10.久美子の新しい恋人?
2000年。透と別れて、曖昧だった夢と現実の境界線は濃くなった。って、これは浜崎あゆみの歌う「SEASONS」の歌詞だけど。ドラマ「ビューティフル・ライフ」(キムタクと常盤貴子主演の、車椅子の女の子の恋の話。主題歌はB'zの「今夜月の見える丘に」。)を見ている時は泣けてくるけど、それ以外はいたって冷静。どちらかというと放心状態に近い。この年のベストセラーは「話を聞かない男、地図が読めない女」。男と女なんて、しょせんわかり合えないものなのだ。たぶん、神様は私に空間能力をインプットし忘れたのだと思う。距離感というものが、さっぱりわからない。口ゲンカだけは、やたらと強い。
最近、チームリーダーの渡辺さんがちょっとだけ優しい。去年の秋から透のグループとは別のフロアになってしまったので、透の姿を社内で見かけることもなくなった。というか透のグループの近くに行くのは意識的に避けていた。村上君は責任を感じているようだ。でも、村上君のせいではない。あれは、きっかけに過ぎない。村上君と付き合うという安易な展開でもない。村上君は大切な人だが、私と村上君は似た者同士。磁石でいえばプラスとプラス。村上君に合うのは、もっと気がきく子。「村上君の彼女、いい子だよね」という評価を得られる子。村上君はみんなに優しいが、それとこれとは別だと思う。今でこそ彼女はいないが、歳を重ねれば、きっといい子が現れるはず。そういう人。私に合うのは、、たぶん、私以上に口の立つ人。そんな人いる? 敏腕弁護士とか? でも、口ゲンカが強いのは「女性の」特徴だということは、他の女性は、場合によっては負けてあげてるってこと?ある日、会社で、そんなことを考えていると、村上君が本を持ってやってきた。
「はい。ちゃんと渡したから」
私に本を渡す。タイトルは「スターバックス成功物語」(ちなみに当時スタバは、話題のおしゃれスポットとして日本中に店舗を増やしつつあった)
「何、これ?」
「今田が渡しといてって。読みたいって言ったんでしょ」
「いや、言ったけど、社交辞令に決まってるじゃん。え、これ、どうすればいいの?」
「さあ。会いたいっていう口実じゃない?」
今田君というのは、村上君と行ったスキーで知り合った村上君の友達。いい大学を出ていい会社(海外に進出していて、誰もが知っている某大手メーカー)に就職(しかも、今いるのは法務部)した、いわゆるエリートだ。私より年下。村上君の言った通り、家に帰ると今田君からメールがきていた。まだメールは携帯ではなく家のパソコンで、やりとりしていた。
「よかったら、今度、感想きかせてください」
う~ん、感想をメールで送りつけるっていう手もあるけど(しかも長文)、本はどっちみち返さないといけない。村上君は最初の頃は、透と仲直りするように私を説得していたが、最近では何も言わなくなった。新しい恋に生きろってことだろうか。今田君、うーん、確かに、私に合いそうな子ではある。仮に長文感想メールを送ったとしても、添削されて返ってきそうなタイプ。会ってみますか。
場所は表参道の、料理もおいしい、おしゃれなバー。仕事帰り。スーツにネクタイはちょっと萌える。今の職場にはない感じだから。ネクタイをちょっと緩めるとか、いいかも。
「スタバはストックオプションの導入とか、進んでる面もいろいろあるからね」
「すとっくおぷしょん?」
「坂本さんには、ちょっと難しかったかな」
こういう喋り方をする子なのだ。でも悪くない。
私は古文でいうところの「賢(さか)しらぶりやがって」という言われ方をよくする。それがモテない最大の原因。
賢しらぶる:意味は利口そうに振る舞うこと、物知りぶること
歴史の1つも勉強していれば(学校の勉強ではなく趣味としてという意味)、本当に人がついてくる大業を成し遂げられる人というのはバカのふりができる人だ、ということに気づけたのかもしれないが、当時の私にはまだ勝海舟と勝新太郎の区別もついていない。また、この頃より前は、勉強よりスポーツができる子の方がモテる時代だった。この頃から移行していくのだが、誰もが認めるカッコよさげな人にしか興味を持てなかった私はサーファーとニーチェについて語ろうとしていた。そりゃあ、相手にされないわけだ。でもニーチェがわかるサーファーがいてもいいのではないだろうか?(「小賢しい」と言われたことがトラウマの、みくりが平匡と幸せになるドラマが流行るにはあと16年待たないといけなかった)
今田君が私の居場所なのだろうか?
