ビーチブレイク



カラフルな表紙に分かりやすい見出し、本を捲った中に広がるのは心が躍る青い海の波やアンダーザ・ウォーターの世界。「初めてのボディーボード講座」というタイトルの本を熱心に読んでいた香穂子は、昼休みや放課後になると本を片手にあれこれと興味津々で海のことを質問してくる。自分も海へ連れて行って欲しいとねだったるあんたに、ヴァイオリンが美味く弾けたらなって言ったけど、本当は今すぐ手を繋いで海に連れて行きたい程嬉しかったんだぜ。

好きなヤツに、俺が好きなこと知ってもらうのって、やっぱり嬉しい。ヴァイオリン一緒に弾くみたいに、楽しいこと分かち合えたら喜びや感動も二倍になるって思うんだ。あんたもきっと虜になると思うぜ。俺の華麗なライディング・テクと、海が魅せる波にさ。


地球のどこかで風が吹けば、海面にさざ波が立つ。そのいくつものさざ波が重なり合ってうねりを作り、遠い旅をしながら砂浜に押し寄せるんだ。波は地球がくれた最高の贈り物なんだぜ。え?どうしてそんなに波が好きなのかって? 
そりや決まってんじゃん。波があれば乗ってみたいと思うのが、ボディーボーダーの自然な衝動だからさ。

朝焼けに染まる静かな空の下、何人もの人が海岸に向かってゆくのは、きっと俺と同じ波乗りなんだろうな。少しひんやりする海風をいっぱい胸に吸いながら空を仰ぎ、ふわぁと隣から聞こえる声に振り向けば、衛藤の顔が困ったように優しく緩む。まだ眠そうに蕩けた目を、欠伸をかみ殺す香穂子の手を、じれったそうに「ほら・・・手」と握り締め、滲んだ涙を指先で拭ってみる。

俺の太陽はあんたなのに、肝心のあんたがまだ起きてないのは困るんだけど。起きないのなら、目が覚めるくらいのキス・・・するけど、いいのか? 俺がボディーボードするところが見たいって言ったのは、あんただったろ。この間は夕方だったけど、早朝に波乗りすることだってあるんだぜ。


俺の事、もっと知りたくない? 俺がどうして波に夢中なのか不思議に思うのならさ、香穂子も海を良く見てみなよ。波ってのはいろんな表情があって、一つ一つ形やパワーが違うんだ。うねりの方向や海底の形状、天気でも・・・波の大きさやブレイクの仕方も変わるんだ。あ、ブレイクっていうのは、山みたくうねりを上げた波が、白い飛沫を上げて崩れることな。


最初は俺も、学校帰りに浜辺から眺めているだけだった・・・だけど、見るのとやるのじゃ全然違う。一本のボディーボードが、俺の全てを変えたと言っても大げさじゃないぜ。ボディーボードの魅力は、波との一体感かな。波と絆を深めながら波のあらゆる部分を、滑ったり回ったり飛んでみたり。いろんな波を征服していくのは、すごく気持ちが良いんだ。華麗なライディング・テクには決まりがなくて、自由な発想から進化し続ける・・・もっと上を目差したいって思うよ。

そういうところ、ヴァイオリンと似ているかもな。ほら、面白くなってきただろ。あんたの目も覚めてきたし、その調子でしっかり俺のこと見ていろよな。





まだ朝も早い時間の海にはボディーボーダーたちが集い、相棒のボードと共に沖から生まれる波を待っていた。
香穂子が待つ砂浜からは遠く離れていて、いくつも散らばる黒い点にしかか見えないが、その中には恋人である衛藤の姿もある。海には絶対的な約束があり、一つの波から滑ることができるのは、頂点(ピーク)に最も近い一人だけ。

祈る想いで水平線と光が交わる彼方をじっと見つめていると、轟くような音と共に押し寄せる、白く吹き上げた大きな波。
すごい・・・高い波だ、と香穂子が思わず立ち上がるよりも早く、動きを潜めていた人の群れが一斉に動き出す。
持ってきた双眼鏡で覗くと、テイクオフを始めた先頭にいるのは真っ赤なボードの青年らしい。


