指切りの代わりにキス



眠る前の穏やかなひとときにも関わらず、元気な香穂子は寝室の中をくるくる足取り軽く駆け回っている。ベッドの上に開いたままになっているのは、彼女が先程まで熱心に眺めていたガイドブック。スイスとの国境付近にある湖水地方の綺麗な湖と、中世の面影を残す美しい街には花の溢れるホテルや景色が美しい。治安も良く気品溢れた歴史ある保養地で、花が咲き乱れる自然の街中では、孔雀も放し飼いになっているそうだから驚いてしまう。


明日はこの街へ行くんだねとはしゃぐ香穂子は、楽しみな日帰り旅行に想いを馳せながら、付箋を貼ったり手帳にメモしつつ熱心に眺めていた。だが思いついたようにポンと手を叩くと、膝立ちでいそいそベッドを歩き降りてしまい、子犬のように転がりながら駆けだし落ち着きがない。深い木目のチェストからデジカメを取り出し、ふいに俺へファインダーを向けたかと思えば、今度はクローゼットに駆け寄り鞄や服選びにと余念がない。


日帰りで遠出の旅行に出かける計画を立てていたが、以前も同じように直前になってスケジュールの調整が付かず、延期したのが明日の旅行だった。急な演奏の仕事が舞い込んでしまい、出かける予定がまたキャンセルになったのだと・・・伝えなくてはいけないのに。嬉しそうにはしゃぐ君を見ているうちに、言い出すタイミングを掴めないでいた。

早くと急かす俺の心と君の笑顔が、激しく渦巻く・・・なぜ踏み出す一歩はこんなにも難しいのだろうか。



俺はコンサートでヨーロッパの各地を旅するが、隣に香穂子がいなければどんなに綺麗な街並みも、どこか色褪せたように思えてしまう。彼女にとっては久しぶりの旅行だから、何日も前からカレンダーを眺め待ちわびていたのに・・・。例えば渡される譜面が本番直前のリハで変更になる事もあるし、良い作品やコンサート成功の為には、急な変更にもすぐ対処しなくては行かないのが、プロの音楽家の宿命なのだから仕方がない。だが事務所にも今度こそはと念を入れて休暇を取ったはずなのに、なぜこうなるんだと・・・分かってはいるが溢れる溜息が止まることがない。


広げたワンピースを前に当てながらくるりと振り向き、「これが似合うかな?」と愛らしく小首を傾げた嬉しそうな笑顔に、緩めた頬と眼差しで答えるけれど。きちりと締め付ける切ない胸の痛みを気付かれないよう、僅かに眉を寄せて耐えるしかなかった。いや・・・俺も明日の休日が楽しみで待ち遠しかったら、諦めきれないのかも知れない。だが伝えるのは今しかないんだ。


緊張で高鳴る鼓動が息苦しさを増す。眠る前に読んでいた本の活字を追う余裕なんて、今の俺にはなかった。溢れる溜息をこぼし、落ち着かなければと言い聞かせながら瞳を閉じて深呼吸をすると、悲しみに瞳を潤ませる香穂子の泣き顔が瞼の裏に浮かぶ。君は寂しさを抱えながらも、涙を見せまいと必死に強がり、笑顔を浮かべるんだろう? 


俺を想ってくれる気持が分かるからこそ、いつも我が儘を言わない彼女の願いを叶えたかったのに。今はその笑顔が胸を切なく締め付ける。眉根を寄せて溜息を押さえるそんな俺を、ワンピースを持ったままの香穂子が、遠くから心配そうに瞳を揺らし見つめていたなんて、気付く事も出来なかった。





「・・・・・・っ!」
「蓮〜!」
「か、香穂子!?」


ベッドのスプリングが大きく飛び跳ねたかと思うと、膝のに乗せていた本がひらりと高く羽ばたき宙を飛ぶ。我に返った驚きと共に大きな波に攫われててしまうのは、本だけでなく俺の身体ごと。無邪気にベッドにへ飛び込む津波を起こすのは、もちろん香穂子だ。