この年はMisiaや小柳ゆき、鬼束ちひろ、倉木麻衣など女性の実力派シンガーが花盛り。アイドルでもそんなに歌の下手な子はいない時代になっていた。バカでも、かわいければいい時代は終わったかのように思えた。女性も「ストックオプション」について語るべきなのかもしれない。
今田君となら、私が私らしくいられる?
2回ほど一緒に食事をして、私が気に入られている理由がわかった。彼は趣味マグロ君なのだ。マグロというのは「何もしない」という意味の、あのマグロ。私はどうも趣味マグロ君に好かれる傾向にある。いつも何か新しいことにチャレンジしているから。いつも何か刺激を与えてくれそうだから。彼の場合、生き方マグロと言ってもいいかもしれない。いい大学、いい会社、そして、進歩的な彼の周囲では、今や働く女性を支える夫がおしゃれなのだ。料理だってできちゃう。女も学を持ってバリバリ働く時代ってわけだ。本の感想を求められた時も、私が
「バイトなんかしてないで、もっとマトモな仕事を探そうと思った」と言ったら
「バイトだって立派な仕事じゃないですか」と言われた。悪い子ではなさそうだ。
でも私は今までの人生で、頭がまあまあいいのが自分の長所だと思ったことは一度もない。お勉強はできるけど要領は悪い。「いつも新しいことにチャレンジ」これも、もともとの長所だっけ?就職活動のあと「何かしなきゃ」パニック発作に襲われただけにすぎない。男女問わずあの時代、「何かしなきゃ」「人と違ってなきゃ」パニック障害にかかった人は結構多かったのではないだろうか? 現在でもYoutuber志望者やインスタに、この症状がみられる人が多い。
で、3度目に食事した帰り道。
彼「次は土日の昼間に会いたいな」
私「そうだね」
彼「じゃあ、どこか考えといて」
え?私がですか?と、つい思ってしまい油断したその時、いきなりキスをされた。
私「ちょっと、何すんのよ」
彼「3回目だから、いいかと思って」
何それ、手順マニュアル??
私「ごめん、先行く」
と彼を振り切り、駅へ向かう。その後、彼とは会っていない。
彼が悪いわけではない。「食事を3度もすれば向こうはその気になる」こっちの手順マニュアルに書いとかなきゃ、てか、お互いの気持ちさえあれば1度目にどこまでいこうがって、しまった。透を思い出してしまった。今田君はスペックは最高。目標があればがんばれる子。彼と付き合いたい子はいくらでもいると思う。
ただ、彼には目標を与えてやらないといけないのだ。パワーポイントのスライドショー付きで。私は常に新しいことにチャレンジし続けなければいけない。彼に飽きられないために。それくらいしか取り柄はないのだから。彼が興味があるのは私が与えるものだけ。ある意味、楽かもしれない。
私が嫌いな何かに似ている。何だろう? そうだ、父親だ。母親に、とにかく与え続けることを要求した父親。ああ、やっぱり私の問題だ。今田君は悪くない。
後日、村上君は今田君を「たぶん、元カレが忘れられないんだと思う」と、慰めたそうだ。
透に無性に会いたい。でも無理だ。勝手な終わらせ方をしたのは私なのだから。
11.スキー(透の本番)
4月。スキーシーズン最後の合宿の前、透が村上のもとを訪れた。
透「俺も参加したいんだけど」
村上「マジっすか」
透「あと、車も出せる」
村上「助かります」
透は久美子と別れてから、スキーの闇練をしていたのである。会社の人には内緒。学生時代の友達を頼った。一応、村上からスケジュールを常に仕入れ、ゲレンデで鉢合わせしないようにしていた。村上は単純に久美子のことが気になるだけかと思っていた。
