1998

1.藤井透(トオル)

僕が彼女と出会ったのは1998年だった。ラジオからセリーヌディオンが歌う、映画「タイタニック」の主題歌が繰り返し流れていた。

僕は子供の頃から要領がいい。女の子にもそこそこモテたし、マスコミ(出版社)にも就職できた。僕が就職したのは、まだ景気のいい時代だったが、それでもマスコミ(出版社)は特にあの時代は狭き門だった。え?「自慢かよ」って言った? まあ、そう言われても仕方ないけど僕はこの物語の脇役なので、そういうキャラ設定なのだ。そこは、そういう体(てい)でお願いしたい。

さて、1998年のそんな1月のある日、彼女が僕の前に現れた。メガネに野暮ったいスーツとパンプス。
「今日から入った新しいバイトさんです」
契約社員の女性に連れられてやって来た彼女。
「よろしくお願いします」
有りか無しかで言ったら、まあ、有りだ。僕はマジメそうな子が好きだ。彼女に対する大方の評価は「バイトにしては歳をとりすぎている」だった。最初のあだ名は「人妻」。落ち着いているからだが、もちろん人妻ではない。
あの時代、うちの会社は大量のアルバイトを雇っていた。IT時代の幕開け。インターネットで何ができるか模索している時代。そのためのデータベースづくり。例えばグルメなら飲食店名、所在地、営業時間、メニュー等々、1から入力した時代だった。彼女が所属していたのは、そんなデータベースをつくっているチームの中の1つだった。企画を立てるのは社員。バイトの中で、できる子が選ばれ、契約社員になりチームをまとめる。
社員、特に男性が自分のアシスタントとしての契約社員やバイトを選ぶ場合は明らかに好みが出る。チームリーダーとしての契約社員の女性が自分のチームのメンバーを選ぶ場合は無難そうな子を選ぶ。やはり女性の方がマジメでフェアだ。男は「ヴィジュアル系バンドの、なんちゃらが好きで~」という動機で鼻にピアスをつけていようが、自称「なんちゃら星(せい)から来た妖精」だろうが、かわいければ採用する。だからあの当時、うちの会社は自由な雰囲気で溢れていた。エンタメ系も扱っていたので、そういう手合いが後を絶たずにバイトの面接を訪れた。社員も必要な時以外はスーツではなく、カジュアルな服。内勤ならジーンズにスニーカーでもOKだ。でも、スーツよりジーンズにスニーカーの方が、オシャレはよっぽど難しい。僕も結構、気を使ったものだ。しばらくすると、彼女もそのことに気付いたらしく、カジュアルな格好をするようになった。研究したのか、センスもそれほど悪くない。無事に周りに同化していった。ただし、相変わらずのメガネ。

2月、入ってすぐ、彼女はスキー部の合宿に参加していた。ほとんど社員しかいない部活動。「スキーが好きだけど連れて行ってくれる人がいないから」と言っていた。その回はスキーもして、長野でオリンピックも観ようという魅力的なものだったので、そこに惹かれたのかもしれない。社内報に告知がされていて、一応「誰でも参加自由」。でも、彼女の知っている人はいなかったはずだ。ちなみに僕は、運動神経はそれほど悪くないのだが、体育会系のノリがあまり好きではなくスポーツとは無縁の人生を送っていた。彼女はその後もスキー部で一緒になった社員と仲良くなり、その社員にイベントに誘ってもらって、また別の社員と仲良くなったりといった感じで交友関係を広げていった。いつも楽しそうな彼女を僕はただ眺めているだけだった。その、どこにでも飛び込んでいく物怖じしない強さがまぶしかった。

2.ある日の飲み会

梅村あゆみは、後々まで、あの日の自分の行動を後悔した。あゆみは色白で小柄で顔が小さく、いわゆる美少女がそのまま大人になったといった感じ。藤井透のアシスタントをしており、契約社員の女性3人を子分に従えていた。

「あいつ、すげえ目障りなんだけど」

あいつというのは、そう、メガネの彼女である。季節は巡り、9月になっていた。メガネは人脈をつくり社内の男を物色し、遂に「こいつなら落とせる」という獲物を絞ったようである。丸山耕平。スペックは決して悪くないのだが、優柔不断で男らしさに欠けるので異性としての魅力は感じない、というのが、あゆみ達の評価だった。透の同期。「あいつはドMだから」と、よく透が冗談で言っている。

