ゼロ距離の余裕の無い君



「ひゃぁっ! 冷たいっ・・・」
「何ぼーっとしてんだよ。疲れたのか? ほら、香穂子はジュースで良かっただろ」
「衛藤くん、ありがとう。えっと、財布どこにあったかな」
「いいって、俺のおごり。ありがたく飲めよ」


焼け付くように照りつける夏の太陽に、身体も心も焦がされる。頬に触れた冷たい感触にふわりと漂う意識が引き戻され、声を上げて驚く香穂子に、くすくすと楽しげに笑う衛藤が顔の目の前にオレンジジュースの缶を差し出していた。驚く瞬間を見られた恥ずかしさに顔へ熱を募らせながら、ありがとうとお礼を言って受け取ると、冷たさが手に馴染み心が落ち着いてくる。海水浴の帰り道に海岸から駅までの道のりで、暑いよ喉が渇いたと言ったのは私だったっけ。

風呂上がりの脱衣所みたいな蒸し暑さと、真っ青に広がる青空。なのに気まぐれな夏の天気が大粒の雨を降らせている不思議な空模様は、まるで恋心みたいだと思う。青空と雨が織りなす光の景色を二人で眺めながら、駆け込んだ軒先で雨宿り。水着やタオルを入れているビニール製のプールバックからハンカチを取り出し、背伸びをして衛藤の額や髪、頬の滴を丁寧に拭ってゆけば「近い・・・」と声を詰まらせ赤く染まる。


「いいよ、自分でやるから。何だかくすぐったい」
「ふふっ、赤くなった衛藤くん、可愛い。もっと近付いちゃおうかな」
「・・・いいぜ、もっと近付いても」


ふいに真摯な眼差しに代わり、唇を掠める熱い吐息で囁かれ、真っ直ぐ射貫かれ視線を奪われたまま呼吸が止まった。本当はもう乾いているけれど、何かをしながらだったら、吐息が触れ合うくらい傍に寄っても平気かな? ムクムクと沸き上がった悪戯心もすっかりお見通しだけど、いつまでもハンカチを握り締めて背伸びをしたくなるの。


「何? 俺の顔じっと見てんの。ふ〜ん、さては見とれていたな」
「や、やだな・・・どうして衛藤くんは私の心の中がすぐ分かるのかな。ひょっとして、エスパー?」
「本当だったのかよ、恥ずかしいヤツだな」
「あのね、衛藤くんの髪が乾いちゃったなぁって、ちょっと残念だったの。ほら、私が髪型変えると、新しい私を見たようで新鮮だっていうでしょ? あれと一緒だよ。海で濡れた髪を掻き上げるとことか、格好良くて心臓止まりそうだったんだもん」
「海に入ればいつでも見られるだろ、変なヤツ。じゃぁ俺と一緒にシャワーでも浴びる?」
「え!・・・その、えっと・・・」
「冗談だよ、本気にしたの?」
「なんだ〜衛藤くんたら、冗談だったのか。へへっ、そうだよね〜」
「・・・あからさまにホッとされると、すげぇ傷つくんだけど」


缶のプルタブを開けたときに空気が弾ける、ぷしゅっという音が自分心から聞こえる。いつもなら恥ずかしいと強く反論するのに、いいよ・・・そう一歩を踏み出したい気持が混ざり合って上手く言葉に出来ず、黙り込むことしかできない。真っ赤になって黙り込むのが、何よりもの言葉。冷たい缶ジュースを握り締めたまま茹で蛸になる香穂子の熱が、やがて衛藤も火照らせて、ぎこちない沈黙に耐えるべく二人同じタイミングと仕草で缶ジュースとコーラを飲み干す。

タイミングが合うだけでも照れ臭いが、それ以上に温かく嬉しいのは、一緒に歩く歩幅が合うのに似ていて、お互いの心が寄り添い一つになった優しさを感じるから。


「さっきはぼーっとして、何を考えてたんだ? 悩みがあるなら、聞いてやっても良いぜ」
「本当!? あのね・・・えっと、やっぱりやめとく。だって恥ずかしいんだもん」
「どっちなんだよ、気になるからはっきりしろよな!」
「子供っぽいって、笑わないって、約束してくれる?」
「あぁ・・・約束する」
「恋する身体って、正直だなって思ったの」
「・・・・!」