当時はスノーボードが登場し、スキーより気軽だと人気だった。だが、透はスキーにした。スキーも「カービング」という技術改良された板が登場し、今までより簡単にターンができるようになっていた。透はそんなこと、ちっとも知らなかった。昔のスキーのイメージで止まっていた。
スキー場に向かう車の中。運転席に村上、助手席に久美子、あと2人、後ろに乗っていた。
村上「今回、藤井さんが来ますよ」
久美子「え?」
激しく動揺する久美子。
村上「先に言っとかないと、坂本さん、パニくるから」(ただし、来ないと言い出しかねないので、今までは黙っていた)
車は談合坂サービスエリアに入っていく。
車を降りて建物に向かう久美子たち。建物の前では透がキレイな女の子と楽しそうに話している。
久美子「村上君、あれ誰? 透ちゃんの彼女?」
村上「いや、え???」
透「久しぶり、元気?」
透が久美子の方へ近づいてくる。
久美子「あ、うん。透ちゃんは?」
透「俺も何とか」
久美子「そっか」
久美子は、そそくさと建物へ入っていく。
透は、透の同期の女性の松坂と山田、例のキレイな女の子と4人で車に乗ってきているようだ。キレイな女の子は藤井のそばにべったりくっついて離れない。
村上は松坂のもとへ。
村上「松坂さん、あれ、誰っすか?」
松坂「うちのバイトの美咲ちゃん。連れてくって言ったじゃん」
村上「ああ」
確かに松坂から、バイトの子が行きたがってるから連れていっていいかと言われた。村上は廊下ですれ違うたび美咲のことは気になっていた。あの子がそうだったのか。いや、でも、
村上「いや、でも、松坂さん、藤井さんが今回なんで来たか薄々検討はつきますよね。藤井さん、今までスキーに来たことなんて一度もないんだから」
松坂「もーー。村上はそうやって杓子定規だから彼女ができないんだよ」
村上「え?」
松坂「あの子を見てみなって。泣きそうな顔してんじゃん。わかりやすいねー。でも顔に出てることを自分で気づいてないんじゃない?」
松坂が久美子を指さす。久美子は一緒の車に乗ってきた2人と話しているが、まったく上の空だ。
村上「だから」
松坂「藤井もあれで案外、臆病なとこあるから彼女の反応を見てどうしようか決めようと思ったんだろうけど、あそこまでわかりやすいと。。」
村上「そうだったんですか!松坂さん、いい人ですね」
松坂「いや、私はどっちに転んでもおもしろいなーと思って連れてきただけ。そういえばあの2人が別れたの、あんたのせいだってきいたんだけど」
村上「違うような違わないような」
そろそろ出発しようと、みんなが車へ向かい始めた。
久美子「村上君、私、帰る」
村上「え、何言ってるんすか、ここ、談合坂っすよ、つーか、今、夜中だし」
久美子「ヒッチハイクするか、朝まで待ってから帰るー!!!」
村上「いいから行きましょう」
村上は嫌がる久美子を無理矢理、車に乗せて白馬へ向かった。
翌朝、白馬スキー場は快晴だった。みんなでワイワイ一緒に滑る。
スキー部員A(男)「藤井さん、うまいですね。知らなかったなー。なんで今まで来てくれなかったんですか」
美咲「藤井さーん、教えてくださーい」
みんなが滑っていく。透も滑る。その後を美咲が追う。上に残っているのは村上と久美子だけ。みんなが下で待っている。久美子は滑り始めたが、派手に転んでしまった。板も外れてしまった。
久美子(このまま、雪に埋もれてしまいたい。。)
と、そこへ、村上が手慣れた感じで、久美子の外れた板を持って滑り寄る。
村上「大丈夫ですか~」
久美子を助け起こして、板を履かせる。
村上「坂本さん、今日は無理しない方がいいかも。ケガしたら大変だし」
