*N.N.*
ぴとっ!
「──!?うっひやぁあああっ!」
何やら考え事をしながら廊下を歩いていた山陽。
そのうなじに、前触れもなく恐ろしく冷たい物体が触れた。
「おっ、イイ顔♪」
パシャッ★
何事!?と背後を振り返ると、デジカメを構えた上越がにこやかに立っている。
「ダメだよ山陽上官―、そんな色っぽい声上げて。在来線のコたちに聞かれたら威厳も何もなくなるよ?」
「オマエのせいだろが!今度は何の嫌がらせだコラ!」
「心外だなぁ、差し入れ持ってきてあげたのにぃ」
ハイッ、と、山陽の鼻先にキンキンに冷えたレジ袋がつきつけられた。
「早く食べないと溶けちゃうよ、アイス」
「え?何?オマエが買ってきたの?…毒入りじゃねーよな?」
「…いい加減にしないと今度は背中に突っ込むからね…ほら、そこ座って」
上越は疑わし気な山陽の背中を押して、休憩用に置かれたソファに腰掛けさせた。
「どういう風の吹き回しだ、ええ?」
「べっつに。もう暑くて耐えられなくてさ。アイスでもって思ったらお疲れの山陽上官の顔が浮かんで…一緒に買って来た」
袋の中から、白いカップが取り出される。
「じゃーん!“九州”名産、白熊アイスー♪」
「…オマエ忘れないよね…そういうチクチクした小ネタな嫌がらせ絶対忘れないよね…」
「あれ?いらない?」
「んなわけねーだろ、アイスに罪はねぇ。いっただきまーす!」
山陽はそう言って素直にカップを受け取ると、まずはほっぺでその冷たさを味わい、次にシャクシャクと甘い氷の感触を楽しみながらゆっくりと口に運んだ。
「あーうまい!生き返るー!」
「そう、良かった」
上越も自分の分のアイスを出して、山陽の隣に腰掛ける。
「でもほんと大変だよねぇ、みんな言ってるよ、山陽は“つばめ”と“はと”の板挟みにあってるって」
「おい、ソレ、東海道の前で言うんじゃねーぞ、キレてすっげぇややこしいことになっからな」
「YES、山陽上官。分かってるさ、ボクだって面倒に巻き込まれるのはゴメンだ」
そしてしばらくは並んで黙々とアイスを食した。
「おー、アタマきーん!ってしてきた!いってぇ!」
「あはは、山陽、急いで食べ過ぎだって。子供じゃないんだから」
「だってよー、やっぱ白熊超ウメーもん!オレ好きなんだよなー、コレ。アイスバーのも美味いけどな!」
「そんなに喜んでもらえて嬉しいよ」
「なんだぁ?オマエ今日は優しいなぁ、何?何かでかい陰謀でもあんの?」
「…どうしてキミは人の好意を素直に受け取れないのかな…」
──本当は。
アイスを買いに上官室を抜け出したとき、1人廊下の隅でぼんやりと窓の外を見上げる山陽を見つけたから。
誰にも見られないように、疲れた肩をコキコキと鳴らす、そんな姿を見てしまったから。
ちょっとでも元気になって欲しくて──でもそんなキャラじゃないって自分でも分かってて。
結局、こうしてアイス差し入れ、みたいなことになったのだ。
ほんと、秋田や山形と違って、こういうとき、自分って恐ろしいほど気が利かないんだよなぁ…
「ま、実際、人を励ますなんてボクの柄じゃないから疑われても仕方ないけどー」
「そう?んなことねーぞ、すっげぇ励まされてる。うん、励まされてる」
「あはは、たかがアイス一個のことじゃない…大げさだね、山陽は」
山陽は木のスプーンを口にくわえたまんま、すっかり冷えた指先で上越のおでこを突いた。
「ほんとだって、こうして綺麗なモンも見せてもらったしなー」
「綺麗なモン?」
「そ。なぁ、上越、お前って──」
そして山陽の指は、目の前の漆黒の髪へと滑って行く。
「近くで見るとさ、ほんと綺麗だよなー」
「──!?──ちょっと、何言ってんの?」
「だってさー、髪だってサラサラだし、肌も白くて綺麗だし、顔もそのへんの女なんかよりよっぽど綺麗だしー」
「…真面目に言ってんの、ソレ?」
「あれー、山陽サンはいつだって真面目よー」
長い指が、上越の髪先をツン、と引っぱった。
かすかな痛みに目を上げると、茶色がかった大きな瞳と視線がかち合う。
「…“つばめ”と“はと”に困らされてたら、“とき”が慰めに来てくれた」
「え」
「綺麗だよな、“とき”って。ホントお前にぴったりだ」
「……山陽ったら」
「何よ」
「ボクなんて…お古の車両で走る地方線じゃない」
「バーカ、そういうんじゃないんだよ。それにオマエの走る姿、オレはすっげぇ綺麗だと思うぜ。こうさ、まっすぐに、すーって、飛ぶみたいに加速すんだろ?」
「……」
「これでなー、腹の中のどす黒さがもちっと白かったら言うことねーんだけど」
「…山陽は一言多い、いっつも」
「あっはは、わりぃわりぃ」
するり、と髪から逃れた大きな掌が、今度は上越の頬をピタピタ、と優しく叩いた。
「あー、うまかった。ごっそさん。正直今日はちっとキツい気分だったけど、いっぺんに元気出たわ。ありがとな、上越。」
「…どういたしまして」
そして空になったアイスの容器を器用にゴミ箱へ投げ入れると、おし、と声を上げて立ち上がる。
「さぁて、気分一新、ちょっくら博多まで飛ばしてくっか」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
「ああ──行って来る」
そう言って高々と白い手袋に包まれた右手を掲げて立ち去るときの山陽の顔は、上越の大好きな──明るくてそれでいて高速鉄道としての威厳を十分に漲らせたそんな笑顔だった。
「…ちぇっ、ボクの方が元気にさせられてどうすんのさ」
東日本の中で自分だけが時代から取り残されるのではないかという焦燥感、とりわけこれからどんどん成長する長野との関係──常にどんよりと曇る自分の心を、あの男はいつだってあっさりと晴天に変えてくれるのだ。
あの笑顔ひとつで。
「まいったね」
上越は苦笑しながら立ち上がると、緩めていた制服の襟元のファスナーをキュッと締めた。
「本物の“とき”とまでは行かなくても──ああ言われたからにはちょっとはいいところを見せないとねぇ」
だからせいぜい綺麗に走って見せましょう。
そうひとりごとのように呟やき、自らのホームへと踵を返した。
※N.N.=Nipponia Nippon=朱鷺