Winter snow



降り積もった雪は音を吸い取る効果があり、静けさが深まる。だからだろうか、日本を離れて冬の長いウイーンで生活するようになってから、雪が積もった朝は目覚めた瞬間に気配で分かるようになった。今朝の感覚はまさにその通りで、どうやら昨夜降り続いた雪が積もった事を教えてくれる。

全てを覆い尽くす白さと静けさ、余計な音が一切しない無の空間。

喜びを奏でた春の音色が夏に響き、秋には穏やかに流れて。そして冬になれば、雪があらゆる音を吸い込んでしまう・・・音色も俺たちも。どこまでも広がる雪景色を見ていると、いつか俺も吸い込まれてしまうのではと思えてくるんだ。凜と張り詰め、身が引き締まる寒さは嫌いではないのに。自分も無に帰るようで怖くなる、吸い込まれてしまうのが・・・音が無くなってしまう事が。


冬の日は淡く短いが、その分日差しは長い。窓から差し込む光が部屋の奥まで届き、目覚めを促すようにベッドを包み込んでいる。いつもより冷え込んで朝日が眩しく感じるのは、やはり積もった雪明かりのせいだろうか。
温もりを手放したくない・・・もう少しこのままでいたい。意識は目覚めているものの、まだ目を閉じたままぼんやりと考えていると、少し離れた窓辺から楽しげな声が響いてきた。


「凄〜い、真っ白に積もってる。絵葉書みたいに綺麗!」
「・・・香穂子?」


昨日までは俺一人しかいなかった筈の空間に、ずっと思い描いていた香穂子の楽しげな声がする。
なぜここに?と一瞬だけ状況が掴めず眉を潜めたが、すぐに瞳と頬を緩めながら上半身を起こした。大学の冬休みを利用して昨日、俺のいるウイーンに来たばかりだった。そうか・・・夢ではないのだな。


滞在中は俺の部屋で一緒に生活するから、同じベッドで枕を共にする事になる。寒さを互いに温める為に自然と寄り添い合えば、雪をも溶かす甘く熱い夜が訪れるのは必然といえるだろう。到着して再会を喜んだ早々からクリスマスで彩られた街中を夜遅くまで巡り、そのあと部屋に帰ってからも・・・。時差もあって疲れ果てていただろうに、窓から身を乗り出す香穂子は元気そのものだ。


夜の名残で何も来ていない素肌には、窓を全開にした冬の寒さはかなり厳しい。せめて窓を締めてくれと言いたいが、ウイーンの雪景色に喜ぶ無邪気な香穂子を責める気になれなかった。仕方ないかと小さく欠伸をかみ殺し、前髪を掻き上げて寒さをしのぎながら、毛布を引き上げつつパジャマの上着を探したが見あたらない。


どこへ行ったんだ・・・ベッドの下へ脱ぎ散らかしてしまったのだろうか?


首を巡らせてベッドの周りを探してみたが、下はあっても上着は見あたらなくて。香穂子のパジャマは上下共に揃ってベッドへ脱ぎ散らかされているのに。そう考えた所でふと窓辺に視線をやれば、彼女が羽織っているのは紛れもなく自分のシャツだと分かった。サイズが大きいので、一枚で着れる短めのワンピース感覚でいるのだろう。


丸いヒップや太腿の境目までをかろうじて覆っているが、すらりと伸びた白い素足に視線が引き寄せられる。背伸びをすれば裾から奥が見えてしまいそうで、熱が収まりかけた身体には目の毒だ。広く空いた襟元から微かに覗はく浮き出た鎖骨や胸の膨らみ・・・見えない場所には無数に咲く咲く赤い花たち。

愛しい人が自分のパジャマを羽織っている姿が、これほどに愛しさや独占欲を掻き立てるとは思わなかった。君は気づいているのか、いないのか。 


何にせよ寒いという事を除けば、ずっと傍で眺めていたいと思う、幸せな光景であることには変わりない。
隣にいた彼女の温もりがまだ残っている所をみると、目覚めた時間は俺とそう大差はないようだ。雪が積もったらしい事を、彼女も目覚めてすぐに感じ取ったのだろう。暫くじっとしていたが我慢しきれずに飛び出した・・・そんな気がする。彼女らしいなと、楽しげな笑顔を見つめる俺の頬や心も緩んでゆく。


俺が目覚めたことに気づいた香穂子は、肩越しに振り返りながら窓の外を指差し、眩しい笑顔を向けてきた。
人の身体が目覚めるには強い光が必要だと言うが、確かにそうだと強く感じる。俺にとっての朝の到来、目覚めは君によってもたらされるのだから。こんなに爽やかな目覚めは久しぶりだ。


