夢列車
香穂子と一緒に少し遠出をした帰り道。夕方の電車内は休日を満喫した人々で混み合い、心地良い疲労感に満ちていた。混雑を避けるために香穂子をドアの隅へ立たせ、彼女が押し潰されないよう守りながら、僅かな空間を作って向かい合う。
とはいえ俺が押し潰しては大変だから、覆い被さるような形で壁に手をつき、自分をも支えなくてはならないが。
堪えきれず背後の人混みに押されれば、向き合ったままの距離が近ぐっと近くなった。
背後には雪崩となって押し寄せる混雑した乗客。
前には密着したまま息を詰め、壁に手をつく腕の中で恥ずかしそうに俯く君。
俺が本当に堪えるべきなのは、一体どちらなのだろうか。
隙間を作りたくても離れられないこのままの体勢では、降りる駅に辿り着くまで持ち堪えられない気がする。
しかしカーブにさしかかり大きく電車が揺れると、よろめいた香穂子はとっさに俺の腕を掴み抱きついて。それとほぼ同時に俺も、条件反射のように考えるよりも早く抱き留めた。ホッと安堵の溜息を吐き、しがみついたままの背を優しく撫でると、ほんのり赤く染まった頬ですまなそうにちょこんと振り仰ぐ。
「蓮くん、急につかまったりしてごめんね。びっくりしたよね」
「香穂子、怪我はないか?」
「大丈夫だよ、ありがとう。蓮くんが庇ってくれなかったら、きっと派手に転んでたと思うの。ぎゅって抱き留めてもらった時にね、守られてる・・・大事にされてるんだなって実感できて嬉しかった。揺れに驚いたっていうものあるけど、真剣な顔がすぐ近くにあったから、ものすごく心臓がドキドキしてるの」
「高鳴る鼓動が、服超しに触れ合う肌から伝わってくる。俺も同じだ・・。君も感じるだろうか?」
「も、もう〜ここ電車の中なんだからね」
隅にいる香穂子からは視界を塞ぐように立つ俺しか見えなくて、俺は壁を背にして立つ香穂子しか見えない。
俺たち以外にも混み合い大勢乗客がいる筈なのに、不思議と周りの存在が気にならなくなってくる。ドアの隅というのは小さいけれども、お互い二人だけの温かな世界になるんだな。
静かに走る電車はもう揺れてはいないのに、そう感じるのはきっと、俺の心が揺れ熟れ動いているからなのだろう。きゅっとしがみついたままの君と、抱き留めたままの手を離さない俺が、二つの熱さに溶け合い一つになってゆく。席に座らずとも、こうして守りながら触れ合っていられる時間も悪くない。
「香穂子、疲れたか?」
「うぅん、まだまだ平気だよ。もっと遊んでいたいくらい。私たち若いから立っていなくちゃ、ね?」
だが朝から嬉しさにはしゃぎ通しだった香穂子は、一生懸命笑顔を絶やさずにいるものの、隠しきれない疲れが少しずつ見え始めていた。遠くを彷徨いかける瞳と一緒に、俺の腕を握りしめた手がふいに緩んで離れてしまう・・・。すぐ意識を持ち直すから良いが、危ないと心の中で叫び、何度身を乗り出しかけただろうか。
できれば香穂子を座らせて休ませてやりたいが、混み合った電車内を見渡しても空席は見あたらない。ならばせめて・・・そう思い、抱えた彼女の頭ごと肩へ寄りかからせた。崩れ落ちないように、腰はしっかり抱きかかえ支えながら。
「やっ・・・ちょっと蓮くん、恥ずかしいよ」
「俺が盾になっているから他からは見えない。座って休めずに申し訳ないが、俺に寄りかかって休んでくれ」
「いいの・・・?」
「あぁ。例え香穂子が立ったまま眠っても、俺が支えているから」