その日は、辞めていくバイトちゃんの送別会で、会の最初から、メガネが丸山の隣に陣取り「私はSです」アピールを続けているのが聞こえてくる。丸山も、まんざらでもなさそうだ。
会が終わり、丸山の元へ行こうとするメガネを、あゆみ達が妨害する。サッカーワールドカップレベルのディフェンスである。
「丸山さ~ん」
美少女を中心とする女性4人に取り囲まれて丸山はうれしそうだ。メガネは、まったくボール(丸山)に近づけない。彼女は、あきらめは早いらしく「お先に失礼します」と挨拶すると一人寂しく駅へと向かっていった。

「バ~カ、戻ってくんな」
「丸山さん、あゆみさんに話しかけられて、めっちゃうれしそうでしたね」
その場にいたみんなも何となく駅に向かいつつ、あゆみが丸山にきこえないように会話をしていた、ちょうどその時だった。

「あれ?今、坂本さん、誰かに拉致られなかった?」
と丸山。坂本というのはメガネの名字。丸山は、あゆみに鼻の下を伸ばしつつも、一応、メガネの動きを目で追っていたのである。あゆみ達も、メガネが誰かと会話をしたあと、タクシーに乗せられて去っていくのを何となく視覚情報として捉えていた。そういえば誰かがメガネを追いかけていったような。
「え、誰?」
みんなにとっては、その場にいない人は誰でしょうクイズだった。それくらい予想外な出来事だった。
「藤井さん??」
あゆみは透が好きだ。だから透がいつもメガネの姿を目で追っているのも、気付いていた。気付いていたのに。今日に限ってノーマークだった。透はいつも女の子に囲まれていた。だから何となくメガネと話す機会がなかったのだ。丸山がディフェンスを引き付けてくれていたおかげで、チャンスが訪れた。丸山と仲の良さそうなメガネを見てあせっていた。ここは決めなければと決意してメガネを追いかけた。いずれにせよ、あゆみはゴールを奪われた。丸山など囲んでいる場合ではなかったのだ。

3.あの日の透

そう。あの日、僕はあせっていた。彼女とは挨拶を交わす程度でほとんど話したことはなかったので彼氏がいるかどうかまではわからなかったが、それでも勝手にいないと思っていた。それにしても、なんで丸山なんだ??店に入った時から気になっていたが、彼女の席は奥の壁際の一番端っこ。その並んで手前が丸山で、向かい側にも人が座っていて、近づく余地がまったくなかった。会が終わった後、2人でどこかへ消えないかヒヤヒヤしたが、幸い、彼女は1人で帰っていった。今しかないと思った。

追いかけていって後ろから彼女の腕を掴む。振り返った彼女は視覚情報を整理するのに少し時間がかかったようだ。おそらく丸山が追いかけてきたと思ったのだろう。
「藤井さん?私、何か忘れ物でもしましたか?」
「いや、そうじゃなくて。送ってくよ」
「え?でも、私、そんなに酔ってませんし、まだ電車ありますよ」

いたって冷静なコメント。でも僕もただでは引き下がらない。
「じゃあ、もう1軒行こう」
「いやー、さすがに、もう1軒行ったら終電なくなっちゃいますし」
「じゃ、じゃあ、うちで飲み直そう」
僕はその頃、会社の近くで1人暮らしをしていた。近くと言っても徒歩ではさすがにつらいが。
「あ、いいですね。じゃあ、電車がなくなったら藤井さんちに泊めてもらうってことで」

うちはいいのか?ダメもとで言ったのだが、と一瞬ズッコケたが、ああ、そうか。「みんなで」だと勘違いしているのか。でも「いい」って言ったし、と、あわててタクシーをつかまえて彼女を乗せたというわけだ。
タクシーの中。
「え、みんなは?」
「いや、えーと、みんなは来ない」
「ふ、2人?」
「ごめん。ヤなら。。」
彼女は一瞬、考えたあと、
「ま、いっか。今日はグチりたい気分なんで」
と答えた。丸山とうまくいかなかったことをグチられるのだろうか?僕を優しいお兄ちゃんだと思っているのだろうか?