「蓮くんおはよう。見てみて窓の外が真っ白なの、一面の銀世界だよ。この雪は積もるなって、昨夜言ってた蓮くんの予想通りだったね」
「やはり、昨夜の雪が積もったんだな。起きたときに何かいつもと違うと、香穂子も分かっただろうか」
「うん! 雪が積もった朝って特別に静かな空気があるでしょう? 初めてのヨーロッパで迎えるのが、ホワイトクリスマスだなんて嬉しくて、こっそり先にベッドから抜け出しちゃった。一番近くにあった蓮くんのパジャマ借りちゃったの・・・ごめんね、蓮くんが寒いよね」
「いや・・・そのままで構わない。君が俺のものだと実感できて嬉しいんだ。その・・・とても可愛いと、思うから」


頬に熱さを感じながらそう言うと、ピタリと固まった香穂子が、負けないくらいに真っ赤な火を噴いた。素肌の上に俺のパジャマの上着を羽織っただけの自分の姿を改めて見下ろし、握り締めるたカーテンを僅かに引いて隠してしまう。片手で胸を掻き寄せながらのそんな仕草さえも、溜まらなく愛しさを誘うんだ。

刺すような朝一番の寒さも、火照りのせいで心地良く感じてくる。今すぐに君を抱き締めたい、温もりを手放したくない・・・。


とりあえず手早くパジャマの下だけを来てベッドから立ち上がり、窓際に佇む香穂子へと向かう。何か羽織るものをと探したが適当なものがすぐには見つからなくて、上半身は素肌のままだが仕方がない。それよりも、ずっと窓を開け放っている香穂子だって薄着なのだから、風邪を引かせたら大変だ。


フローリングの床を音もなく近づく俺に、香穂子はぴくりと肩を揺らし、カーテンを抱き締めたまま背を向けてしまう。顔を背けたのは拒否ではなく照れからくるものだと、真っ赤に染まった耳や吸い付きたくなるうなじが言葉にならない想いを伝えてくれた。香穂子・・・と優しく呼びかけ腕の中に捕らえると、温もりにすがるように深く抱き締めた。


「香穂子は、温かいな・・・」
「寒い時にコートやジャケットを羽織わせてくれたりしたでしょう? 香りと温かさに包まれて、抱き締められているみたいな感覚が、とても幸せで大好きなの。だから・・・ね、憧れだったの。一緒に朝を迎えたら、蓮くんのパジャマを着るのが。蓮くんのパジャマと本物の蓮くん両方に抱き締められて、凄く温かいよ。ごめんね、蓮くんは寒いよね?」
「俺の事よりも、香穂子が風邪を引いたら大変だ。大丈夫、こうして君を抱き締めていれば寒くないから。もう暫くこうしていて良いだろうか?」
「うん・・・二人で温まろうね」


前に回した俺の腕にそっと重ねて抱き締め返すと、はにかんだ微笑みが肩越しに真っ直ぐ振り仰ぐ。寒さによって生まれる吐息の白い風船を一つに溶け合わせ、ゆっくりと唇を重ねた。何度も角度を変えながら時間をかけて重ね、唇を含み啄みながら甘さと柔らかさを互いに味わう。これ以上は止まらなくなりそうだ・・・というぎりぎりの所で理性をかき集め、名残惜しげに唇が離れてゆく。


「おはよう、香穂子」
「・・・蓮くん、おはよう」


潤んだ瞳で俺を見つめながら、ほぅっと零す白い吐息を吸い取るように。頬を包んだまま、今度はおはようの挨拶を込めてもう一度軽く触れるだけのキス贈れば、腕の中から背伸びをして同じように啄んでくる。きっと今の俺たちは、窓辺に降り立った二羽の小鳥なのだろうな・・・朝を告げて幸せを届けるという青い小鳥のように。

雪景色が気になる香穂子は腕の中で身動ぎ、首を伸ばして窓の外を眺めようと必死だ。俺だけを見ていて欲しい・・・そう思うけれども結局は、惚れた弱みで君の願いを叶えてしまう。苦笑しつつ腕をとくと、喜んで再び窓の外へ身を乗り出した香穂子を、やんわり引き戻すように背中からそっと抱き締めた。


「石畳の歩道や街路樹とか石造りの街の全てが、真っ白なふかふかの雪のお布団を被っているの。朝だしクリスマスだから白いドレスかな、ホワイトクリスマスだね。どんな絵葉書よりも、今蓮くんと一緒に眺めている景色が素敵だなって思うの」
「雪の布団か・・・香穂子がそう言うと、温かく思えるから不思議だ。太陽の光が当たっていると雪が輝き、温もりが伝わってくる。去年はもう少し雪が積もるのは早かったんだ。きっと雪の妖精たちも、街を染め上げた景色を見せたくて、香穂子が来るのを待っていたんだろう」


