クリスマス・コンチェルト
クリスマス四週間前の日曜日から始まる一ヶ月間を、ドイツではアドヴェント(待降節)と言って、クリスマスを迎える大切な準備期間。キャンドルに毎週一本ずつ燈を灯して心の準備をしながら、一年で最も華やぐクリスマスの季節が始まる。
11月最後の日曜日、空は灰色の厚い雲に覆われて今にも雪が振り出しそうな寒空の中。期待に胸を脹らませた人々が多く集う教会前の広場では、クリスマスマーケットの開催宣言とセレモニーが行なわれていた。
大聖堂の中からは、聖歌隊が歌うクリスマスキャロルの透明な歌声が響き渡っている。
凛と引き締まる冬の空気を和らげ、静かに降り積もる雪のように清らかに・・・。
ゴシックの尖塔が天に聳える石造りの大聖堂は、見上げると重みと美しさで魂が震えるほどだ。
吐き出す溜息が寒さではっきりと立ち上り、やがてもう一つ後から追うように白い息がふわりと重なる。
隣に視線を向ければ楽しそうな香穂子が一生懸命背伸びをしながら、白い吐息の風船を作り出していた。
俺の吐息に重ねようと、シャボン玉を膨らますように愛らしく口をすぼめて。
心が躍り温かさを感じるのは、賑やかな装飾やイルミネーションだけではなく、君がいてくれるからなんだ。
そっと肩を抱き寄せて覗くように顔を傾けると、湧き上がる温かさのまま瞳と頬を緩める。
彼女が生み出した白い吐息の風船が宙に消えてしまう前に、甘さを乗せた俺の吐息を重ねて包み込んだ。
「クリスマスって、日本にいる時はケーキを食べてプレゼントをもらうだけだの日だった。でもね、蓮と結婚してドイツで暮らすようになってから、クリスマスの本当の楽しさと意味が分かったの。寒さを吹き飛ばし、希望をもたらすお祭りだって。寒いのは辛いけど、この国の人たちと同じく私も一番好きな季節だよ」
「暮らすだけでなく音楽を奏でる上でも、この土地や生活に古くから根ざすもは大切にしたいと思う」
「ほら冬って外に出ないから、家で一緒に過ごす時間が長くなるじゃない? リースとか飾りつけ作ったり、ヴァイオリン弾いたり・・・。クリスマスって、わくわくしながら待っている期間がとっても楽しいよね」
「そうだな・・・お陰で嬉し過ぎて待ちきれない香穂子に、今朝は早くから起こされてしまった」
「ご、ごめんね・・・蓮も疲れているのに。子供みたいって呆れた?」
きゅっと腕を掴んで見上げながら、ごめんねと謝る香穂子は恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めていた。
疲れているのは君の方じゃないのか?という言葉は喉元で飲み込み、冷えた頬を包んで微笑みを向ける。
「呆れるなどある訳ないだろう? 早く起きた分だけ過ごす一日が長くなったのだから・・・香穂子には感謝している。一人でなく君と二人で過ごせるからこそ、クリスマスが楽しいと思える。待ち遠しかったのは俺も同じだ」
夜の方がライトアップが綺麗だから、日が沈んだ頃に出かけよう・・・香穂子とそう約束をしていたのに。
抱き締めた腕の中から、まだ寝ている俺の頬をおはようと優しく何度も叩き、起きてと肩を強く揺さぶって。
遠足の当日を迎えた子供のように朝早く目を覚ました彼女が、「すぐに出かけよう!」と。起きたてで意識と焦点が定まらない俺とは正反対に寝起きも良く、太陽のように元気さをいっぱいに溢れさせていた。
互いを求め夜にたくさん愛し合った翌朝は、疲れ果てた香穂子の方が遅くまで寝ている事が多い。
昨夜眠ったのもだいぶ遅かったはずだが、今日は疲れや眠さの欠片も見せていない。それ程までに今日の日が楽しみだったのだろう。寝る前に枕を並べて語りながらクリスマスという名前の国に行くのだと、嬉しそうにはしゃいでいたのだから。
「日が落ちるまで時間がある。クリスマスマーケットに寄る前に、少し街を散歩しないか?」