久美子「うん」
2人でゆっくり、みんなの方へ滑っていく。
久美子「私、休憩してるね」
1人、建物の方へ向かう久美子。透がついていこうとするが、その横をすーっとスキー部の女性が滑っていく。
スキー部員B(女)「坂本ちゃん、待って。私も休憩する。疲れた」
透はあきらめてリフトへ向かう。
その後。お茶の時も、食事の時も、男子部屋でみんなで飲もうという時も美咲はずっと藤井の隣にいる。遂に久美子の限界が訪れた。
久美子「すみません。私、疲れちゃったんで部屋に戻りますね」
部屋を出ていく久美子。
透「ごめん、松坂、女子部屋借りる」
久美子を追う透。
みんなが、ひとしきりそのことを肴にして飲んだことは言うまでもない。
女子部屋。1人でテレビを見ている久美子。ずっとこらえていた涙があふれ出してきた。
ドアの開く音がする。振り返ると、透が立っている。久美子の隣に座る透。しばらく無言で2人でテレビを見る。久美子は泣くのを抑えることができない。
「今日、俺のこと、ちょっとカッコイイって思っただろ」
透がそう言って、あの日のように久美子の頭を優しく撫でる。
「思った」
と久美子が答える。
「別れなきゃよかったって思っただろ」
「思ったよ、だけど、それは今日カッコよかったからじゃなくて・・」
久美子が言い終わるか終わらないうちに透は久美子を抱きしめる。
「じゃあ、作戦成功だ」
「え?」
「迎えにきた」
久美子は泣きながら透にしがみつく。
「透ちゃん、ずっと会いたかった」
「ごめん、もっと早くこうしてればよかった」
「ううん。私の方こそ、透ちゃんに与えてもらうばっかりで、何にもしてあげてなかった」
そして、2人はキスをする。失われた時間を取り戻すかのように、長く濃厚に。
しばらくして、ドンドンとノックの音がして部屋のドアが開く。
「お2人さん、そろそろいいかな?眠いんだけど」
「あ、ごめん」
「すいません」
透が久美子の手を取り、2人で部屋を出ていく。
翌日、スキーのリフトに一緒に乗っている2人。
「久美ちゃんの言う通りだった」
「何が?」
「村上はいつもあんな風に久美ちゃんの面倒をみてくれてたんだな」
「でしょ。実際に見てくれればわかることなのにさ」
「あと。。」
「あと、何?」
「久美ちゃん、スキー下手だな」
「もう!うるさい!」
「俺が教えてやろうか?」
「結構です」
「いや、久美ちゃんは、たぶん怖がりだからうまくなんないんだよ。もっと思いっ切り滑った方がいいよ。ケガしたら俺が面倒みてやるから。それにしても、スキーがこんなに楽しいと思わなかったよ。最近、カービングとか出てるのな」
この年、松本人志主演の「伝説の教師」というドラマが流行った。久美子が印象に残っているシーンは、松本演じる教師が、いじめられっ子に「笑いに変えてしまえ」と言うシーン。ハリーポッターで言うところの「リディキュラス」である。(ちなみにハリーポッターシリーズは1997年に本の1作目が発売され、2000年には4作目が発売されたところ)圧倒的なカリスマ性をもつダウンタウン。お笑い中心のトーク番組が増えた影響で失敗談やカッコ悪い話が恥ずかしい時代ではなくなってきた。ドジでのろまな亀は「おいしい」のである。久美子は、自分が子供の頃にハリーポッターと出会えればよかったと思っていた。思春期に伝説の教師に出会いたかった。そういう願いがちょっとずつ世の中を変えていく。
BGMはラルクのwinter fall、GLAYのwinter, againあたりで。
12.透の新たな悩み