僕の家はマンションの1LDKの部屋。その頃、給料は割とよかったし、趣味がないので貯金もそれなりにあった。
「お邪魔しまーす。藤井さんち、キレイですねー」
背の高いグラスを2つ取り出し、スパークリングワインを注ぐ。一応、こんなこともあろうかと用意しておいた。ソファーに2人で並んで座る。だが、彼女は「こっちの方が落ち着く」と、床にペタンと座り込んだ。僕も彼女と並んで座る。最初はとりとめのない話。丸山の話は特になし。次第に酔ってきた彼女が、ポツリとこんなことを言った。
「先月までだったら、藤井さんのうちになんて絶対来なかっただろうな」
「え、どういうこと?先月まで彼氏がいたってこと?」
「彼氏はずっといませんけど。そうじゃなくて、梅村さんが怖いからってことですよ」
「ごめん。全然、話がみえない。梅村?」
「藤井さん、モテるんですよ。気づいてないんですか?」
「いや、気づいてないと言えば嘘になるが、、うーん、先月までは梅村が怖いから来なかったとして、なんで今日は来てくれたの?」
「契約更新を断られたんですよ」

要するにそれで周りに気を遣うのが馬鹿らしくなったということらしい。
うちの会社のバイトは便宜上3ヶ月ずつ契約を更新し、最初は契約期間を全部で1年と設定している。1月に入った彼女は12月までということだ。次の更新がないことは9月末の更新時に告げられたのだろう。もちろんこちらが続けて欲しいと言えば更に1年、契約期間が増えるのだが、ああ、そうか、彼女は、何というか同性ウケが悪い。全員に嫌われているわけではないが梅村みたいなタイプにはとにかく嫌われる。彼女のチームリーダーの渡辺百合は梅村の子分だ。それに彼女は歳も若くない。

「渡辺さんは私のこと嫌いなんですよ。私は一生懸命、合わせてるつもりなのに。。最近は後輩の野村さんと仲が良くて大事な仕事は全部、野村さんに任せるし、私は仲間外れ」
「いや、えっと。。。」
だが、相槌の必要はなさそうだ。1人でしゃべって、1人で泣き始めた。
「でも私、マスコミの仕事がしたいんです。就職氷河期で、入りたい会社に全然入れなくて、やっと就職できた会社でも先輩と合わなくて会社辞めて、バイトでも自分がやりたいことをやろうってマスコミに応募したのに、周りは若くてかわいい子ばっかりで、私は浮いてて、今度、丸山さんもアシスタントを雇うことになったってきいたから、気に入られようと思ったのに梅村さん達に邪魔されて、でも丸山さんもやっぱりかわいい子の方がいいんだ、って思ったら自分が滑稽に思えて。。」

ああ、たぶん、そういうことをするから嫌われ。。いや、待てよ。。じゃあ別に丸山のことを男として狙っていたわけではないのか。。ちょっと安心。そう思って彼女の方を見ると、涙を拭くためにメガネをはずした。
その目と、目が合って思わず胸をズキューンと撃ち抜かれた。が、そんな僕をよそに彼女はまたグチり始める。