香穂子の一言に驚き、飲みかけの缶コーラにむせてしまった衛藤が、苦しそうに咳き込み出す。衛藤くん大丈夫!?と慌てて背中をさする香穂子は、まさか自分の一言に反応して驚いたとは思わず、器官に入っちゃったのかな?炭酸ってたまにそういうとこあるよね?と、不思議そうに首を傾げるばかりだ。深い呼吸で落ち着きを取り戻した衛藤が、赤く染まりかけた頬のまま、少し苦しそうな擦れた声で囁いてくる。その声色にさえ、いつもと違う艶めきを感じてしまう自分は、きっと恋の虜なのかも知れない。


「・・・っ、けほっ・・・! いきなり驚かすなよ。で、何が正直なんだって?」
「私の心だけじゃなく身体のあちこちに、衛藤くんがいる事に気付いたの。視線や指先から心・・・表情までまで全てが好きな人を求めているんだよ。誰から教えられなくても恋する心を知っていたように、私の身体も恋すると自然に変わったんだよね。それって素敵なことだよね、だから恋する心と身体に正直でいたいなと思うの。ねっねっ、衛藤くんはどう?」
「どんな人混みでもあんたの姿は一目で探し出せるし、ヴァイオリンの音色も聞き分けられる。なるほど、だからあんたも、いつでも俺を感じたいってことか。香穂子はいつも素直で真っ直ぐだよな」


恋をすると、可愛くなった私に気付いて欲しくて、いつもと髪型を変えてみたり、お洒落をしたくなるよね。えっとそれから、指先に残るのは触れた肌の温度や柔らかさ、抱き締められた熱さや直接伝わるドキドキを胸に閉じ込めたり・・・。
愛するからには愛されたいと思うのは、恋心でしょう? だから相手の好みが気になるし、好きなものは気に入りながらだんだんと私が、衛藤くん色に染まってゆくの。そしてもっともっと、あなたが欲しくなる・・・。


「だから私思うの。衛藤くんが、私のお布団だったらいいのになぁ」
「はぁ・・・!?」
「さっきね、考えていたんだよ。これから家に帰ったら、海で泳いだ疲れできっとお昼寝するんだろうなって。もしも衛藤くんが私のお布団だったら、香りと温もりに包まれながら、私の中にあるいろんな衛藤くんを感じていられるのにな。きっと気持が良いと思うの」
「俺があんたを包む、つまり抱き締めて眠るって・・・こと? ふぅん、やけに積極的じゃん。ひょっとしてそういうこと、期待したの?」
「・・・! 衛藤くんのエッチ、もう知らない! ジュースごちそうさま」
「おい、待てよ香穂子。まだ雨が降ってるだろ」


見えない湯気を噴き出しながら、恥ずかしさに耐えきれず弱まる雨の中へ駆け出そうした腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。片手は飲みかけの缶コーラを持っているから、零さないように注意を払って慎重に。片腕でも引き寄せた反動で背後から抱き締めるには充分で、自分の身体ですっぽり覆ってしまう華奢な柔らかさを腕に閉じ込めた・・・どこにも行かせない、心に溢れる想いのままに。

胸の中で激しく動き始めた鼓動のドキドキは、早くなって大きくなって、止まること無く高まるばかり。抱き締めた背中越しに感じる・・・そして私から伝える音。恥ずかしくて火を噴いてしまいそうだけど、上手く言葉に出来ない思いごと、心の声を全部伝えてしまいたい。


「あの、衛藤くん・・・離して。もう逃げないから」
「離さない、雨が止むまでこのまま抱き締めててやるよ」
「でも人が来たら・・・」
「身体って、心に正直だよな。好きなヤツ・・・あんたの前では、俺も心と身体に素直でいたい」


もぞもぞと身動いで肩越しに振り返ると、甘く切なげに耐える瞳と首筋に掛かる熱い吐息。雨に濡れて薄く透けたキャミソールは、身体のラインと胸の形を確かに伝えていて、一つにまとめ上げた白い項にすいつきたくなる。匂い立つ香りと抱き締める温もりが炎に変われば、脆い理性を夏の日差しのごとく焼き焦がしてゆく。

恋する身体が求め合い、一つに溶け合おうとしている、その本能には逆らえない。
二つの香りと体温が混ざり合ったそこに生まれるのは、とっても安らぐ最高に心地が良い場所だから。
目覚めた朝に布団が手放せないように、ずっとあなたに包まれていたいんだもの。

片腕の力だけなのに抱き締める強さは動くことも出来ず、押しつけられた想いの熱さを感じてただ息を潜ませるばかり。
求める指先、視線、耳など・・・一つ一つ全てにに求める意味があり、それは心を繋ぐ大切な価値になる。抱き締めて包まれて、恋する身体は心よりも激しく本能的だって気付いたら、もっともっと好きになる・・・欲しくなる。あなたも、私も。