*ふるさと*

 

 

「あっついなぁ…」

西武秩父は、差し込む陽光を腕で遮りながら、蒼い制服の襟をそっとつまんだ。
つまんだ、だけで、緩めたりはしない。
この深海の色を染める制服は西武鉄道としての誇りと堤会長への忠信の証であり、西武秩父自身がとても気に入っているものだから。

いつも通り一糸乱れぬ制服姿のまま「レッドアロー」に乗り込むと、ほぼ満席の車内を満足そうにぐるりと見回した。
GWの後半は思った以上に天気が荒れて乗車数もさっぱりだったが、その後の週末は晴天と汗ばむ陽気に誘われ、秩父まで足を伸ばすお客様が増えたようだ。
黄色の車体が多い池袋のホームにひときわ映えるモノトーン+赤いラインの特急列車の管理は、西武秩父に一任されている。
今日も乗客が広々とした車内で思い思いにくつろぐ様子満足げな笑みを浮かべると、自分自身も空いた席に腰をおろして一駅ごとに緑深くなる車窓の風景を楽しんだ。

華やかな都会がキライというわけではないが、やはり心が安らぐ。この秩父の大自然を目の前にすると。

 

終点の、己の名と同じ駅に到着すると、駅舎から続く仲見世を視察しがてらに秩父神社にまで足を伸ばした。
この神社の社殿はかの徳川家康の寄進によるもの。その色彩も豊かな彫り物をいただく江戸時代初期の様式美は日光東照宮に劣らぬものがあるが、週末といえども人影はまばら。
有名な冬の祭りの時期以外は実にのんびりとした時間が流れている場所だ。

境内の清流に供えられた「水占い」を手にはしゃぐ少女を見て、西武秩父の表情が一気に緩む。
好きな色のおみくじを水にひたして、浮き出た文字で運勢を占うという遊びみたいなものだが、前に西武有楽町を神社に連れて来たときはやはり盛大にはしゃいで水と戯れたものだ。

最近は都内での仕事が多忙で、そのうえ車両故障などトラブルが続いて西武有楽町も、そして西武池袋も秩父まで足を伸ばす機会がめっきり少なくなった。

連れて来てやりたい、と思った。もちろん池袋も。
彼が有楽町並みに占いに夢中だったことを知っているのは秩父だけ。今思い出しても思わず吹き出してしまう。あんなキラキラした目で必死に水に手を突っ込んで。
きっと池袋だってこの秩父が好きなのだ、自分ほどではないにしろ。そう信じていた。
その証拠に、秩父に戻っている間は多少制服を着崩しても良いと自ら許しをくれた。
山に登るのに制服を着るバカはいない。秩父の大自然を肌で感じるのも西武秩父の大事な仕事で、その仕事を全うするのに制服は必ずしも必需品ではない、という彼の持論によって。

だからお言葉に甘え、境内の木陰でうーんと背伸びをして重量のある蒼の上着を脱いだ。
木漏れ日が西武秩父の純白のカッターシャツに集まって反射して、彫りの深い顔を明るく照らす。

「よう」
「…ああ」

親し気な声に振り返ると、細い路地から秩父鉄道が現れた。

「相変わらず作業着だか制服だか分からないオッサンじみた格好だ」

と、西武秩父は親し気にそしてからかうように言葉を返した。

「今日はSLが走る日だろう?カメラを持った乗客がいつもの倍は押し寄せているはずだ。もうちょっと何とかならないのか?」
「はっはっは、西武サンみてぇなシャレっけは持ってないからよォ」

かか、と大きな声で笑うと「どうせレンズに映るのはうちのパレオだけだよ」と言い返されてああそりゃそうだ、と西武秩父は頷いた。
天気がいいからと、イベント中にもかかわらず駅舎に堂々とせんべい布団を虫干しするような路線なのだから。秩父鉄道は。
確かに今更取り繕っても意味がない。