「やったね、桐也。イイ波一番乗り!」


目から双眼鏡を離した香穂子が、頑張れ〜!と大きく手を振りながら呼びかける声援が届いたのだろうか。波待ちをしていた誰よりも先にピークへ達すと、キックでボードごと華麗に方向転換してのテイクオフ。波に乗れずコースアウトしたボーダーたちが動きを止める中で、ただ一人波を滑る事を許されたのは、衛藤桐也だった。

最初は双眼鏡で覗いていたけれど、レンズを一枚通すのではなく、ちゃんと自分の目で見届けたい。砂浜に敷いたレジャーシートに転がすと、眩しい日差しを手の平で遮り、もう片手は手に汗握りながら、見つめるのは波に挑むただ一人。


上半身の姿勢と両腕の肘でボードをコントロールしながら、波の作った斜面をスピンを繰り返しながら滑り降り、次々生まれる波をのり繋ぐ・・・。格好良さと美しさと、一人波に立ち向かう強さが心を震わす興奮は、砂浜に近付き、やがて弾けたブルーの光が衛藤ごと飲み込むまで続く。最後は飛び散る波と共に高く跳ね上がり、ボードを当て込んでの一回転。

砂浜にいた誰もが息を呑む、長いようであっという間のひとときが終わると、一緒に波に乗ったような一体感と・・・青く染まる海の世界を見た気がした。あいつ、ちゃんと俺のことみてたかな。心を込めてあんたにヴァイオリンを届けたいと想うみたいに、砂浜で待つ香穂子に早く辿り着きたくて滑ってたんだぜ。


「ん・・・香穂子?」
「きーりーやー! 格好良かったよ〜!」
「・・・っ、大声で恥ずかしいっての。俺が格好いいの分かってるってば! 今行くから、そこで待ってろ!」」


小さくなった波から立ち上がり髪を掻き上げると、少し先の砂浜で手を振りながら大きな声で呼びかける香穂子に、熱が顔へ募ってゆく。自分の事みたく嬉しそうにはしゃいじゃって・・・本当、素直で恥ずかしヤツ。他のボーダーが見てるじゃん、あんた注目の的だぜ。ボディーボーダーが憧れる波を「ホレる波」っていうけど、あんたは俺に惚れ直しだだろ?それでも満面の笑みで興奮する香穂子が嬉しくて、心も瞳も頬も・・・向ける全てが緩まずにはいられない。なんて、一番嬉しいのは俺だってこと、知ってる?






「桐也、お疲れ様〜。はい、タオルどうぞ」
「おっ、サンキュ。香穂子、気が利くじゃん。 俺の華麗なライディング、ちゃんと見てたか? まさかこの前みたく、他のヤツと見間違えたりしてなかっただろうな」
「うん、今度はばっちりだよ。すっごく格好良かったよ! 双眼鏡も持ってきたし、桐也の赤いボードは遠くからでもすぐ分かったの」


愛用の赤いボードを小脇に抱えた、半袖のウエットスーツ姿の衛藤が砂浜に戻ると、満面の笑顔で拍手をする香穂子が出迎えた。お疲れ様と差し出すタオルを受け取った指先がふと触れた一瞬や、濡れた髪を掻き上げる自信溢れる爽快な笑顔に、香穂子が頬を赤らめたのを、もちろん衛藤が見逃すわけがない。


「ふぅん、何赤くなってんだよ。あんた今、俺を意識しただろう? さてはドキドキしてるな?」
「っ!・・・そうだよ。ボードやってる桐也が格好良くて、ヴァイオリン引いているいつもとは、違う男の人みたいなんだもん・・・。大きな波に乗ってた時、すごく感動したんだよ。ここで見守る私まで、一緒に波に乗っている感覚がしたの。嬉しかった・・・」
「いつもはムキになるのに、そこで珍しく素直になられると、何て言うかその・・・調子狂う。照れるだろ、香穂子こそ反則だぜ」


