2008年11月30日。日本初の新幹線「0系」、定期営業運転を終了。
そして12月14日。幾日かに渡って行われた特別イベント「さよなら運転」も最後の日を迎えた。

誰もが知っている華々しいセレモニーの一日──これはそんな日の、もうひとつの小さなストーリー。

 

 

ZERO

 

 

「はー、大変な一日だったなぁ。最後まで大人気大人気、お疲れさん」

山陽新幹線──0系を最後まで走らせた西日本唯一の高速鉄道──は、そう語りかけながら、大任を負え車両基地でようやく一息ついた老齢の車体を愛し気に撫でた。
クリームがかった白に青のラインがくっきりと横切るその車体を。

「違う色もカッコ良かったけど、やっぱお前にはこの初期カラーが一番似合うなァ。ま、おかげで東海道ときたら“新幹線=ブルーライン”みたいなアタマになっちまったけど」

このラインが一番映えるのは、高速で線路を駆け抜けるあの瞬間だと思ってる。

でももう走れないんだよなぁ。
終わったんだよなぁ。

 

初めて出会ったのがまるで昨日のように思えるのに。

 

「…そーいや、“零戦が走った”なんて言われて最初はびっくりしたんだっけ…」

こうして目を閉じればはっきり思い出せる。あのときのこと。

夢を見ているみたいにただ呆然と遠くから眺めるしかなかった弾丸列車。
それがまさか自分の保有車両となって、こうして最後の瞬間(とき)を見守ることになるなんて。

「…東海道はさ、よく言ってたんだぜ、お前のこと“夢”だって…“夢がカタチになった”って。なんだかんだって東海道路線から追い出しても、やっぱお前は特別なんだよなァ…ハハ」

そりゃ特別に違いない。当たり前だ。
高速鉄道の、オレたちのすべての歴史は、この「0」から始まったのだから。

 

だから

 

「だから……オレにとってお前は、さ…」

 

自分がなぜここにいるのか
どうしてここにいるのか

 

すっかりわからなくなっていたあの時代。

 

平和になったことすら祝えない歪んだ自分を
もてあましてどうしようもなくなった。

 

そのとき

 

「そのとき初めてお前のこと見た…」

 

綺麗だった

 

「…すっげぇ綺麗で…キラキラ輝いてて速くてまるで」

 

 

ああ

 

カミサマ

 

 

 

「……笑うなよ…ほんとなんだって…だってお前のおかげでオレは…」

ぽろっ

「オレは……さ……っ…」

ぽろぽろぽろっ

「……う……っく」

水滴が頬をつたい、玉になって足元に落ちた。

堪えきれなかった。

腹の底から湧いて来るこの慟哭を。
喉が焼け付くくらいのこの熱さを。

滝のようにとめどなく流れ落ちる涙を、止める事など出来なくて。

 

「…うっ…う…く……っ…ぅ」

 

泣いた。
泣いた。泣いた。

 

いつもの東海道なんて比べ物にならないくらいに大量の涙。
声こそあげなかったものの、漏れる嗚咽はどうしようもなく。

 

泣きながら、もう何も答えてくれない車体にしがみついた。

 

あの日。
あの廃線の日ですらこんなに泣かなかったのに。

 

ささやかに「さよなら」のエンブレムを纏った、小さな小さな車両のために泣いてやることができなかったのに。

 

ああいや──違う。泣かなかったんじゃない。

泣けなかったんだ。

 

山陽新幹線という新しい自分に、未来に食らい付くのに必死で。
泣き損ねてしまっただけだ。

 

だからこれは──あのときと今と、2回分の涙なんだ。

1972年。
オレの世界がまっさらに塗り替えられた、あの年。

 

 

その背負う罪ですら

 

 

「………ありがと…ありがとな…0…」

 

ようやく泣くことができた。オレ。

36年もたってようやく。

 

平和の象徴。夢の弾丸列車。

 

0系新幹線

 

ありがとう。

 

そしてさよなら。
今はさよなら。

 

 

 

 

