Pretty Cat



俺よりも裸眼で視力の良い香穂子は、歩く道の先に何かを見つけたらしい。嬉しそうに瞳を輝かせると、俺と手を繋いだまま駆けだしてしまった。穏やかな速度でゆったり歩くアンダンテは、一気に陽気なアレグロに変わる。
駆け出す香穂子に勢い良く腕を引かれ、崩れそうになる体勢を支えながら、君の後を追うのはいつもの事だ。


「あ! 可愛い子猫発見!」
「おい、香穂子。どこへ行くんだ」
「蓮くん、早く早く。猫さんがいなくなっちゃう」
「急がなくても大丈夫だ、ゆっくりで」


そう宥めるけれど、うん!と満面の笑顔で返事をした香穂子は嬉しさを押さえきれず、歩みを緩めて止まることはない。
手を繋いでいるから香穂子が走れば俺も走る。運命共同体と言えば聞こえが良いが、振り回される俺はどこへ行くのか分からない。しかも予想もしないタイミングで突然動きを変えられるから、戸惑ってしまうんだ。

つい数十分前までは、疲労感の後にやってくる眠の海を漂っていたとは思えない元気さだな。香穂子らしいな・・・そう思いながら駆け出す背中を見つめるうちに、自然と緩む頬が止められない。さぁ俺も君を追いかけなくては。だが俺の手を離した君が一人飛び去るよりはずっと良いと思う。君が連れて行ってくれるところなら、どこでも楽しめそうな気がするから。



グラスに注がれた炭酸の気泡みたく、くるくる駆け回っていた香穂子が舞い降りたのは、道端に出来た小さな日だまり。
光の泉に丸くなる小さな白い子猫を見つけた君は、俺の手を解くと身を屈めてしゃがみ込み、可愛いねと頬を綻ばせながら見つめている。光に溶けてしまいそうな真っ白い毛並みは艶やかに整えられ、首に巻かれた赤いリボン。という事はどこかの家で飼われている猫なのだろう。

寒がりの猫は日だまりに丸くなり、暖を取る。猫が見つけたとっておきの場所は、今まで歩いてきたどの道よりも、温かな日差しに溢れて心地良い。もうすぐ日が暮れる黄昏時の中で、ここは最後に残った日だまりなのだろう。両手の平にすっぽり収まってしまいそうな子猫を起こさないように、頬を寄せ合いながら内緒話を交わそうか。


「赤いリボンをしているから、この子は女の子なのかな。真っ白な毛が柔らかそう、ふわふわだよ。日だまりにいるこの子が、お日様の欠片みたいに輝いているよね。抱き締めたら温かいんだろうな〜」
「俺たちが休日の良い天気に誘われたように、子猫も家を抜け出し、ひなたぼっこをしていたのだろう。抱き締めたい気持は分かるが、日だまりはすぐ消えてしまう。今はそっと見守り、このまま寝かせてあげないか? 香穂子だって、寝ている所を起こされたら困るだろう?」
「そっか、猫さんも気持ち良いんだもんね。幸せな寝顔は守りたいなって思うの。でもね、寝顔を見つめていると、蓮くんのほっぺや髪の毛を触りたくなるの。蓮くんだって眠っている私のほっぺに、ちゅってたくさんキスするでしょう?」


しゃがんだ膝の上に頬杖をつきながら、ね?と小首を傾げる悪戯な瞳が俺をにこにこと見つめている。守りたいと願う寝顔に触れたくなるのは君も俺も同じ。本当のことだから反論も出来ず、顔に込み上げた熱を堪える事しかできない。良い天気に誘われたと言っても、休日の人混みを避けるように俺の部屋にやって来て、結局は室内で熱いひとときを過ごした。日向を求めた猫と違い、俺たちの休日に天気はあまり関係なかった・・・かもしれないが。


