*いつだって見てる*
「…っ…痛い…」
埃が入ったに違いない、と西武池袋は突然の痛みに襲われた右目を押さえた。
注意深く扱っているつもりだが、こういう埃っぽい強風の日にカラーコンタクトはやはり不便だ。
幸いにも終電を見送った後なので、洗面所へ駆け込み、コンタクトを外した。
そんなことに手間取っていたので、有楽町や秩父は先に帰り、池袋だけがすっかり人気の途絶えた通路を通って帰途についていた。
と、目前に、不審な金色の物体が転がっている。だらしなく壁にもたれかかって。
金色…?…いやまてよ、あのネクタイあの髪型は…?
「おい営団!貴様こんなところで何をしている!」
「…う〜ん…」
転がっていたのはまぎれも無くメトロ有楽町。
しかもものすごく酒臭い。どうやらぐでんぐでんに酔っぱらっている模様だ。
「ここは我らの聖地!池袋駅の通路だぞ!そのような公共の場所でなんたる醜態!」
「…あ〜、いけぶくろ…いたの?」
「なんたる様だ!それが鉄道輸送に関わるものの態度か!?営団の一員として恥ずかしくないのか!」
「…恥ずかしいですよ…どうせオレの存在なんて恥ばっか…」
「はぁ!?」
「故障はするわ…お客様のクレームひとつ処理できないわで…」
「……」
「あいつに…迷惑かけちゃって」
「……」
この話なら心当たりがあった。
今朝のこと。ちょうど通勤ラッシュがあと少しで落ち着く…といった微妙な時間帯に、メトロ有楽町が車両故障を起こしたのだ。
幸いにもすぐに復旧し、大した遅れは出なかったのだが、苛ついた乗客の1人がキレて車内でトラブルを起こした。
それも原因となったメトロではなく、直通先の、西武有楽町線の中で。
そのことでこいつは、何度も西武に足を運んで、平身低頭、謝罪を繰り返した。有楽町にも、自分にも。
そのたびに適当に怒鳴って返して、その後は遅延の回復とその他の業務に紛れて気にも止めなかったが…どうやら本人の精神的ダメージは、ダイヤと違って一日たっても回復しなかったらしい。
「それでヤケ酒か。大の男が情けない。これだから戦争も知らぬ打たれ弱い若造はダメなのだ。そんなことをして一体何が解決するというのだ?」
「…だって!蹴られたんだぞ!」
「…!…」
「車体を何度も蹴って騒いだって!…後から…そう…聞いて……あいつ…西武有楽町…怖かっただろうに…可哀想なことしたって…オレのせいで」
曲げた両膝に顔を埋めて言葉を切る。肩を震わせて。
まさか…泣いているのか!?
こんな姿を目にしたのは初めてかもしれない。いつもはどんなカオスな状況でも自分の感情を極力抑え、周囲を労ることに終始する男なのに。
──しかし、こいつらしいと言えばこいつらしいことだ。
そう池袋は思った。
いくら乗り入れ先とは言え、他所の会社の、小さな路線のためにここまで心を痛めることができるのは──路線の多いメトロの中でも、この有楽町線だけではないだろうか。
それだけ、こいつは西武有楽町を可愛がっている。我らが同士を。大切な仲間を。それは紛れも無い事実。
「フン、馬鹿馬鹿しい」
西武池袋は、踞る有楽町の金髪に向かって苦々し気に言い放った。
「そんな阿呆な客の騒ぎひとつで、うちの有楽町が凹んでいるとでも思うのか?侮辱するな!あれは見かけは子供でも中身は立派な西武の路線!堤会長のお導きをいただく者!こんなトラブルごときでびくともせん!」
「……」
「貴様も下劣な乗客の下劣な行為に振り回されるな!何十年線路の上を走っているのだ!そのようなヤツは堤会長の怒りに触れて肥溜めにでも落ちてしまえば良い!」
この時勢に肥溜めがあればのハナシだが…とひっそり自分にツッコミを入れる西武池袋に、メトロ有楽町はゆっくり顔を上げ、幾分腫れ上がった目を向けた。
「…びっくりした…」
「何がだ?」
「だって…お前がお客さんのことそんな風に言うなんて…いつも…オレらは敵、お客様は顧客、って…超笑顔でさぁ…何だっけ…そう、“感謝と奉仕”が口癖で…」
「あのような低俗な輩はもはや顧客ではない!与える感謝もすべき奉仕もないわ!どうせこれからも他の善良なお客様にも迷惑をかけるに決まっている!排除してしかるべし!」
「…いいよなぁ、池袋は」
そういう有楽町の顔には、哀し気な笑みが浮かんでいた。
「なんかさー、こうさー、迷いが無いっていうか、自分の考えがはっきりしててさー…コッチが迷惑なくらい」
──それは賛辞なのか?苦情なのか?