バランスを崩しかけた身体を支えるよりも早く、ふわりとジャンプーの香りが俺を包み、くすくす楽しげな笑い声が聞こえてくる。無防備な心にポンと飛び込む柔らかな温もりがしがみつき、そのまま白いシーツに二人で転がりながら、波間へ漂うのはいつもの事だ。まったく、眠る前の君は無邪気な子犬のようだな。

抱きしめながら小さく零れた俺の溜息を、上目遣いに見つめる香穂子がちょこんと背伸びをして。びっくりさせてごめんねと謝りながら、唇を重ねるキスで甘く吸い取ってしまう。恋のツボをふいに突いてくる、だから俺は君に弱いんだろうな。


「いきなり飛びついたら危ないと、いつも言っているだろう? 俺が受け止めるから良いけれど、もしも君がどこかへぶつけたら怪我をしてしまう。今夜はないと油断していたのに・・・甘かったな」
「飛びつく前にちゃんと声をかけたもん、ふふっ油断大敵だよ。私ね、洗いたてのシーツを綺麗にメイクしたベッドに飛び込むのが大好き。蓮が受け止めてくれるから、よけいに飛びつきたくなるんだと思うの。こうして二人で抱き合いながら、弾むベッドに揺られるのって楽しいよね。どう? 蓮も楽しくなった? 元気出た?」
「香穂子、ひょっとして俺を心配してくれたのか?」
「今日はお仕事から帰ってきてから、ずっと元気がなかったでしょう? 難しい顔して眉を寄せながら苦しそうで・・・御夕飯も半分残しちゃっていたし・・・具合が悪いのかな、悩みがあるのかなって心配していたの」 
「心配かけてすまなかったな、その・・・具合が悪い訳ではないんだ。体調は問題ない」


抱きついた勢いでそのまま倒れ込み、胸の上に乗る形でしがみついていた香穂子は、ちょこんと頭を持ち上げると安堵の吐息を零した。伸ばした手が俺の両頬を包み、良かった・・・と揺れる瞳と柔らかな手の平の温もりは、心も身体もぎゅっと抱きしめてくれるから。温かい光に元気をもらうのは、俺の方になってしまったな。

一つ一つの仕草から、香穂子の声が聞こえてくる。頬を包む手の平から俺の中へ流れ込むは、大切な想いや気持ち。ヴァイオリンを奏でたり、たくさんの数え切れない彩りの想いをくれる君の手が俺は好きだ。どちらとも無く微笑みを交わし合えば、頬を滑る手が髪に絡み穏やかな呼吸と同じ早さで撫で梳いてくれた。


自分が感じて嬉しい心地良さを、俺にも感じてもらいたい・・・それは俺が腕の中へ抱きしめる時の行為と同じ。笑顔のために何が出来るのか、一生懸命ひたむきな想いが嬉しくて幸せで、心の在りかを知らせるように胸を熱く震わせる。

腕を持ち上げ背を抱きしめると、こつんと触れ合う額と鼻先がキスをして、甘く絡む吐息に脳裏が桃色に霞んでゆく。熱と共にふわりと広がるシャンプーの香りが俺を包み、鼻腔をくすぐりながら心の中に、優しい花を咲かせてくれるんだ。鼻先をすり寄せる君の中にも、俺の香りが花を咲かせているのだろうか? 幸せそうに頬を綻ばしいているから、きっと同じ想いの花が咲いているに違いない。


「お風呂の中やベッドでお布団にくるまっている時みたいに、お互いが近くてリラックスしているからこそ、語り合える大切な事もあるよね。もし悩みがあるなら私にも教えて欲しいの・・・あのっ、言いたくないなら無理しないでね」
「ありがとう、香穂子。元気になった、君のお陰だ」
「本当!? 良かった。蓮が元気無いと理由分からないなりにも、私も寂しい気持になるし、心も笑顔もしぼんだお花になっちゃうの。心が笑顔になれば、表情も明るくなれるよね。だからいつも心を明るく弾ませていたいなって思うの。私に元気と優しさをくれるのは、いつだって蓮だから・・・辛いときには力になりたいな」