そんなわけで僕たちは、よりが戻った。美咲ちゃんには申し訳ないが、彼女がやきもちをやいてくれているのが、うれしかった。ただ、あまりやり過ぎると危険なので、すぐに女子部屋に向かったというわけだ。
今日は久しぶりに彼女がうちに泊まりにきた。別れていた間、付き合いかけた男の話もきいた。彼女は、ひたすら謝っていた。ただ、彼女いわく、キスされた瞬間、「自分の相手は、この人ではない」と気づいたそうだ。そういうものなのだろうか? まだ、ちょっとだけ許せない自分がいるが、時間が解決してくれるだろう。そうは言っても彼女は戻ってきてくれた。幸せな気持ちで眠りにつく。が、夜中、ふと目を覚ますと彼女が泣いている。
「久美ちゃん、どうした?怖い夢でも見た?」
「ううん。子供の頃の夢。ごめん、起こしちゃって。水飲んでくる」
と言ってキッチンへ向かう。
その次の時も、やっぱり泣いていて、僕が起きる前にキッチンに行ってしまった。
さらにその次の時は、
「ごめん、まだ電車あるから今日は帰るね」
と言って帰ってしまった。別にいいのに。だが、彼女は夢について、あまり詳しく話したがらない。
心配になって、彼女には内緒で彼女の親友の夏ちゃんに相談することにした。夏ちゃんと夏ちゃんの彼氏さんとは何度か4人で会ったことがある。
夏ちゃんの家。彼氏さんもいるが、彼はリビングでテレビを見ていて、僕と夏ちゃんはダイニングで話している。ちなみに夏ちゃんは保母さんをしている。
「夢を見て泣く、か。子供にはよくあることなんだけどね。対処法としては添い寝して抱きしめてパパやママがそばで守ってくれてると感じさせる、とか、そういうんでいいんだけど」
「そっか。まあ、それならある意味、、いつもやってる」
「あっそ。あと、起きて何か言うかもしれないけど、本人は覚えてなかったりするから、そこは適当に話を合わせるといいかな。でも原因がわからないと心配だね。久美子は何て言ってるの?」
「子供の頃の夢って言ってる」
「子供の頃か。言われてみると私、あんまり久美子の子供の頃の話ってきいたことないかも。親と仲が悪いって言ってるから、きいていいのかもわからないし。いつから?」
「よりを戻してからかな。その前はなかった。まあ1回くらいはあったかもしれないけど、こんなに続けてとかは」
「ごめん、あのさ、別れてた頃の話ってどれくらいきいてる?」
「一瞬、付き合いかけた奴がいるとか、それくらいかな。 ああ、そのことを気にしてるとか?」
「う~ん、そのことと子供の頃って関係ある?」
「わかんない」
「あのね、あくまで最初だけだよ、最初だけだけど、私には今田君が合ってるのかもしれない、私は与える方がラクだからって言ってたんだけど、あ、今田君っていうのは、その付き合いかけた人ね。だけど、別れた原因をきいたら、お父さんに似てた、って言ってたんだよね」
「言われてみると、よりを戻した時に、そんなようなことを言われた気がする。与えてもらってばっかりでごめんね、とか。俺は別に与えてるとかそういうつもりはなかったから、ピンときてなかったんだけど」
「え?ってことは、透ちゃんは久美子のお母さんに似てるってこと?」
「そうなる?」
「ダメだ。よくわかんなくなってきた。でも、その辺に原因がありそうだね。軽くきいてみたら?久美子のお母さんってどんな人?とか」
「うん、そうだね」
「でも、久美子は、よっぽど透ちゃんに心を許してるんだね。私でさえ久美子のそんな姿見たことないもん。きっと透ちゃんなら大丈夫だよ」
その次の夜。また帰ろうとする彼女を引き留める。
「大丈夫だから」
2人でベッドに横たわりながら、夏ちゃんのアドバイスを早速、実行。
「久美ちゃんのお母さんってどんな人?」
「え???」