始めは頬をぷぅっと膨らましかけ、挑みかけた香穂子の一歩が止まり、衛藤の瞳の中へ吸い込まれてしまう。波の音だけが聞こえる、二人の呼吸も鼓動も止まった一瞬。組んだ両手を握り締めながら、心の中を確かめるように、とつとつと語る長い髪が、海から吹き抜ける潮風に舞い上がった。

それ以上の言葉を続けることが出来ず、見つめ合いながらも、やがてどちらともなく黙り込んでしまう。じんわり顔へ込み上げてくる熱に耐えきれず、視線をふいと逸らしたのは衛藤が先だった。

一緒に・・・か、そう呟いた衛藤がボードを身体に繋げる腕輪を外すと、砂浜に赤いボディーボードを置き、脚に履いていたフィンを脱ぐ。心にある想いを素直に届けくれているのに、反則も正当も無いのは分かっている。嫌いじゃない、嬉しかったって言ってるんだぜ。乾きかけた髪を掻き上げ、香穂子がくれたタオルで顔を拭くと、ふわり表情が緩み微笑みが浮かぶ。柔らかく優しい香りがふわりと包む・・・これは、あんたの香りだな。


「身体一つで波に乗るボディーボードは、波と踊るダンスって言われてるんだ。どうだ、香穂子も見てるだけじゃなくて、一緒にやってみないか? あんた泳げるし、海が好きって言ってただろう?」
「いいの?  私も一緒にボディーボードやりたい! 桐也を見てたら、私にも出来そうな気がしたの」
「おいおい、あんた相当な自信家だな。言っておくけど、俺の指導は厳しいぜ。あと、絶対に俺の傍から離れないこと」
「は〜い、先生! よろしくお願いします〜」
「じゃぁ今度の休日空けておけよ。俺が香穂子の為に、ボードからウエアーまで全部コーディネイトしてやるから」

初めは海水浴気分だったボディーボードも、海に通えば通うほど夢中になってくる。青い海と陸の境界線を超えて、自然が生み出す大きな波と一つになるあの感覚は、幸せというより感動だよな。あんな波に乗りたい、次はラインを描きたいって、どんどん楽しくなるんだ。一度味わったら病みつきになる・・・見ていただけの香穂子も、そう思うだろう?
 
あと、仲間とのライブ感。ボディーボートってアンサンブルみたいなとこ、あるんだぜ。だから、きっと気に入ると思う。


「・・・この間は、イイ波に乗れなくて、あんたに格好いい所見せられなかったからな。やっぱボードを変えたから、調子が良いのかも」
「そのボディーボード、見たことある。確かこの前、一緒にサーフショップ行ったときに選んだものでしょう? 何色が良いかって桐也に言われて、私が答えた好きな色を買ったんだよね」
「そう、このボードはあんたが選んでくれたヤツだよ。ボードと一口に言っても、いろいろある。選んだ相性次第で、波に乗るテクニックやスピード、耐久時間も変わってくるんだ。ヴァイオリンと一緒だな。今日、最高の波に乗れたのは、あんたがいてくれたからだって思う」
「えっ、私が・・・!? やだな、大げさだよ。桐也の腕が良かったんだから、そうでしょ?」
「香穂子が選んでくれたボードなら、世界中どの海でも最高の波に乗れそうだぜ。なんなら、俺と一緒に行ってみる?」


それは南の島なのかと、目を見開いて驚く香穂子が見る間に真っ赤に染まってゆく。私たちまだ高校生だし、外泊はその・・・と、組んだ手を照れ隠しに弄りながら。いきなり海外は良くないと思うの、とごにょごにょと口籠もる言葉は理性を焼き尽くすには充分過ぎる威力がある。おい、じゃぁ国内なら良いのかって、あんたに問いかけていいか?

誰が今すぐっ行くって言ったんだ、素直に納得したら俺まで意識するだろう? 
もちろん香穂子と二人きりになれる海に行きたいけど、もう少し大人になったそのうちってこと。