ふわりと笑うその明るい声や、想いやり溢れる仕草が心の扉を開き、穏やかな空気やヴァイオリンの音色を生み出すのだろう。ベッドのスプリングは波を静めたというのに、抱きしめた腕の中で無邪気に笑う声が鼓動を弾ませ、新たにやってきた熱い波に飲み込まれそうになる。触れ合う身体から伝わる香穂子の声が、音楽のようにさざ波のように空気を震わせ、少しずつ押し寄せながら真っ直ぐ響くんだ。広がる温かさは、堅く緊張していた心の底から安らぎをもたらしてくれた。


抱きしめていた腕を緩め身体を起こすと、胸に乗っていた彼女もいそいそと起き上がり、シーツの上にペタリと座り込む。香穂子に向き合い瞳の奥を見つめると、無邪気な笑みを引き締め姿勢を正し、膝の上できゅっと両手を握り合わせ俺の言葉をじっと待っていてくれる。

伝えなくては、信じているからこそ、どんなときでも真っ直ぐ正直に。誠意を持って向かい合う事が、大切なんだと思う。


「香穂子を励ますつもりが、逆に俺が励まされてしまったな。君に謝らなければいけない事があるんだ」
「励ます? ねぇ、どうして謝るの? 私は元気だよ、蓮の方が凄く苦しそうだよ」
「楽しみにしていたのに、すまない。明日に予定していた日帰り旅行だが、スケジュールの調整が付かず、行けなくなってしまったんだ。もっと早く言わなくてはならなかったのに、言い出せなくて眠る前になってしまった・・・」
「お出かけ? あっ・・・!」


じっと見つめ返す大きな瞳が驚きに見開かれると、呆然と固まった後に瞳がゆっくり揺らぎ出し、しゅんと肩を落としてしまう。小さく俯いた頬を隠すようにさらりと流れた髪は、彼女の悲しみや心をも隠すようで、手を伸ばしたいのに一瞬を躊躇わずにいられない。

空を掴んだ腕を引き戻し、すまない・・・そう言って真摯に頭を下げ、膝の上に置いた両拳を強く握り締めた。キチリと締め付ける胸の痛みを堪えるように、届かなかった君を抱きしめるように。




夜の静けさだけが俺たちを包み、どれくらい時間が経っただろうか。長いようで短いひとときが過ぎ去り、氷を溶かすように柔らかな温もりが、ふわりと俺の手を取り包み込んだ。この感触は香穂子の手の平だ、間違いはない。

驚き弾かれるように頭を上げると、膝を付け合わすくらい近くに歩み寄った香穂子が、俺の手を取り胸の前に引き寄せながら、大切に抱きしめてくれていた。ほんのり赤く染まった目尻に潤みを湛えながらも、雨上がりの空みたいに透き通る微笑みが、ありがとう・・・そう春の吐息を生み出した。

だがなぜ君は、ありがとうというのだろう?


「何か思い詰めたようにじっと考え込む蓮を見ていたらね、もしかしたらって予感はあったの。辛かったよね、私こそはしゃいでばかりで・・・気付いてあげられなくてごめんね」
「・・・! 二度も予定を延ばしてしまったのだから、攻められても仕方がない。そう覚悟を決めていたのに、なぜ?」
「辛いことを打ち明けてくれたり、私の悲しみを自分のように思ってくれる、優しい蓮が大好きだよ。私の前で飾らない蓮でいてくれるのが、とっても幸せだなって思うの。綺麗な心の欠片は、どんな宝石や綺麗な景色も敵わない宝物だよね」
「香穂子・・・」
「私は蓮のヴァイオリンが大好き。今の私がいるのは蓮が大切にしている音楽があるからなんだよ。私だけじゃなくて世界中のたくさんの人がヴァイオリンを待っているんだもの。もしも私との予定を取ってお仕事をキャンセルしたら、もう口聴いてあげない!って怒るところだったんだからね。一緒にお風呂も入らないし、ベッドも別にしちゃうんだから」


