指折り待つ日



ふと見上げた青空に、遠く丸い輪を描いて羽ばたくトンビを見つけた君が、高く指さし子供のようにはしゃぎ出す。そのまま、ゆったり流れる自由な雲を眺めながら瞳を細め、「どこか遠くへ旅に出たいなぁ」と呟くのが最近の口癖だ。天高く両腕を差し伸べる香穂子は、ふわふわだね可愛いねと頬を綻ばせ、パステルブルーの青空と戯れる白い雲との会話に夢中だ。

無邪気な背伸びをする横顔からは、曇り空の欠片も見当たらないが、日常を抜け出したいと思うほど慌ただしいのか、それともヴァイオリンの練習に息詰まっているのだろうか。俺と一緒に過ごす時には笑顔を絶やさないから、気付かなかったが・・・。


もしも一人で悩みを抱えているのなら、溜め込まずに相談して欲しい。君の力になりたいんだ。
身体の脇で握り締める拳は、大切な存在を悲しませている自分の至らなさを戒めるため。だが真摯に見つめる俺を、蓮くんどうしたの?そうきょとんと不思議そうにふり仰ぐ君は、小首を愛らしく傾げたまま、ぱちくりと瞬きを繰り返すだけ。

何のことだろう?と記憶を巡らす沈黙が、あっと驚く声に破られると、途端に真っ赤な茹で蛸に染まった。違うよと必死に否定しながら、火照る顔の前でぶんぶん両手を振る。悩みじゃない・・・俺の想い違うなのか? 良かったと安堵すると同時に、早とちりで勝手に心配していた恥ずかしさが吹き出し、顔が焼けてしまうのではと思うくらい熱を吹き出す。


「違うの、違うよ蓮くん。どこか旅に出たいのは、悩みがあるからじゃないの・・・心配かけてごめんね」
「そうか、ならば良かった。安心した。では本当に旅がしたいのか?」
「どこへ行きたいか、決まってる訳じゃないの。嬉しいときも、ちょっと元気が無いときも・・・いつも毎日思ってるよ。どこか知らない街へ旅に出かけたいなって、もちろん蓮くんも一緒にね」
「俺も・・・君と一緒に?」
「うん。私ね、最近思うの。豊かな音楽を奏でるのに必要なのは幸せで、その幸せに必要なのは、幸せだなと感じられるゆとりのある心なんじゃないかって」


ゆとりがあれば足元から遠くまで、見える世界がぐっと広がる。例えば足元に咲く小さな花から、空や海の青さまで・・・大切な一つ一つに気付ければ、見失っていたものが見えてくる。心が集めた宝物は音楽を奏でる上でも、大切なことだと熱心に語る澄んだ瞳は、俺にとって宝石よりも価値のある宝物だ。

奏でる音色は俺たち自身。俺に出会って大切な音楽が見つかったと君が言うように、俺も見つけたんだ。俺の音色が変わったと誰もが口にするようになったのは、その宝物のお陰だろう。


「でも学校やヴァイオリンの練習があるから、時間がないよね。レッスンや楽器にかかる費用もあるから、お小遣いを無駄にはできないし。せめて気分だけでも旅がしたくて、旅特集の雑誌を眺めていたんだけど・・・見ていたら余計にお出かけしたくなっちゃった」


人差し指を顎に当てながら、ふわふわと想いを馳せる香穂子は、現実は厳しいよねと切なそうに眉を寄せ、小さく溜息を吐く。俺たちにも行ける旅か・・・君と二人で旅が出来たら、どんなに素敵だろう。海でも山でも、香穂子が行きたい場所を巡ったら、どれだけの休日が必要だろうか。だがその・・・と、口籠もるの俺の言葉をじっと待つ、君の瞳が俺を焦がす。


「二人で泊まりがけは、さすがに難しいな・・・」
「あ、そうだね・・・うん。ちょっぴり、恥ずかしいよね」
「だが、香穂子の願いを叶える方法がある」
「本当!? ねっねっ、蓮くん。どこへ行くの?」


ぱっと振り仰いだ香穂子の瞳が、期待と喜びを満面に湛えた瞳で俺をじっと見つめている。興奮を押さえきれずに、ぐっと距離が近付くほどに・・・その、近すぎて唇が触れそうなのに、君は平気なのだろうか。いくら人通りがまばらだとはいえ、ここは学校の帰り道だから・・・と自分に言い聞かせ、キスをしたい衝動を抑えながらコツンと額だけを触れ合わせてみる。