人目のある電車内だからと驚きに目を見開き、恥ずかしさに身をこわばらせたが、瞳を緩めた微笑みと力の強さに抵抗を諦めたようだ。ゆっくり重みがかかり、胸元に頬を預け閉じた瞳でありがとう・・・温かいねと。囁く吐息が甘く俺の中へ染み渡り溢れてゆくのを感じる・・・俺も、温かい。
安らかな呼吸は、このまま眠ってしまうのではと思わせる。きっと席に座ったら、ものの数秒も経たないうちに眠りの海を漂うのだろうな・・・幸せそうな寝顔を浮かべて。小さな重みを受け止める時間は、俺にとっても幸せな時間なのだから。
そうして数駅ほど通過したところで、いくつもの路線が交わる大きな駅に到着した。開いた反対側のドアへ一気に流れ出出す乗客たちは、乗り換えを利用するのだろう。先程までの混雑が嘘のように席が空き、始発のような静けさが広がっていた。
「香穂子・・・香穂子」
「ん〜っ・・・。蓮くん、もう着いたの?」
「いや、まだだ。席が空いたから座らないか? ずっと立ったままで、疲れただろう」
俺にもたれ掛かったまま、半分眠りの淵を漂う香穂子を優しく揺すり、耳元で囁きながら起こせば、もそもそと身体を起こし始めた。小さな欠伸を手の平で隠し、瞳に滲んだ涙を指先で拭っている。
立っていたドアの隅から一番近い端の席へ座ると、やっと座れたね・・・そうふわりと浮かべる彼女の笑顔に心も緩み、同じ笑顔が俺の顔にも浮かんでくる。寄り添い座る温もりが高まれば、膝の上に置いていた互いの手が自然と引き寄せられて・・・元からそうであったかのように自然と握り合うんだ。
香穂子は握り合った手をミニスカートから晒された脚の上に乗せ、楽しげに指先で突いている。楽しげに頬を綻ばせ、歌うような横顔を眺めていると、ふと何かを思い出し動きを止めた。自分の胸元へ引き寄せながら、興味いっぱいの笑顔で俺を振り仰ぐ。
「電車の席に座ると、眠くないのにいつの間にか眠くなるよね」
「揺れが心地良さをもたらすのは、母の胎内にいる時に感じる鼓動に似ているからだと聞いたことがある。記憶にないから何とも言えないな。理由は人それぞれだろうが、気づいたら下車駅だった事は俺も良くある」
「そうなんだ・・・私も聞いたことがあるよ。電車に乗ってなぜ眠くなったかの理由ってね、その人が結婚しても手放したくないものの現れなんだって。どっかの心理テストだったかな?」
指先を顎に当てながら眉を寄せ、記憶の引き出しを探りながらも、そうとう疲れが限界だったのだろう。席へ座った安心感からかスローモーションのように瞼が閉じられ、身体が振り子のようにふわふわと左右へ揺れ動く。
やがて小さな重みが、ころりと俺の肩へ乗っかった。
「蓮くん温かい・・・眠くなっちゃいそう・・・安心する・・・・・・・」
「香穂子?」
「・・・・・・・・・・」
幸せそうな笑みを浮かべて、一体どんな夢を見ているのだろう。
肩を動かさないように注意を払いながら、横目で眺める寝顔はあどけなく純真で、擦り寄ってしまいたい衝動に駆られる。公共の場で電車の中なんだと、自分自身に言い聞かせ耐えるのが、これほど辛いと感じた事は無かった。甘く苦しいこの想いを、人は愛しさと言うのだろう。
今の俺に出来るのは、膝の上に置かれた柔らかい手を握り締め、存在を伝えながら離さない事くらいだ。
俺が温かくて眠くなってしまうということは、まさか・・・。
蘇った香穂子の言葉にふと思考が止まり、急に熱さが噴き出してきた。眠くなる理由は結婚しても手放したくないもの、つまり君は俺を手放したくないと、そう思っているのだろうか。都合良く考えを飛躍させるならば、将来一緒になりたいとも考えられる。
