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千鶴の目の前には、テーブルを挟んで太った少年が二人、並んで座っていた。その一人である優治が、上目遣いで事の顛末を説明している。頬が赤い。
「――ということでね、僕達、付き合うことになったんだ」
そっとプレゼントを差し出すように、優治は小さな声で告げた。それから、康介と顔を見合わせると、柔らかくはにかむ。
優治のこんな表情を、千鶴はしばらく見ていなかった。息が詰まるような感覚。両手両足全ての指を、ぎゅっと強く握り締めた。
日曜日の午前中。小さな喫茶店の隅の席。落ち着いた木目の出窓には、鉢植えがいくつか置いてある。
正直なところ、予想はしていた。失恋の報告ならば、どちらかの家でもいいし、電話で済ませてもいい。なのに、電話口の優治は喫茶店を集合場所に提案した。そんなことは初めてだったし、何より、その時の彼の声は明るく弾んでいた。予想できない方がおかしい。
二人の目が、千鶴の様子を窺っている。何か言わないと――。言葉を探し、努めて平静を装い、声を搾り出す。
「まずは、おめでとう。でも、まさか、いきなり顔合わせすることになるとはね」
「えっ、だって、千鶴が『恋人ができたら会わせて』って言ってたから――。もしかして、冗談だった?」
優治の眉が下がる。
「完全に冗談ってわけじゃないけど――」
視線を康介に移す。やはり、優治に負けず劣らず太っている。むしろ、上背がある分、彼の方がより太っているように見えた。優治は一体、どういう趣味嗜好をしているのだろう? 呆れるような、疑うような、驚くような気持ち。
しかし、千鶴も人のことを言える立場ではない。思わず、小さな溜め息が漏れてしまう。
「じゃあ、いくつか言わせてもらうけど、康介君だっけ?」
康介と目が合う。心なしか、こわばった表情。笑顔ではあるが、それはどこか堅い。
「どうせ付き合うんなら、どうしてすぐに答えてあげなかったの? 優治、悩んでたんだよ?」
「いや、それは本当に俺も悪いと思ってて、優治にも後で謝ったんだけど、あの、何て言うか――」
口ごもる康介に、横から優治が助け舟を出す。
「ほら、こーちゃんにもいろいろあったんだよ。僕も急に告白しちゃったし、こんなの、滅多にあることじゃないだろうしさ。あんまり責めないであげて」
面白くない。誰のための言葉か、わかっているのだろうか?
「でも――」
千鶴は即座に反論しようとして、しかし、言いかけた言葉を呑み込んだ。
誰のため?
電話越しに響く、優治の嬉しそうな声を思い出す。恋人ができたことを説明する、上気した頬を思い出す。康介と顔を見合わせていた時の笑顔を思い出す。
そっと、千鶴は目を伏せた。そうせずにはいられなかった。
流行りのポップスをボサノバ風にアレンジした音楽が流れている。決して多くはない客の話し声。給仕に歩き回る店員の足音。窓からの日射しがテーブルを照らす。そこにはグラスとカップが人数分。それぞれ、琥珀色や褐色の液体が注がれている。香ばしい匂い。薄く立ち上る湯気。
千鶴はコーヒーを一口飲む。苦い。
「……うん、そうだね。そう簡単にはいかないか。康介君、ごめんなさい」
千鶴は小さく頭を下げた。
「あっ、そんな、俺も気にしてな――」
「でも、これだけは覚えていて。今後、優治を悲しませるようなことがあったら、あたしが黙っていないから」
発言を遮られただけでなく、千鶴の強い口調と瞳を向けられて、康介は鼻先に銃を突き付けられたかのようにのけ反った。
しかし、それも一瞬。すぐに彼は千鶴と同じ瞳になり、深く頷く。
「約束する。もう、優治を悲しませたりしないよ」
「うん、それだけ聞ければ充分」
千鶴も満足そうに頷き返す。自然と笑みが零れた。
「ふ、二人とも、もうやめてよ。何だか、恥ずかしい……」
優治が丸い体を縮こまらせている。両手で包み込むように持ったカップの縁を、しきりに親指でなぞっていた。
「誰のために――」
千鶴はそこで一旦、言葉を切る。しかし、意地悪く口元を歪めると、改めて優治に告げる。
「誰のために、こんなこと言ってると思ってんの?」
「あっ、や、…………ありがとう、ございます」
「これだから、お姫様のお世話は大変だよねー」
「お姫様って、僕、そんなつもりじゃ――!」
「康介君もこれから苦労すると思うけど、しっかりね」
「こんなお姫様が相手なら、俺も望むところだよ」
「こーちゃんまでやめてよ!」
耳まで真っ赤になる優治をよそに、千鶴は康介と顔を見合わせて笑う。優治の恋人が彼でよかった。
小さく息を吐くと、千鶴はカップを傾け、コーヒーを飲み干した。椅子から立ち上がる。
「じゃあ、後は若い二人に任せて――」
「えっ、もう帰っちゃうの?」
「付き合い始めの二人の邪魔をするほど、あたし、野暮じゃありませんので」
「邪魔だなんて、そんな……」
「あの、いろいろお礼って言うか、お詫びって言うか、甘いものでもご馳走させてくれないかな?」
康介の申し出に、千鶴は微笑み返す。
「ありがとう。じゃあ、このコーヒーだけ。これだけで充分」
「でも――」
「せっかくのデートなんだから、二人で楽しまないと」
言い終えると、千鶴は足早に出口へ向かう。背中に彼らの声が追いついたけれど、聞こえない振りをした。喫茶店を出る。重い扉が閉まれば、それで終わり。
振り向きもしないまま、入り口の段差を降り、大きな溜め息をついた。高度の低い太陽に目を細める。空には雲一つない。憎たらしいほど、青く、よく晴れている。大きく欠けた真昼の月が、心細そうに浮かんでいた。
空気が頬を刺す。冬もそう遠くない。上着の前を合わせると、千鶴はゆっくり歩き出す。車三台分の駐車場を横切り、人通りの少ない歩道へ出た。等間隔に植えられた街路樹。散り始めの葉が、アスファルトの上に点々と落ちている。右足、左足、また右足。落ち葉を踏み締めながら歩いていく。
ふと、気付いた。喫茶店で流れていた音楽が、まだ耳に残っている。誰にも聞こえないように、誰にも届かないように、小さく口ずさんでみる。恋だとか、愛だとか、信じてるだとか、守りたいだとか、君しかいないだとか、強くなれるだとか、ずっと傍にいるだとか――。能天気な恋の歌が、なぜか、今の千鶴にはとても心地よかった。