「暑くなってきたな。そろそろ長瀞の観光客が増え出す時期じゃないのか?」
「そうさなぁ、ボチボチってとこかな。ライン下りにゃちっと川の水量が心配だがな」
「水が少ないのは難だな。あれはダイナミックに流されてこそ、だから」
「うん、またおまえさんらもヒマ見つけてコイや。特に池袋あたりはよぉ。秩父の自然に浸りゃああいつの眉間の皺ものびるってもんだ、なぁ?」
「…ソレ、本人には言うなよ、また怒鳴られるぞ」

警告を込めて凄んだセリフを投げるつもりだったが、ひとつふたつ外したカッターシャツのボタンの隙間から肌を撫でる初夏の風があまりに爽快で、結局は秩鉄を笑わせるジョーク程度に終わってしまった。

まあいい。
多忙な彼らを連れてきてやりたい気持ちは西武秩父も同じだ。

秩父路はいい。
この太陽の暖かさ。草の香り。
歴史の刻む音すら聞こえる街の風景──

「どうだ、今夜はコッチ泊まって一杯やんねぇか?冷酒のいいのが手に入ったぞ」
「そうだなぁ…」

日没とともに訪れる、都会にはない幕を下ろしたような静寂。
そこに響く生物たちの命の声。川面の弾ける音。
それらを肴に、この気安いオッサンと一献傾けるのは良いアイデアかもしれない。

しれない…が。

「…うーん、どうするかな」
「なぁ西武秩父サンよ」

ふと考え込んでしまった西武秩父に、秩鉄はまるで父親みたいな大らかな笑顔で告げた。

「戻ってくるたんびにいつも思うんだがよォ。お前さん、西武本社で会うときなんかより、コッチで会う方が格段に…くつろいで楽しそうでのびのびしてるみたいに見える」
「それはまぁ──いわゆるここは私の──」
「けど、寂しそうなんだなぁ」
「はぁ?」
「楽しそうなのに、寂しそう。まっこと面白いよなぁ、お前さんは」
「……」

そう指摘されて西武秩父は初めて気付いた。
自分が秩父に着いてからずっと、西武有楽町や西武池袋のことばかりを考えていたことを。

「…かもしれんな」
「お前さんはその素直なとこがオトコマエだ」
「そらどーも」
「にしても西武サンはホントに仲が良いねぇ」
「…フン、当たり前のことを言うな。すべては堤会長のお導きだ」
「次は他の連中も連れてくりゃあいい。池袋とか茶色のボーヤだけじゃなくて…そうだな、あのロン毛のぬぼーっとした兄ちゃんあたりはどうだ?」
「…国分寺は虫が超キライだからこんなとこに来たら卒倒するんじゃないかな」
「あっはっは」

しかし悪くはない提案だ。
あの貧弱なエアコンに頼って灼熱地獄に陥る都心にいるより、拝島と一緒に弁当でも作って、荒川の源流に身を投じて戯れる方が数万倍も楽しいだろう。
ふんじばって連れてくるか。国分寺も、そして新宿も。もちろん携帯ゲームは禁止で。

「“故郷は遠くにありて思うものなり”ってねぇ。うまいこと言うよなぁ、西武秩父?」
「故郷…は、別に遠くない」

自分の故郷は──きっと『西武鉄道』そのものだ。
自分の哀しみも喜びも過去も未来もすべて堤会長の興された西武と、西武を構成する仲間と、そして西武を利用してくださる乗客の方々とともにある。
だから故郷とはいつも一心同体。
なんて幸福で素晴らしいことだろう。

「まぁ、レッドアローで都心から一時間じゃあなぁ、確かに近い近い、あっはっは」

自分の言葉を都合良く勘違いした秩鉄がバンバンと盛大に背中を叩きながら大笑いする。
咳き込みながら、自らも苦笑い。

このあとは少々山に分け入って、お気に入りの丘までたどり着いたら大の字に寝転がって休憩しよう。読書をするのもいかもしれない。
草の瑞々しい香りと綺麗な空気を体いっぱいにまとって、そして特急に乗って戻るのだ。
みんなのもとへ。

西武有楽町を抱き上げたら、「お日さまの匂いがする」言って喜んでくれるに違いない。きっと。

 

 

 


END

 2009/6/17