すると、抑えきれなかった小さな吐息が香穂子に掛かり、ぴくりと肩を震わせた。小さく俯く頬は桃色へ染まり、前で組んだ手をモジモジと恥ずかしそうに弄る君。照れる熱というのは、いとも簡単に人から人へと移るらしい。君を見つめる俺にも、じんわりと熱さが広がり、君と俺の温度がそうやって一つになってゆくんだ。


「一日だけの日帰り旅行は、どうだろうか。旅は時間や距離ではなく、そこで何を感じたかが大事だと、俺は思うから」
「そっか、日帰り旅行! 朝から夜まで、たっぷり一日あれば遠くまでお出かけできるもんね」
「知らない角を一つ曲がるだけでも、違う景色に出会えると君が言ったのを思いだしたんだ。幸い来週末は祝日の重なった連休がある。賑やかな観光地ではない、どこか小さな街へ、出かけてみないか」
「あ! ねぇ蓮くん、行く場所を私が決めても良い? 目を閉じて、日本地図を指で示した場所に、行ってみたいの」
「・・・いや、それだけは勘弁して欲しい。あくまでも日帰り出来る範囲内だから。無人島にでも当たったら、大変だ」


苦笑する俺に、ぷぅと頬を膨らませ拗ねる香穂子の手を取り、指先を絡めるように優しく握り締めた。例えば香穂子が想いを馳せていた、雑誌に載っている場所から選ぶのはどうだろうか。日帰り旅行の特集をしていたんだろう? 
握り締められた手を見下ろし、それから俺を見上げて・・・小さくはにかむ香穂子が桃色の頬で頷いた。


「私ね、海に行きたいな。今は季節外れだけど、きっと静かだから蓮くんも気に入ると思うの。電車の終点まで乗って、知らない海の街を散歩したり、美味しいお料理を食べたり。ゆったりした空気に包まれながら、心地良いカフェでお茶を飲めたら幸せだよね」
「海か・・・俺も行ってみたい。海が違うと、波や潮風の香りも変わるのだろうな。休日を楽しむためにも、ヴァイオリンの練習を頑張らなくてはいけないな」
「連休初日は蓮くんと練習して、その次の日にお出かけしたら二日間一緒に過ごせるよ。楽しみだね、早くお出かけの日にならないかな」


あと何日したらお出かけだよと、指折り数え待つ君の心が楽しげに弾む音色を響かせる。その指先を見つめる俺と、数えた指先を示そうと見上げる視線が絡まれば、繋いだ指先にどちらとも無く力が籠もり、自然と生まれる微笑みが深いものに変わる。心の中に温かく灯るのは、二人だけの手帳にしっかりと刻まれたスケジュール。


日帰り旅行という響きに鼓動が高まるのは、単に旅行という二文字に恋人同士を意識してしまうからだろう。これはデートなんだと、アレグロで駆け出す鼓動に言い聞かせつつ、いつか泊まりがけで出かけられる未来を望んでしまう。だが、夢に浸る心地良さも、君の無邪気さが現実へと引き戻してくれるんだ。


「ねぇ蓮くん、おやつ何持っていく?」
「は? おやつ?」
「遠足のおやつは一人300円までなんだよ。これは一日のテンションを決める大事なことだから、しっかり相談しなくちゃいけないと思うの」
「300円という基準はどこから出たんだ。それより君は今、遠足と言わなかったか?」
「そんなに遠くまでお出かけしなくても、いつもの街と違う雰囲気にわくわくする気持ちは・・・懐かしい遠足に似ているよね。だからこれは、大人の遠足なんだよ。うん、それで決まり!」


満足そうに頷く君は一人で納得しているようだが、これは遠足ではなくデート・・・だろう? 恋人同士が、一緒に出かけるのだから。そう言いかけた言葉を、滑り出そうな喉元でぐっと飲み込み胸の中へと納めた。

香穂子が楽しいのならば、きっとそういうものなのだろう。
確かに、君と一緒にいる俺は、わくわくする気持ちが止められないから。



決められた金額の中でどんなお菓子を買うか、事前に選ぶところから香穂子の遠足は始まるらしい。これからコンビニへ寄ろうと腕を引く香穂子は、苺とチョコのポッキー二箱にするか、苺ポッキーとポテトスナックの組み合わせにするか、真剣に悩んでいる。となると、君の遠足はもう始まっていることになるな。

行き先はロシアンルーレットの行き当たりばったりで構わないのに、持って行くお菓子は入念な計画と用意が必要なところが君らしいな。


たった一日、されど一日。
君と過ごす一日は、俺たちにとってかけがえのない宝物になるだろう・・・そんな予感がするんだ。
待ちきれない想いを指先に乗せて数えよう、新しい一歩を踏み出す日に夢を膨らませながら。
たまには知らない遠くの街へ脚を伸ばす、大人の遠足も悪くないかも知れないな。