「蓮くん、猫好き?」
「嫌いではないが、どうしたんだ?」
「ん〜とね、優しい瞳で見守っているから羨ましくなっちゃった。私も猫になりたいな。でね、蓮くんだけの子猫になって、大好きなお膝の上で丸くなるの」


ふふっと柔らかに頬を綻ばせた香穂子が頬杖を解き、人差し指を唇に当てて声を潜めた。真綿にくるまれた宝石へ触れるように、そっと優しく眠っている子猫の背中を一度だけ撫でた。眠る子猫を見守る眼差しは愛しさに満ちていて・・・胸の中へ沸く温かさは、つい先ほどまで過ごしていた俺の部屋で、君を抱き締めていた自分に重なる。


「頭や背中の毛並みを優しく撫でてもらったら気持ち良いだろうな〜きっと蕩けちゃうよ。だってベッドの中で腕枕してくれるときに、髪の毛を優しく撫でてくれるのが、とっても幸せなんだもの。柔らかくて温かい膝枕も大好きなの」
「子猫か、無邪気で可愛らしい香穂子にぴったりだな。元気に部屋の中を駆け回るのが目に浮かぶ、俺は君を捕まえようとして、必死に駆け回るんだ。やっと捕まえて膝の上に乗せたら、君は心地良さそうに眠ってしまうのだろう」
「私が子猫になったら、お散歩も眠るときもずっと蓮くんと一緒にいられるよね。お部屋でヴァイオリンも聞けるし、もう帰らなくちゃって、時計と睨めっこしながら帰る心配をしなくて済むんだもの・・・。日だまりのお布団に、もう少し一緒に包まっていたかったな」


離れたくはない、帰りたくはないのだと・・・切ない光を湛えた瞳が真っ直ぐ俺を射貫いた。応えたい想いは同じなのに、時間なぜはかないのだろう。だが限られた時間だからこそ、紡ぐ想いは深まる。また明日があるから、君に会うために頑張ろうと思えるんだ。

足下でちりりと鈴の音が響くと、止まっていた二人の時間が流れ出す。つかの間の日だまりが陰に覆われてしまったから、子猫も家に帰るのだろう。背を向ける子猫を寂しそうに見送る香穂子の肩を抱き寄せ、夕日を受け止める髪にそっとキスをした。


「香穂子の家に送るまでは一緒にいられる。日が暮れる前に送り届けなくてはと思っているのに、名残惜しくてつい遠回りをしてしまったな。明日の朝になれば、また会えると分かっていても、ひとときの別れは俺も辛い。繋いだこの手と、俺の心と身体に宿る君の温もりを、手放したくはない」
「蓮くん・・・」
「だが俺は子猫よりも、本物の君でいて欲しいと思う。その・・・子猫のままでは、香穂子のヴァイオリンが聞けなくなってしまう。それに抱き締めることもキスをすることも・・・一つに溶け合うことも、出来なくなってしまうから」


帰ろうか、俺たちも・・・そう言って立ち上がって差し伸べた手の平に、微笑みを浮かべた香穂子の手が重なった。視線を交わし合ったまま、心を繋ぐようにしっかりと握り合う手の強さと温もりが、決して消えることのない日だまりを生み出してくれる。想いの熱さを示すように、困った微笑みを浮かべたまま握る手に力を込めると、振り仰ぐ香穂子の頬がオレンジ色の夕日に染まった。



ふいに腕の中で甘えて擦り寄る君は、今でも充分に子猫のようだと俺は思う。
光に溶けてしまいそうな、白いミルク色の素肌を持つ俺だけの愛しい子猫。抱き締めた腕を枕に横たわる君は、眠りから覚めると無邪気にじゃれて肌をくすぐり、小さな舌でぺろりと俺の頬や唇を舐めるんだ。日だまりに溶けた子猫よりも柔らかで温かく、穏やかな寝顔の君が誰よりも愛しい。


日が沈んでも月がある、俺たちの心に温かな日だまりがあるから。
今度は月が照らす夢の中で会えるように、君を想いながらヴァイオリンを奏でよう。