「瞼よーし、目尻よーし、顔腫れてない、鼻赤くない。よーしよし」

それから一時間ほど後。
新大阪行き最終レールスターの手洗いで、鏡に向かって百面相を繰り広げる山陽がいた。

何しろ、これから新大阪でイベントのために滞った書類仕事が待っているのだ。
泣きはらした顔など職員たちに見られたらエライことになる。

「山陽サンのトレードマークはこの爽やかな笑顔だもんなー。しっかりせにゃー」

冷たい水で何度も顔を洗い、涙のあとがすっかり消えたのを確認して鏡にそう笑いかける。
やがて終点に到着したレールスターから飛び降り、早足で上官専用室を目指した。

「遅い!待ったぞ!」
「──!?うっわぁあああ!」

誰もいないと思って無防備にあけたドアの向こうから突然高飛車なセリフ。
不意をつかれ、うっかり情けない声が出た。

「──え?…と…かいどうっ!?」
「何をやっている!高速鉄道たるものが、間の抜けた阿呆面を晒すんじゃない!」
「悪かったな!お前が脅かすからじゃん!…つーか何で新大阪にいんの!?」

山陽は、西日本の書類を当たり前のようにせっせと整理する東海道の姿に眉をひそめた。

「だってお前、セレモニー見送ったら数日は名古屋にカンヅメだって…」
「予定が変わった」
「え、そうなん?…」

そんな連絡は来ていなかった様な。
あ、いや、もしかして0系のそばで泣き濡れている間にメールか何かもらっていたのかも。ヤバイ。

「そっかそっか。あー、知らなくってゴメンな。やっぱ向こうはバタバタでさー」
「……」
「あ、それ、その書類。それ仕上げて明日の昼前に出さなくちゃなんだよなー。まったく面倒ったらありゃしねー…」
「山陽」
「うん?何、東海ど…」

呼ばれて何気に振り返ると、東海道が書類を手にしたままじっと山陽の顔を凝視し、ゆっくりと口を開いた。

「許さんぞ」
「へ?」
「次に同じ事をしてみろ、絶対に許さん」

明らかに、不愉快そうな声。
でも心当たりはない。山陽は腕組みをして必死に頭を働かせた。

「え?え?俺なんかしたっけ?ここんとこ書類の〆切は全部守ってんだろ、今日の式典にはきちんと髪セットしてったし、制服も乱れてねーし、遅延もねーし、何もお前を怒らせることなんて…」
「……」
「…??…」
「………」
「………あ」

静かにこちらを睨みつける東海道の姿に、先程まで博多で1人泣いていた自分の姿がダブって見えた。
もしかして。

「…東海道…あのオレ…」
「……」

阿呆か。

予定が変わったなんて。
嘘吐き東海道。

よく考えたら、東海道新幹線の予定は早々に変わったりしない。
そうとも。東海道本人が変えようとしない限りは。

「…もう一度だけ言う。二度と同じ事をするな、いいな?」
「……」
「返事は?」
「…ん…」
「返事は“はい”だ」
「……はい……東海道新幹線」
「よろしい、山陽新幹線」

 

──なんやー、山陽新幹線?高速鉄道やって?

 

ふと、懐かしいかつての同僚の顔が脳裏をかすめる。

 

──すごいなー、お前、カミサマになるんかー?!

 

ううん、違うよ。

自然、口元に笑みが浮かんだ。

カミサマなんかじゃない。
オレがカミサマになんかなれるわけない。

 

一生かかったってなれやしない。

 

でも、それでいいんだよ。

 

だってカミサマは、いつだって手の届かないところに行ってしまうじゃないか。
あの「0」みたいに。

 

オレはみんなと同じがいい。
みんなと同じでいい。

何でもない、何も変わらない。ただの鉄道であればいい。

こうして手を伸ばせばいつだって触れられる距離にいたい。

 

東海道新幹線だってほら。

今、オレのこの目の前にちゃんといるだろ?

 

「さて、今夜は飲むか。皆が待ってる」
「あ、でもまだ仕事が残って…」
「明日の朝手伝ってやる。心配するな」
「…そ、っか」
「らしくないぞ、お前が仕事などと」
「はは、ひでーな」
「…山陽」
「…うん」
「今日のお前は…初めて会ったときと同じ顔をしているな」
「……そしたら」
「ん?」
「もんのすげぇ紅顔の美少年、ってこと?」
「はぁ?!調子に乗るな!」

睨みつけながら、スッ、と東海道の手が差し出された。

「…お疲れさま、山陽」
「…うん、東海道も」

その手に、自分の手のひらを重ねる。

固く握り合う。
軽く上下させる。

 

初めて会ったあの日みたいに?

 

いいや、もっともっと暖かく、深い繋がりを実感できるこの握手はもうあの日のものとは全然違う。

 

それを成長と呼べるものなら。

 

 

 

いつまでも互いに離そうとしない握手の心地よい力強さを味わった。

 

 

 

 

自分たちがカミサマになり損ねたことに心から感謝をして。

 

 

 

 

 

読んでくださってありがとうございました。
2009/7/9