彼女は一瞬、イヤそうな顔をした。が、こうなることは予想がついていたのだろう、決心したように話し始めた。
「うーん、感情の起伏の激しい人かな。すごく怒ったり、すごく優しくなったり。子供の頃はよく振り回された。だから大人になってからはマトモに相手をしないようにしてた」
「そっか」
その夜。彼女が、やはり泣いている。
「久美ちゃん」
と、揺り動かして起こすと、
「透ちゃん、どこにも行かないで」
と言って抱きついてくる。ええと、何だっけ?パパやママがそばで守ってくれてると感じさせる、だっけ。
「どこにも行かないよ」
と言って彼女の頭を撫でる。
「私のこと嫌いにならない?」
「嫌いになんかなるわけないだろ」
「よかった」
そう言うと、彼女はまた眠りについた。ああ、僕は、こういうシチュエーションに滅法弱い。彼女には僕がいなきゃダメ、みたいな。一生このままでもいいんじゃないか? 本人が思い出したくないことを無理に思い出させる必要はない。
13.久美子の夢
1998年のクリスマスの夜。久美子は、うたた寝をしていた。夢を見ている。
冬の公園の夕暮れ時。もう公園には誰もいない。砂場で小さな女の子が遊んでいる。2歳の久美子である。久美子が振り返ると、母親が1人でふらふらと公園の外に出ていこうとしている。
「ママー!」
久美子が呼ぶが母親は振り返らない。走って母親のあとを追いかける。ゆっくり歩いているので久美子の足でも何とか追いつける。先回りして母親の正面に出て母親の足にすがりつく。
「ママ、だっこ」
我に返る母親。
「いい子にしてる?」
訳もわからず、うなずく久美子。母親は久美子のことを抱き上げる。
「あら、こんなに手が汚れてる。洗わないと。寒いわね、そろそろおうちに帰ろうか」
目を覚ますとホテルのバスタブで湯につかっている。思わず後ろを振り返る。大丈夫。愛する人はちゃんとそばにいる。その存在を確かめるために向きを変え透の首に腕を回す。透は久美子にキスをする。我に返った久美子は混乱しているのを透に悟られないように「熱いからあがるね」と、透の腕をすり抜けて浴室を出ていく。
久美子の母親は青森県出身。幼い頃に父親を亡くし、家は貧しかった。いわゆる集団就職で18歳で東京に出てきて22歳で結婚。24歳で久美子を出産する。久美子の父親も地方出身で、父方、母方とも祖父母はすぐ近くにはいなかった。2時間サスペンスやワイドショーをにぎわすほどの生い立ちではない。せいぜい、リアルな久美子が男の人との関係がうまく築けなくて、結婚できなかった程度の。ただ、父親は勝手な人で、母親は幼い子供に「あんたがいい子にしてなかったら、いなくなる」という叱り方をする人だった。父親と、もめるたびに。そうはっきり記憶しているのは物心がついてからだが、物心がつくまでに、置き去りにされることへの恐怖を何度も味わったように記憶している。ひどく叱られる時も、今、思えば久美子の言動と直接の因果関係はなかったような気もする。母親の機嫌次第。母親の機嫌は父親次第。
リアルな久美子は1人暮らしを始めてから、ようやくそのことと向き合えるようになった。「嫌わないで。いい子にしてるから」というタイプは変な男にひっかかりやすい。そこまではわかっていたのだが、マトモな人と付き合っても自分をさらけ出すことができない。他人と深い関係を築くことが苦痛。あとは逆に、相手のことを試したくなって、言わなくてもいい厳しいことを言ったり。自分が主導権を握っていないと怖いのかもしれない。流れに身を任せることができない。