部屋の窓から見下ろす街路樹は雪の花を咲かせ、低木などのてっぺんには可愛らしくこんもりと降り積もる綿帽子。まだ誰も踏み荒らされていない歩道は柔らかい白さに輝き、傾斜のある屋根はパウダーシュガーのような白さで彩られていた。

古さも新しさも雪の前では平等で、心の絵葉書に映っていない場所も、見渡す限り同じような景色が続いているのだろう。白く聳える石造りのゴシック建物と彩りの壁や屋根のアパートたちが、一面覆い尽くす雪に溶けこみ一つの絵になっているようだ。この街は雪景色が似合うと、そう思う。


「これだけ積もったら、かまくら作れるかな? 練習の後に二人で入れるくらいのを作りたいな。足跡ついていない所を、思いっきり駆け回りたくてウズウズしているの」
「かまくらか、懐かしいな・・・子供の頃を想い出す。だが場所が無いから、管理人に相談してみなくてはいけないな」


日本ではあまり雪に馴染みのない土地で生活している香穂子は、目の前に広がる雪景色に目を輝かせ、童心に返ってはしゃいでいる。純粋に喜べるそんな彼女が、少しだけ羨ましくもあるが・・・。

柔らかい新雪は時間が経てば硬さを増して重くのし掛かり、吹雪は道を遮る。全てを覆い隠して音を吸い込み、厳しい静けさは時に深い孤独となって襲いかかってきた。季節の変わり目には温かさと寒さを行ったり来たり繰り返すが、特に寒い冬への季節へは心が揺れ動く。

決心しながらも旅立ちの名残惜しさに揺らいでいた時のように、少しでも遅らせようという気持がそうさせているのかも知れない。君の温もりが恋しくなり、愛しさが増すのも雪の季節だったな・・・一緒に過ごしたあの時もそして今も。


「フカフカの雪の中は、温かいんだよ。ほら、私たちもお布団の中はヌクヌクしているでしょう? 植物も小さな動物たちも、冬の間は外に出れない雪の下で、春の芽吹きに備えていろんな物を育てて蓄えているの」
「みんな雪の下で春を待っているんだな。積雪には保温効果があると聞いたことがある。雪が多かった厳しい冬が過ぎて春になった時、桜はある高さから下半分だけ花が開く事があるのだと。雪面上に出ていた高い枝の花芽は枯れてしまったが、雪に埋もれていた所は守られていたから」


へぇ〜っと驚きに目を見開いた香穂子が、窓の外に手を伸ばし、積もった雪を手の平にすくい取った。朝日を浴びて僅かに溶けかかり、きらきらと輝く光の欠片にも見えるが、やはり雪は雪でしかなかったようで。やっぱり冷たいねと、後ろから抱き締めている俺を肩越しに振り返り、照れ臭そうにはにかむと窓辺へ戻した。水気を払い落としている冷たくなった手を捕らえ、両手で包みむように温めながら、深く身体で閉じ込め首の根元に唇を寄せた。
 

「香穂子、手が冷たくなっているじゃないか・・・君の音色が生まれる手なのだから大事にして欲しい。それに手だけでなく身体も冷えている。真冬に薄着で窓を開け放っていては、風邪を引くぞ」
「そうだね、ごめんね・・・もう窓を締めるから。私よりも、上着を着ていない蓮くんが風邪引いちゃうよ」
「俺たちも、もう少し雪の布団の中で温まらないか?」
「えっ・・・?」
「春の芽吹きを待ちながら互いを温め育てよう、二人の想いを。俺は積もった雪野原よりも、君の白さに跡を着けたい」
「蓮くん・・・」


ぴくりと身体を揺らして振り仰いだ瞳が戸惑いに揺れている・・・熱く真っ直ぐ射抜く俺の視線を受け止めて。見る間に顔が赤く染まると、薄いパジャマ越しに伝わる押しつけた素肌からも熱が伝わってくる。固まる香穂子へ理性を繋ぎながら優しく微笑みを向けると、片手で後ろから抱き締めたまま、開かれた窓を静かに閉じた。

風に乗ってやってきた雪の妖精は、君なのかも知れない。
ホワイトクリスマス・・・俺が寒さに凍えないように、孤独に潰されないようにと温かな雪を携えて。


俺たちが春を待ちながら籠もるのは、どこよりも温かい真っ白いシーツの雪の下。
きっと窓の外に広がる雪たちが、音を吸い取ってくれるから・・・・・・。