若干納得の行かない想いを抱きつつも、西武池袋は胸を張り、高らかに言い放った。
「だいたい貴様には、信念が足りんのだ!」と。
「我らを見ろ!堤会長のご意志のもと、堤会長のためにこの身を捧げ、西武帝国の繁栄のために一心に走り続けている!迷いなどあろうはずがない!」
「…なんか羨ましい…オレは…ダメだよそんなの…なんかさ…周囲に流されてばっかでさ…」
その声はまるで別人のように弱々しく儚気だった。
西武池袋をも不安に陥らせるほど。
だから──
「よし!分かった!いいだろう!ではこの私が、脆弱な貴様に信念というものを授けてやろうではないか!」
「…へ?しんね、ん?」
どんな?と、口を開きかけたメトロ有楽町の鼻先に、長い指がピシッと突き付けられる。
「良いか営団有楽町!貴様はな──悔しいが我らにとって“必要不可欠”な存在なのだ!」
「…え…」
「貴様がおらねば、西武有楽町は我らとともに今ここに在ることが出来なかっただろう」
「……」
「貴様がおらねば、我らとあの忌々しい東武東上、営団その他諸々の路線とうまく繋がる事ができん!まったくな!利用客には大打撃だ!そうだろう?」
「……かな?」
「“かな?”ではない!そうなのだ!己の重要性に気付け!そして信じるのだ、己自身を!堤会長のように心身を投げ打ってお仕えできる相手がおらぬのなら、そのような重責を担う己を、己の存在価値を、己自身を信念とすれば良い!」
熱弁をふるう池袋を、しばしポカーンと口を開けて凝視していたメトロ有楽町だったが──やがて口元を緩めると、ゆっくりゆっくりと言葉を紡いだ。
「ありがとう」という言葉を。
「感謝するのなら、我らが堤会長の──」
「オレ…会ったことないエライ会長さんより…さぁ」
「?」
「そばにいる…いつもそばにいてくれるお前や西武有楽町に感謝するほうがいい…」
「…フン」
「…なぁ池袋ォ…今夜は、コンタクトしてないんだ…」
「…?…ゴミが入って外した…いきなり何だ!?」
「久しぶりに…オレのこと見たな…レンズ越しじゃなくって直接…お前のその目でちゃんと」
「……」
「だから信じる…さっきの……うれしかったよ…」
「…酔っぱらいが」
そして、乱暴に壁にもたれかかると、ズズズ、と滑るように腰を下ろした。有楽町の隣に。
「そんなに私に見つめられるのが光栄だと言うのなら、もう少し付き合ってやるのもやぶさかではない!奉仕の精神だ!有り難く思え!」
「…なぁ…ちゃんと…見て…」
「見ている!」
「たまには…ちゃんと見ろよ…なぁ…オレのことを…」
「だから!見ているではないか!一体これ以上どうしろと言──」
次の瞬間、コツン、と、温かな重みが西武池袋の肩にぶつかった。
見下ろすと、静かに寝息を立て爆睡する有楽町の顔。
気のせいだろうか。
酔いつぶれた表情からは、あの哀し気な色はすっかり抜けて、今はうっすら微笑みさえ浮かべているように感じる。
「…つくづくシアワセなヤツめ」
まぁ、良いだろう。
明日になって正気に戻って、またまた平謝りするのは営団だ。
…いや、この調子だと記憶にすら残らないかも知れないな。
それならいい。うむ。その方がいい。
いつも営業スマイルで他路線や同僚の間を忙しく飛び回るコイツの、希少な本音と素顔を見られたことに免じて──今夜は特別に、多少の粗相も許してやることにしよう。
「いつだってちゃんと見ている…10年…いや…20年以上も前からな…」
それに応えるかのように、さらにはっきりと微笑みを浮かべたメトロ有楽町の寝顔が、もたれかかった蒼い制服の上で小さくこくりと揺らいだ。