「私のことを好きな人なんて誰もいないんです。私はみんなの嫌われ者なんです」

もしかして、これってチャンスじゃないか? 優しく彼女の頭を撫でながら、
「そんなことないよ、スキー部の青山さんは坂本のことをすごいかわいがってるじゃないか。うちの部長だって坂本はいろんなことにチャレンジしてて偉いって言ってたぞ」
と励ますと
「ほんとに?」
と、涙の溜まった目で見つめてくる。ああ、ドキドキする。今だ、今しかない。
「それに」
「それに?」
「それに、俺はお前のことがずっと好きだ」
そして彼女を抱きしめる。彼女は泣きながら僕にしがみついてくる。弱みにつけこんでるかなーー、でも何も弱みにつけこんで、つまみ食いしようってわけじゃない。僕は本気なんだ。それに、丸山もまんざらでもなさそうだった。いけるところまでいってしまいたい。彼女を見つめ、優しくキスをする。最初は軽く。嫌がっては、いないようだ。もう一度、今度は濃厚に。そして彼女のシャツのボタンをはずそうとすると
「シャワー」
と彼女が言った。
「ん?シャワー浴びたい?」
「普通、シャワーって浴びるんですよね?」
「えっと、どっちでもいいけど、浴びたいんなら」
「私、実は経験なくて」
「そっか。じゃ、浴びなよ、浴びてきな。よし、浴びてこい」
と言って彼女を浴室へ連れていく。
実は想定内ではあった。うちの会社の社員でヘンタイ富岡と呼ばれている男がいる。仕事ができて、いいポジションについている。見た目も悪くない。が、そのことを利用して何人、女を食ったかわからない。ある日、そいつがこんなことを言い出した。「あの子は処女だな」「え?」「男を知っているかどうかは身体を見ればわかるんだよ」まあ、見分け方については伏せるが、それ以来、彼女の身体に変化がないかチェックしてなかったとは言い切れない。。僕もまあまあヘンタイかもしれない。そんなことを考えていると彼女がバスタオルを身体に巻いた姿で浴室から出てきた。初めてにしては意外と大胆だ。
「じゃあ、俺も浴びてこようかな」
彼女の気が変わっては大変、と大慌てでシャワーを浴びて浴室を出る。よかった、まださっきのままだ。彼女を抱き上げてベッドへ連れていく。そして彼女を抱きしめると、これが、ずっと好きだった子だし、精神的な加点は相当あると思うが、それにしても、、、かなりいい。見た目のイメージだと硬そうなんだけど。。マジメそうなイメージに惹かれた訳だし、正直、こっちの方はそこまで期待していなかったのだが、期待以上だ。あとはご想像にお任せするが、ともかく、ことを終え、彼女が泊まっていくことになり、眠りについた。

翌朝、彼女の態度は今までと、まったく変わらなかった。普通、そうなったあとは距離が縮まるはずなのだが。理由はすぐにわかった。「一度、着替えるために家に帰る」という彼女を駅まで送っていく道すがら
「藤井さん、昨日は本当にありがとうございました」
「いや、え?」
「私、26にもなって経験がないとか、すごい恥ずかしかったんです。だから藤井さんなら、いいかなって。本当にありがとうございました」
え、僕、いい思い出にされてる?動揺している間に駅に着いてしまった。
「じゃ、また会社で」
「ちょ、待てよ」
自動改札が2人の間を隔てていた。

4.翌朝の坂本久美子

藤井さんには申し訳ないが、昨夜のことで真っ先に満たされたのは自尊心だった。梅村さんは藤井さんのことが好きだ。それは間違いない。その藤井さんに抱かれているという優越感。藤井さんがいつも私を見ていることには正直、気づいていた。でも単なる好奇心に過ぎないと思っていた。男の人はだいたい自分の好みのタイプをアシスタントに雇う。私と梅村さんじゃ違いすぎる。

アルコールが抜けてみると出社するのが憂鬱だった。更新を断られたとはいえ、まだ3ヶ月、契約期間が残っている。それだけあれば、どういうチャンスが訪れるとも限らない。やはり梅村さんや渡辺さんとは、うまくやっていくしかないのだ。
「おはようございます」
恐る恐る入っていくと、渡辺百合(私のチームリーダー)が待ち構えていたにもかかわらず、何気ない調子で
「坂本さん、昨日はちゃんと帰れた?」
ときいてきた。
「あ、はい」
「ごめんね、私たち、坂本さんがそんなに酔ってるなんて全然気づかなくって~。藤井さんに送ってもらったの?」
そら来た。やっぱり見られてた。。嘘をつくのも何だし黙っていると、廊下の方から何と藤井さんが呼んでいる。慌ててそちらへ向かう。何を口走られるかわからない。
「昨日はありがとうございました」
「明日か、あさってヒマ?」
「え?」
その日は金曜日だった。
「デートしよう。俺たち付き合ってるよね?」
「えっと」
答えに詰まっていると耳元で
「お前は付き合ってもいない男と、あんなことをするのか?」
と囁かれた。そう言われてつい
「あ、えっと、日曜だったら」
と答えてしまうと
「OK。じゃ、いろいろ考えとくから楽しみにしてて」
と言いながら、私の頭をポンポンと軽く叩く。しかし、慣れてるなぁ、この人。。背中に渡辺さんの視線を感じる。。
「あ、あと、携帯の番号教えて。持ってるよね?」
携帯電話が普及したのはこの年の前後。私が買ったのは1998年2月。26歳の友達の中では早い方だった。この国では新しい文化はだいたい若者から広まる。携帯の番号を教え
「じゃ、また連絡する」
と去っていく藤井さんを見送る。振り向くのが怖い。。勇気を出して席に戻ると
「藤井さん、何だって?」
「あ、えっと、ちゃんと帰れたかって。そんな、帰れるに決まってますよね、タクシーなんだから。あはは」
結局、嘘をついてしまった。やっぱり感じてしまう優越感。梅村さん側からみれば、クズだ、私。でも
「携帯の番号きかれてなかった?イヤなら断っていいんだよ。断りづらかったら私が断ってあげるから、いつでも言ってね」
と、渡辺さん。 あなた、私にそんなに親切だったこと、今までありましたっけ?

