かに。んだども、俺らは慣れっこになってっがらなぁ」
山形は頭上の青空を見上げた。きっと頭の中では、数ヶ月後にやってくる灰色の空を思い浮かべているのに違いない。
「俺ぁは雪、嫌いじゃねぇ。それになぁ、どう転んだって冬が来ない年なんてねぇべ」
「それはそうだが」
「雪のときには、雪の中を走るのさァ、精一杯」
山形の手が、陽光に輝く400系のボディをそっと撫でた。
「雨のときには雨の中を、風のときには風の中を、精一杯走るのさァ。俺にはそれしか出来んから」
「…山形」
「んだから、これからよろしく頼みます」
「……」
「なァ東海道先輩」
「…先輩、は、やめろ」
このとき、東海道は静かに感動していた。山形の言葉に。
たとえ雨だろうと風だろうと──そう、雪だろうと。
私たちは走る、お客様を乗せて。お客様のために。安全に迅速に。彼らの目指す目的地までの道のりを。
それが高速鉄道の役目。高速鉄道の存在意義。
そんな当たり前のことを改めて教えられた。生まれたてのミニ新幹線に。
「これからは仲間だ、よろしくな山形」
「よろしく東海道」
握手した手は、心地良くひんやりして、7月だというのにあの風に舞う粉雪を連想させた。
好きになれるかもしれない、と、東海道は思った。
少なくとも昨日までは憎みさえしていたあの灰色の空も、まとわりつく氷の結晶も──
* * *
「…なんだぁ、空ばっか見て。もう雪の心配かぁ?」
「山陽」
「米原は積もっちまったが、走行に支障がでるほどじゃねぇぜ」
「そうか」
「今から心配しすぎんなよ、東海道」
「分かっている。私たちは走るだけだ──雨のときには雨の中を、雪のときには、雪の中を」
「おっ、いいねぇ、前向きなご意見」
「当たり前だ」
山形と出会ったあの日のことを思い出すだけで。
何があってもきっと挫けず走り出すことができる。
きっとできる。