自分の納得のいく仕事につけていれば、もっと早く家を出られていたかもしれない。時代の波は二重、三重に物事を歪めていく。歳をとったアダルトチルドレンたちには、家族と距離を置くことをお勧めする。これが久美子のエピソード1。フィクションに戻る。
透と、よりを戻して以来、久美子は夢を見る。砂場で遊んでいる子供の頃の自分。振り向くと透が公園の外に出て行こうとしている。「待って」 透を追いかけるが、透はどこにもいない。子供の頃と現在が混ざり合った夢。失うことへの恐怖。手に入らなければ失うこともない。自分から終わらせてしまうこともある。だから付き合い始めた頃は透が自分にとって大切な存在であることを認めたくなかった。心にふたをしていた。透が迎えに来たことによって、ふたが緩んでしまった。
透に母親のことを話した夜、夢は少し変わっていた。ホテルのバスタブで湯につかっている久美子。振り向くと透はいない。浴室を出て部屋を探すがどこにもいない。そこで透に起こされて目が覚めた。
再び眠りについた時、夢の中で久美子は露天風呂につかりながら透と一緒に星をみていた。昔、透と行った温泉の部屋についていた小さな露天風呂。
目が覚めると久美子は現実に戻っていた。恐怖がかたちとなって久美子の目の前に現れる。透はこんな自分を嫌わないだろうか?
でも、これも普遍的な問題ではないだろうか?一番好きな人とは結婚したくないという人は結構いる。理由は嫌われるのが怖くて安らげないからだ。
14.再び透のプロボーズ~結婚
翌朝、起きると彼女が朝食をつくっていた。実は彼女が朝食をつくってくれるのは、これが初めて。いつもは僕がつくっている。うちの会社は料理男子が多い。時代としては、まずまず先端をいっていた方だ。僕も、もともとそういうことは嫌いじゃない。だけど、彼女がつくった目玉焼きは黄身がカチカチ。彼女は半熟のトロっとした黄身の方が好き。
「やっぱり透ちゃんの方がうまいね」
突然、キューンと何かが降りてきて、後ろから彼女を抱きしめる。
「昨夜はあのあと、よく眠れた?」
「うん。あのあとは温泉で透ちゃんと星を見てる夢をみてた」
「そっか。また行こうな」
ああ、やっぱり彼女には僕が必要なんだ。僕が彼女のそばについててあげないと。
「久美ちゃん」
「ん?」
「やっぱり結婚しよう」
今度は彼女も承諾してくれた。前回、プロボーズを断ったのは僕に家族を会わせたくなかったからだ、という話もきいた。指輪は別れた後も持っててくれた。彼女は「つくすタイプになる」と言っていた。これがまた新たな火種になるのだが、その時はうれしかった。キラキラ輝く女性になるために、バイトを辞めて貿易事務の勉強を始めた。彼女は最初に勤めた会社を辞めた後、イタリアに留学していた。留学経験を活かすなら貿易事務で、その頃、某派遣会社が希望者に貿易事務を勉強させた後、トレーニーとして、経験がないかわりに少し安い時給で派遣先に雇わせる、という企画を打ち出していた。貿易事務は人が足りなかったからだ。自動車や精密機械など輸出大国日本。食料や資源は輸入に頼らないといけない日本。実に生産的な企画だ。彼女の人生を変えた企画でもある。
あの夢は、その後も時々みていたが、頻度はかなり減った。お互いの両親への挨拶。彼女の両親は、彼女からきいていたほど悪い人ではなさそうだった。彼女いわく「そとづらは、いい」のだそうだ。結婚式、新婚旅行、2000年から2001年前半にかけては忙しかった。非日常のうちは新たな火種が表面化することもなかった。
2000年暮れ、飯島愛の「プラトニック・セックス」が出版され話題を呼ぶ。飯島愛と彼女は同い年だ。8年後、彼女は言っていた。「愛ちゃんは小賢しさとは無縁の人。だから早く死んじゃったんだよ」