5.その後の展開を世相とともに

デートのシーンに1998年のヒット曲からBGMをつけるとしたら、サザンの「LOVE AFFAIR~秘密のデート」かな。ただし、これは松嶋菜々子主演ドラマ「Sweet Season」の主題歌だし、「秘密の」となっているので正確には不倫の歌だけど。あの年はヒット曲がありすぎて、それだけでも一晩語れる。ちなみに久美子はthe brilliant greenの川瀬智子みたいな顔に生まれてきたかったと思っていた。真っ赤なワンピースが印象的だった。彼女みたいだったら自分に自信が持てたんだろうな。
1998年の恋愛ドラマを一つあげるとすれば「神様、もう少しだけ」。深田恭子主演のエイズに感染した女の子の恋の話。主題歌はLUNA SEA。当時はGLAYやラルクなどビジュアルバンド全盛期だった。が、しかし1998年はXのhideの没年でもある。久美子のチームにもビジュアルバンドの某グループ好きの女の子がいた。

さて、透と久美子は♪マ~リンルージュで~♪的か、もう少し爽やかなデートをし(出版社に勤めている透にとって、ロマンチックデートはお手のもの。むしろ考える側。あの頃の雑誌には夢があった。でも光は影を生んでしまう。キレイな場所はカップルのためだけにある訳ではない)付き合うことになった。久美子は会社の人にそのことを話すのに、あまり乗り気ではなかったが、透いわく「どうせバレる」。確かにタクシーで2人で去っていく姿は部のほぼ全員に見られているし、今日だって誰に見られているかわからない。幸い、久美子はイタリアに行くために1週間休みをとることになっていた。以前ホームステイしていた家に遊びに行ったり、ペルージャで中田ヒデの試合をみたりする予定だ。その間に、透が「テキトーに」みんなに話しておいてくれるそうだ。

イタリアから久美子が帰ると(ちなみに久美子が見に行った日の試合は勝ったので、サポーター達から「ナカータ」というハイタッチをさんざん求められた)、渡辺百合に会議室に呼ばれた。「坂本さん、ごめんね、この間は契約更新なしって言っちゃったんだけど、やっぱり忙しいから残ってもらいたいんだ。もう1年いいかな?」あとで透にきいたが、透や社員が手を回した訳ではなさそうだ。百合が社員(透とは別のグループ)にどうしても久美子を残して欲しいと頼んだらしい。となると、考えられる理由はただ1つ。「監視」だ。会社を辞められてしまったら邪魔もできない。結果的に久美子は欲しいものを手に入れたわけだ。
10月から増員になった地図担当(その頃は電子地図も黎明期)のバイトちゃんは感じのいい子で周りとも、うまくやれるし久美子とも仲良くしてくれる。久美子にとって平和な時期が訪れた。新しいバイトちゃんはジャニーズジュニアの櫻井君とかハワイとか、みんなが笑顔になれるような話題が好きな子だった。久美子は就職活動の失敗で、人と違っていなきゃと勝手に思い込んでいて、単館映画とか相槌の打ちづらい話題ばかり賢(かしこ)ぶって話していた。そんなもの、たいして好きでもないのに。後輩の野村がそういう話をするのだが、彼女は本当に好きだからそういう話をするのだ。あの頃の久美子は本当に薄っぺらかった。だから、どうして透が久美子のことを好きなのか、さっぱりわからなかった。陰で何て言われているかはわかっていた。「藤井さん、あの子のどこがいいんだろう?」だ。透とはうまくいっていた。透とうまくいけばいくほど、久美子の中でも「なんで?」が膨らんでいった。

