*spell*
「長野、背が伸びたんじゃない?」
「えっ…?」
秋田の軽い一言に、その胸元よりはるかはるか下でせっせと書類に取り組んでいた長野の動きがピタリ、と止まった。
「…ほんとですか?」
「え?うん、そんな気がするんだけど…?…あれ?」
ゆっくりと首を傾げる長野の様子は、明らかに“喜び”とはほど遠いものだ。
秋田はそんな長野の態度に戸惑った。
常日頃「ぼくは大きくなったらとーかいどーせんぱいとせつぞくしたいんです!」と豪語してやまない長野。
ほんの少しでも成長を褒めたらきっと手放しで喜ぶと思っていたのに、これはまったくの予想外だった。
「あの…長野、僕、何か変なことを言った?」
「えっ?!い、いえ、秋田せんぱいは何も…っ」
「じゃあ、何でそんな泣きそうな顔をしてるの?」
「それは…」
長野はもじもじと手元の書類をいじくり回していたが、秋田の視線がじっと注がれてることに耐えきれずとうとう重い口を開いた。
「…最近…思うんです…もう大きくならなくてもいいかな…って」
「えっ!?どうして?」
「…上越せんぱいが…せんぱいが…ぼくが大きくなったら…ぼくのことを……キライになってしまわれるかもしれないから」
「…長野ったら、どうしてそんな…」
最初は上越が何かよからぬ事を吹き込んだのかと思ったが、ここのところ珍しくすれ違いが続く2人だったことを思い出し、考えを改める。
それに、ああ見えて上越はそれなりに長野を可愛がっているのだから、そんな姑息なあてこすりを言うはずもない(相手が東海道や東北なら話は別だけれど)。
そうだ、長野は長野支社にずっと詰めていたんだ。
と、今度はそのことを思い出した。
そこで何か言われたのだろう。北陸新幹線の計画のことやら何やらを。
そして言った人間に決して悪気があったわけでもなく、ただ極めて真実に近い噂を長野の耳に入れたのに違いないと秋田は思った。
「長野、上越はまぁ…確かにその…あんな性格だけど…早々にキミのことキライになったりしないと思うよ?」
「…いいんです、秋田せんぱい。わかってます。上越せんぱいのことはきっと…秋田せんぱいよりもどのせんぱいよりも…きっとボクのほうが…よくわかってます」
「北陸上官!」
「え」
「こちらの資料を、最新のデータです」
「…ああ、ありがとう」
そうだ。ボクはもう北陸になったんだ。
その証拠に、部下たちの頭がうんと下に見える。
もうボクは小さな長野じゃない。東日本と西日本をまたにかける高速鉄道、北陸新幹線。
「お盆の帰省ラッシュには、この表の通り増発スケジュールを組もうと思いますが」
「うん、いいよ。どうもありがとう」
「いや、GWは凄い乗車率でしたからなぁ…夏の暑い時期にあそこまで詰め込む訳にも行きませんし」
「…そうだね」
「北陸上官もお休みなしで大変ですよね…いっそ手伝いに来ていただいたらどうですか…あの」
「ああ、上越上官殿!」
部下たちがくすくすと笑い声を漏らす。
明らかに、バカにしたようなそんな笑い。
「上越上官殿は暖冬のせいで正月開けからスキー場もガラガラで、オンシーズンにもかかわらずずっと優雅に読書やネットを楽しんでいらしたとか」
「ああ、羨ましい限りですなぁ、繁忙期というものが上越新幹線には存在しないのですね」
「最新の設備は期待できませんが、間を埋める臨時運転くらいならお願いできるのではないですか?」
「───やめろ!」
「おや、どうされましたか、北陸上官」
「やめろやめろ!やめろ!上越先輩を馬鹿にするようなことを言うな!」
気が付くとボクは両手の拳を真っ白になるくらい握りしめて部下たちを怒鳴り散らしていた。
「でも、北陸上官」
「必要ないじゃないですか、上越新幹線なんて」
「そんなことはない!お前たちは知らないんだ!上越先輩がどんなに望まれてどんなに苦労して開業したか!古い車両ばかりの中でどれだけ一生懸命走ったか!東日本の高速鉄道発展のためどれだけ走行実験にだって協力してきたか!」
上越先輩は
上越せんぱいは
じょうえつせんぱい は
「そんなこと言うな──ッ!」
「長野!長野ったら!」
はっ、と一瞬目の前がぐにゃりと歪む。
再び焦点が合うと、そこは見慣れた天井。東日本の宿舎。
そして、ボクの顔を覗き込む──上越せんぱいの顔。心配そうな顔。
「…せん…ぱい?」
「おかしな夢でも見たの?廊下まで悲鳴みたいなのが聞こえてきたから驚いたよ…っていうかさ、カギもかけずに、こんな床の上で寝てるのもどうかと思うけど」
「あ…ボク…」
「ほら、しっかり目を覚まして。ね?どうしたっていうのさ」
「ボク…ボクは………怒っていたんです…夢のなかで」
「へぇ?あれは怒ってたって訳?一体何を?」
「悪口を言うひとがいたから…せんぱいの…上越せんぱいのわるぐち…だから…ボク…ボク…」
「僕の悪口を言われて怒ってくれたの?」
小さく頷くと同時に、長い指が汗で額に貼り付いた長野の前髪に伸びる。
「で?怒ってくれたのはどっち?長野?それとも──北陸?」
「………ほくりく、です」
「そう」
上越はその大きな手でくしゃくしゃっと長野の癖っ毛を撫でると、小さな腕をとって長野を立ち上がらせた。
同時に自分もしゃがみ込むから、2人の視点は同じ高さになる。
「だったら北陸も」
「…せん…ぱ」
「会ってみたら案外良いヤツなのかもしれないねぇ」
そのとき。
心の奥で、何かがぷっつりと音を立てて切れた。
「ふっ…ふえっ…ボ…ボクっ…う…」
同時に、涙があふれて来る。文字通り滝のように。あとからあとから。嗚咽とともに。
「うわーん!うわーん!せんぱーい!わーん!」
「ちょっと長野!?どうしたのそんな泣き出すなんて?まるで僕がいじめたみたいじゃないか」
「わぁーん!わぁーん!」
「…仕方ないなぁ」
知っている。
こうして、答えられるはずの質問の答えをごまかしてゆるされるのも。
こうして、声が枯れるまで大声で泣き続けることができるのも。
子供の間だけだっていうことを。
この暖かい大きな手も。
子供だけがもらえる特権だってことを。
知っているから──
「さ、ベッド行こう長野。寝るまでついててあげるから、さ」
「は…い…あ、の」
「ん?」
「手…手をつない…で…いいですか?」
「ははっ、今夜は妙に甘えん坊なんだねぇ、長野は」
このまま時間が止まれば良い。
大きくなんてなれなくてもいい。今がいいこのままがいい。
「…せんぱい…せんぱい」
いつか叶う魔法を信じる子供を演じて、縋るようにこの言葉を繰り返すのだ。
まるで呪文の如く。