大きな瞳に優しく語りかけると、手の平の中の頬が和らぎ大きく頷いて、雪の中から咲いた花のような笑みが浮かぶ。吹き抜ける風が頬に痛みが刺すほど冷たくても、不思議と寒さを感じないのは、君の腕と温かな笑顔があるから。コートを着込む腕にしっかり絡めて抱きつき、擦り付けてくる身体をしっかり引寄せた。
近代的な建物が並ぶ中心地から少し離れた旧市街では、石畳の細い道が迷路のように入り組んでいる。
石壁の高い建物や木枠の家・・・人がいなければ、中世にタイムスリップしたような錯覚を覚えるだろう。今にも道の角から剣を持った騎士が出てきそうだねと、頬を綻ばす香穂子に笑みを隠せずにはいられなかった。
一歩路地に入り込めば運河沿いの家々には窓辺が花やリースで飾られ、教会前広場に続く小道の両サイドの店には、趣向を凝らしたクリスマスディスプレイが賑やかだ。真っ白い熊の縫いぐるみたちが窓辺ではしゃぎまわっていたり、壁に吊るされたサンタクロースの人形が、まるで煙突を登ってるようだったり。
目に映るもの全てに瞳を輝かせ、きょろきょろと周囲に目を奪われている香穂子は、歩いている正面を殆ど見ていない。足元がおろそかになって時々躓く度にあわててキュッとしがみ付いたり、夢中になるあまり俺の腕からすり抜けそうになったり・・・俺はそんな君が危くて目が離せないんだ。
「香穂子。周囲の飾りを見るのもいいが、足元や前も見なくては危ないぞ」
「真っ直ぐ前を見て歩かなくちゃって思うんだけど、どれも可愛くて夢中になっちゃうの。眺めるだけで、キュッと胸が詰まる感じなんだよ。おとぎ話の中に迷い込んだみたい。でもね、蓮が温かいからもっと幸せなの」
蓮の腕にしがみ付いてるから転ばないよと、そう言って腕に力を込め、心地良さそうに頬をすり寄せてくる。
甘える君が可愛くて、結局これ以上は何も言えなくなってしまう。だが実は飾りよりも香穂子の笑顔に夢中になっていた俺も、前方不注意な点では同じ。嬉しそうな横顔を見せる君だけでなく、側で横顔を眺める俺もどちらも幸せなんだ。
気付かないのなら秘密にしておこう、大丈夫、俺がしっかり守るから・・・。
無条件に寄せられる大きな信頼に、そう心で誓い新たに気を引き締めた。言葉と想いを届けるように、身を屈めて腕に擦り寄る香穂子の髪に口付けると、くすぐったそうに小さく笑う声がくすくすと漏れ聞こえ心を振るわせる。
「ねぇ蓮、クリスマスのディスプレイって音楽みたいだって思わない?」
「音楽? 楽しくて心が弾むからか? 確かに音色を奏でたくなるが」
「う〜ん、それもあるかな・・・ほら。一つ一つのお店や家が凄く綺麗に飾りつけされているけど、同じものが一つとしてないの。一軒一軒がとても凝っていて個性的でしょう? それぞれ主張や雰囲気が違うけど、街全体を見ると不思議と一つに調和しあっているんだよ」
「なるほど、同じ楽器、違う楽器同士が奏であうアンサンブルのようだな。いや、規模が大きいからオーケストラか? こだわりの外観の終結が、クリスマスという協奏曲を街中に響かせているのか。自分たちの街と伝統を守っているかが、伝わってくるな」
「さすが蓮だね、私が言いたいことすぐ分かるんだもん。でも街の飾りが協奏曲(コンチェルト)って事は、伴奏のオケに対して独奏者が必要でしょう? 一番目立つ飾りとか、それともクリスマスツリーとか?」
俺を見上げながら不思議そうに首を傾ける香穂子は、分からないよと眉を潜めながら考え込んでいる。
降参だと腕を軽く揺すって答えをねだる彼女の耳元に唇を寄せ、寒さで悴んだ耳朶温めるように囁いた。
するとピクリと身体を震わせて立ち止まり、軽く目を見開くと、恥ずかしさでみるまに頬を赤く染め出してしまう。
街を彩る賑やかな飾りたちがオーケストラなら、独奏楽器は君。
いや・・・二つで一つと考えるならば、俺と君だろうか。