この年の年末、ラジオからは宇多田ヒカルの「Automatic」が、繰り返し流れていた。

6.クリスマスの透

彼女とは順調だった。彼女はわかりやすくキラキラしたものが好きだった。夜景の見えるレストランとか花束やアクセサリーをもらう、とか。だから、付き合い始めの頃、キャンセルが出る時期だときいたのでクリスマスのためにいいホテルの部屋を抑えておいた。僕の同期はバブルをそれなりに楽しんだ年代なので、同期の女子からいろいろ情報をもらった。まあ、僕もそれなりに経験はあるのだが、彼女は「いかにも」なものが好きだったので、はずしたくなかったというのがある。

さて、当日。僕のシナリオ通りに食事をし、プレゼントを渡し、ことを終え、いつもはすぐ寝てしまう彼女が珍しく起きている。ベッドの端に座って「明石家サンタ」を見ている。僕も彼女のそばに行き、後ろからハグしながら「おもしろい?」ときく。ちなみに僕のこういった仕草だが、「いかにも」なことが好きな彼女のために少女マンガを読んで日々研究している。僕には姉がいるので学生の頃もたまに読んでいた。その頃は僕もまだ何も知らない子供だった。それなりに役には立った。今はマンガ喫茶で読んでいる。出版社なので、この努力は他にも何かの役に立つであろう。彼女はあまり会ってくれないから時間もある。いろいろ忙しいらしいが、彼女の方のマニュアルに書いてあるのかもしれない。「男は焦らした方がよい」とか何とか。

「去年までは私もこんな感じだったんだなーと思うと感慨深くて」
しばらく彼女と一緒にテレビを見る。
「寝ないの?」
「せっかくこんないい部屋に泊まってるから、もったいなくて」
「じゃ、もう一回する?」
「いや、それはさすがに・・・・一緒にお風呂入る?ここ、広いしキレイだし」

何じゃこりゃーー?とツッコまれそうなので、ここでちょっとネタバレしておこう。この後のシーンは後々、彼女が過去のトラウマと向き合うシーンとつながるのでお付き合いいただきたい。キーワードは「だっこ」。「だっこ」は母親の愛情の象徴。つまり彼女は母親の愛情をあまり受けないで育ったとか、そんな話。
そんなわけで風呂場でイチャイチャし、
「ねえ透ちゃん」
「ん?」
「最初の日、私がいきなりバスタオル1枚で出てきてビックリした?」
「ああ、あれか。確かに、ドキドキした」
「あれ、実はね、下着がイケてなかったの。まさかあんなことになると思ってなかったから。勝負下着も持ってなかったし。勝負なんてしたことなかったから」
「なんだ、そうだったのか」
などという思い出話に花を咲かせたりした。だけど、そんな彼女が急に静かになった。あれ?うたた寝してるのか? 僕と彼女はバスタブに湯をはり、ついでに泡の入浴剤も入れ、僕が後ろから彼女に腕を回す感じで浸かっていた。すると、彼女が突然向きを変え、抱きついてきた。思わずキスをすると、「熱いから、あがるね」と、彼女は僕の腕をすり抜けて出ていってしまった。
僕も風呂からあがり、部屋に戻ると、彼女は窓辺で外を眺めていた。彼女の隣に行き外を眺める。
「そろそろ寝ようかな。ねえ透ちゃん」
「ん?」
「お姫様だっこして」
「今日は、やけに甘えるな」
と言いつつも彼女のご希望通りベッドまで運ぶ。
「お姫様だっこって子供の頃、すごい憧れたなー。重くない?」
「全然。じゃあ、お休み」
彼女にキスをし、2人で眠りにつく。彼女に甘えられると悪い気はしない。

幸せな気持ちで眠りについたのに、翌朝、不安になる。朝食はルームサービスという手もあるが、結局ビュッフェになった。僕は気に入ったものだけを何回も食べるタイプだが、彼女は片っ端から試してみないと気が済まないタイプらしい。いろいろなものがちょっとずつ載った彼女のお皿。こういうところに性格が出るものだ。僕も最初に試してみただけの男なのだろうか? でも
「これおいしい。ちょっと食べてみて」
「ん、確かに」
自分だったら絶対にとらない料理。彼女といると世界が広がる。

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