身体を揺らさないように堪えるのが精一杯で、手の平を顔に押し当てたまま、ゆっくりと吐く息から鼓動が溢れ出てきそうだ。心理テストとはいえ、これは反則だ。とにかく、落ち着かなければいけないな。
線路の上を走る振動を感じながら、窓から差し込む日差しが温かい。いや、それよりも・・・俺の肩にもたれながら眠る、香穂子から感じる柔らかさと温もりと鼓動の方がずっと心地良い。
二つの鼓動と太陽を心と身体で感じれば、俺を夢路へと誘ってくれるんだ。
この手を繋ぎ合ったまま、二人で一緒の夢を見ようねと微笑みながら。
俺が手放したくないもの。そうか、君が言っていたのはこの感覚なんだな。
ずっとこのままでいたい・・・そう思ったら急に意識がふわりと遠のき、穏やかな海へ包まれた。
耳元で囁かれる声音と、頬にぴたぴた触れる悪戯な手の平に意識が再び浮上した。
霞む意識の中でゆっくり目を開ければ、電車は見慣れた景色を走り、俺たちの駅へ到着する所だった。
「蓮くん・・・蓮くん・・・もうすぐ着くよ、次の駅なの」
「・・・香穂子? すまない、君の肩をかりて眠ってしまったらしい。重くはなかったか?」
「おはよう! 気にしないで、寄りかかってもらえて嬉しかったから。私もぐっすり寝ちゃったよ、気持ち良すぎて今夜はもう眠れないかも」
「二人して寝過ごさなくて良かったな。香穂子のお陰だ、ありがとう」
「私ね、蓮くんとだったらこのままずっと、終着駅まで電車に乗っていたいなって思うの。声をかけようか、本当はちょっぴり迷ったんだよ」
「それも、良いかもしれないな」
おはようという目覚めの時に、君がいる・・・。
ささやかな願いが叶い、未来をも描かせてくれる夢を乗せた電車。
このまま終着駅まで君と共に行きたいが、今は家路を辿らなければ。
どうする?と嬉しそうに答えを待っている香穂子に微笑むと、席を立ちエスコートのように手を差し伸べた。
「帰ろうか・・・」
「うん!」
笑顔で大きく頷いた香穂子の手が重ねられ、握った手を支えにして立ち上がる。ホームへ降り立った所で立ち止まり、ふと振り返った背後には、先程まで乗っていた電車が次の駅へ走り出していた。
遠のく電車と俺を交互に眺める香穂子が、繋いだ手を揺さぶり、不思議そうに首を傾けている。
「蓮くん、どうしたの? もしかして、さっきの電車に忘れ物しちゃった?」
「忘れ物・・・。名残惜しさはそう例えられなくもないが、少し違う。宝物を見つけたんだ」
「へ!? 何を拾ったの? あ、ひょっとしてお財布とか」
「もっと大切で価値のあるもだと思う。電車の中で眠くなる理由は、その人が手放したくないものだと言っていたな。俺が手放したくないものは、香穂子・・・君だ。俺が心地良いと、そう囁いて眠った君と同じように」
「えっ・・・あっ! やだ私ったら、よく考えたら凄い告白しちゃったよ・・・凄く恥ずかしい」
真っ赤に頬を染めて手を解き、恥ずかしさに駆け出す香穂子の手を、再び捕らえて振り向かせた。
振り仰ぐ潤みかけた瞳を真摯に見つめ、ありがとう・・・嬉しかったと。
心からの想いを伝えれば、俺だけの為に咲く微笑みの花が綻んだ。
君の優しさや奏でるヴァイオリンの音色が、俺にたくさんの力をくれる。
太陽のように、絶え間なく湧き出る澄んだ泉のように、夜空に煌めく星のように。
願っていた安らぎと温もり、飾らない自分になれる柔らかな空気、大切で愛しい存在・・・。
たった一人が俺にくれる小さな力は、何倍にも膨らみ大きな力になるから。