微笑みを浮かべたまま、ぷぅと頬を膨らます可愛らしさにつられて、堅くなっていた心も瞳柔らかに解けてゆく。風呂もベッドも別は困る、君と過ごすひとときは何にも変えられない宝物だから。真っ直ぐそう告げる俺に、真っ赤な茹で蛸に染まりながらも、握り締めた手へきゅっと込める力で言葉を返す、ささやかな会話が愛おしい。

大切な宝物を扱うように包んでいた手をそっと俺の膝へ置くと、膝立ちでいそいそと隣に寄り添い、コツンと身体を寄りかからせてきた。肩先で受け止める幸せの小さな重みを抱きしめれば、甘えるように擦り寄る髪のくすぐったさは心の会話。呼吸を合わせ、奏で合うヴァイオリンのように。




せめて旅をした気分だけでも浸ろうと思い、シーツの上に広げられたままのガイドブックを手に取りページを捲ってゆくと、一緒に覗き込む香穂子の甘い吐息が耳元を掠めた。ここが素敵、この場所に行ってみたいのだと写真を指さしながら、楽しそうに頬を綻ばす香穂子の心は、一足早く旅行へ出かけてしまったらしい。飛び跳ねる鼓動と熱い耳を、君に気付かれてしまっただろうか。


「今はコンサートシーズンだし、蓮も疲れているでしょう? 気分転換は近くの森や運河へピクニックにして、今度休みが取れたらゆっくり旅行しようよ。ガイドブック見るうちにね、一緒に巡りたい場所がたくさん増えちゃった。蓮の大好きな湖を目の前に建つ、お花に囲まれたホテルを見つけたんだよ〜とっても可愛いの。ゆっくり泊まりながら巡るのも良いよね」
「仕事の後に待っている楽しい目標があると、頑張る気持も沸いてくる。日帰りではもったいないくらい素敵な街だと、俺も思っていたんだ。花が咲くのにはちょうど良い頃があるように、時期を待てとそう言っているのかも知れないな。長期の休みが取れたら、必ず約束を果たすと誓おう」
「じゃぁ約束の印に・・・赤い糸が繋がる小指と小指を絡めて、指切りげんまんだよ」


差し出されたしなやかな小指に自分の小指を絡めれば、振り仰ぐ笑顔が無邪気に繋いだ手を揺さぶった。小指と小指に赤い想いの糸が絡むのならば、もう一つ指先へ確かな誓いを刻み込もう。繋いでいた小指を解き放ち手を掴んだ俺を、きょとんと不思議そうに見つめる香穂子へ微笑むと、伸ばされたままの小指を唇へ含みキスを贈った。

たちまち火を噴き出し真っ赤に染まる君は、ごにょごにょと口籠もり、俺がキスをした小指を胸に抱きしめていたが・・・。上目遣いにはにかみながら同じ小指を唇へ含む。まるで香穂子が直接キスをしてくれたような感覚に、沸騰してた熱が溢れ出すようだ。君という熱さに飲まれ焦がされてしまう・・・。


「あっ・・・そうだ。あのね、蓮にお願いしてもいいかな?」
「構わないが、どうしたんだ?」
「明日お出かけできなくなった代わりに、今夜はギュッと抱きしめて欲しいの。蓮を独り占めしたいけど、我が儘は言えないからせめて今だけは。ヴァイオリニストの月森蓮じゃなくて、私だけの大切な旦那様でいてほしいの・・・いっぱいキスしたいな」


君への誓いを唇に込めて、心と身体に刻み込もう。どこで奏でていても、俺の音色が向かう先は香穂子だけだ。
名残惜しさを微笑みで隠しながら、ガイドブックを抱きしめる君ごと深く腕に閉じ込めて。寂しさで涙を零す事がないように、今夜は強く腕の中へ抱きしめよう。

抱きしめた耳元に想いの吐息を吹き込めば、強くしがみつく指先とひたむきに見つめる瞳が、始まりを告げる合図。
いつか必ず叶えたい大切な約束は、俺たちが目指す小さな目標で愛しい君への誓い。
約束の指切りの代わりに、誓いの口づけを何度も重ねね、想いの花を心と身体に花を咲かすから。