君がいなくては季節は動かないし、目に映る街の輝きも色褪せて、楽しさも始まらない。
力の抜けた香穂子の腕がするりと剥がれ落ち、やがて答えの意味を理解して真っ赤になりながら、もじもじと手を弄りだす。愛しさに胸が甘く締め付けられるのを感じながら、口元を緩めて微笑みながら手を差し伸べた。
さぁ一緒に行こう・・・そして共に奏でよう。
やがてパッと振り仰いだ弾ける笑顔で重ねられた手を、互いに視線を交わしながら指先から絡めて握り締めあう。柔らかな肌触りの手袋越しに伝わる温もりを感じながら。
気忙しく沈む冬の太陽が暮れてライトアップの輝きと共に、押し寄せる人の賑やかさも増してゆく。
来た道を戻るように教会前の広場へ戻ると、マーケットの入口で脇に立つ木製パネルに香穂子がこんばんわと挨拶をした。それは俺たちを迎える為に立ち続ける、木製パネルに描かれたサンタクロース。
中に脚を踏み入れると、広場にひしめく木製の屋台と、マーケットの主人たちも赤い帽子を被って、誰もがにわかサンタクロースに変身していた。シンボルである大きなクリスマスツリーは、誰からも愛される清らかなホワイトスノー。オレンジ色の豆電球が連なり集まるイルミネーションに香穂子が感嘆の声を上げた。
屋根や窓辺、ツリーやガーランドに寄り添い集まる光りの粒が生む輝きは、まるで光の精たちが集まって喜びを歌っているようだ。光の渦に飲み込まれそうな光景は、感動という一言しか浮かばない。
人ごみの中に駆け出したくてそわしわしてしている香穂子がはぐれないようにと、繋いだ手をしっかり握り締め直して緩めた瞳を向けた。どちらへ行きたいかと問えば、興奮を押さえ切れない様子であちらだと、繋いだ手で指し示す。二人で一緒に行くのだと心で伝え、歩む道を真っ直ぐ照らすように。
甘い菓子を見つけては美味しそうだねと微笑み、愛らしいクリスマスのオーナメントを見つけては、可愛いねと嬉しそうだ。どうやら買うよりも、眺める事が彼女にとっては楽しいらしい。まだ高校生だった頃に一緒に出かけた夏祭りで、屋台を巡りながらはしゃいでいた君を思い出す。無邪気で真っ直ぐな輝きは、あの頃も今も変わらない。
瞳を細め遠くを見つつ、開かれた記憶の扉から思い出すのはもう一つ別の事。
互いに海を隔てていた頃に、季節が巡るたびに心を凍らせていたもの。
だからこそ閉じ込めていたのに、なぜ今頃になって・・・。
光りの妖精たちが悪戯を起こしているのか、いや・・・今だからこそなのだろうか。
「クリスマスの国・・・か」
「え?」
「昨夜香穂子が言っていただろう? クリスマスの国に行くのだと。ここにあったんだな・・・やっと見つけた」
「蓮・・・」
「同じものをずっと何年も見てきたけれど、一人の時には気付かなかった。むしろ無ければいいとさえ、思った時もある。君と一緒だから見つけられた・・・ありがとう」
秋から冬へ、そして冬から春へと・・・移り変わる季節をいち早く教えてくれるのが水であるように。
心の底にずっと覆い隠していた遠い昔の氷塊が、静かに水となって溶けてゆく・・・君の温かさに包まれて。
繋いだ手を空いた手で覆い包み、掲げ真っ直ぐ香穂子の瞳を見つめると、押さえ切れない熱さが込み上げ、視界に映る君の姿を僅かに滲ませた。言葉無く俺を見つめ返す大きな瞳に潤む雫は、彼女が抱えていた氷が解けた証なのだろうか。小刻みに震える口元が零れそうな涙を必死に堪えているのだと、熱い想いを心に伝えてくれた。
氷が解けて春になるのだと、いつか謎かけで教えてくれた通りだな・・・と、そう思った。
クリスマスの街・・・そこには全ての人に温かさと幸せを届ける、たくさんのものが満ち溢れている。
歴史を刻んだ石畳の上を君と歩けば、響く硬い足音は心踊り身体も弾む楽しいコンチェルト。
寒さを吹き飛ばして俺たちも共に奏でよう、街を彩る音色の一つになって。