風邪と恋模様
凜とした冬はヴァイオリンの音色も響き渡り、強い光りを灯す夜空の月や星の輝きも美しい。
だが空気が乾燥して寒さが厳しくなると、風邪を引きやすくなる。
そういえば街中や学院でも、咳き込んだりくしゃみをしたり、マスク姿をした人の多く見かけるようになった。
コンサートも控えた大事な時期だから、良い演奏をする為にも、お互いに体調管理には気をつけないといけないな・・・。
俺も香穂子もそう話しながら朝一緒に登校したときには、確か何も無かったはずなのに。
練習を約束していた放課後に、少し遅れて練習室へ駆け込んだ香穂子は、淡いピンク色のマスクをしていた。
「蓮くん、遅れてごめんね」
「香穂子、君も風邪を引いたのか?」
「うぅん違うよ、私は元気だから安心してね。ほら、風邪は予防が大事でしょう? 友達とかもみんな咳込んでコホコホしてるし、風邪菌が入ってこないように購買でマスクを買ってきたんだよ。あ、蓮くんの分もあるからね」
「マスク・・・」
「蓮くんの好みが分からなかったら、とりあえずひと揃い買ってきたの。どれでも好きなのを選んでね」
鞄から数種類のマスクたちを取り出し、俺の前に披露すると、どこへ置こうかきょろきょろ練習室の中を見渡す。あっと声を上げ駆け寄ったのは、中央にあるグランドピアノ。肩越しに振り返り俺を手招く香穂子へ微笑みを返しながら歩み寄れば、幅の広い椅子の上へまるでカードのように並べていく。
マスクは白だと思いこんでいたが、最近ではピンクやブルーなど色つきの物も出ているんだな。
俺を気遣ってくれる、彼女のさりげない優しさが嬉しい。どんな時でも、君が俺の事を想ってくれている証だから。
可愛いでしょう?と目元がにっこり微笑むと、口にはめたピンク色のマスクを指さした。
可愛いなと返しつつもどこか寂しいと思うのは、笑みを浮かべる柔らかい唇がマスクの中へ隠れてしまっているからだろう。マスクが顔の半分を覆い隠してしまっているから、ピンク色に染まる頬も笑顔も・・・つまり瞳しか見えないのが残念だ。
俺もマスクをしたら同じようになるのだろう、会話もしづらそうだが香穂子の体調には変えられない。
「蓮くんはどれが好きかな。私とお揃いでピンク色にする? それとも色違いでブルーにするのはどうかな? 」
「いや、普通に白い物でいい・・・」
珍しい物や新商品が大好きな君は、わくわくと目を輝かせながら、両手に色の付いたマスクの袋を持っていた。風邪を引いた時には、確かに沈んだ気分も浮き立つかも知れない。だが二人揃ってカラフルなマスクをすれば、気分よりも俺たちそのものが、浮き立ち目立ってしまうだろう。気持ちは嬉しいけれど、やはりどこか照れ臭いんだ・・・。
悩んだ末に俺が手に取ったのは、白く四角い紙製の定番なマスクの袋。あひるさんの嘴みたいなのもあるよと、楽しげな香穂子は立体のマスクを差し出すけれど。あひるの嘴と言われたら手に取ろうにも取れなくなってしまうじゃないか。きっと君は可愛いと言うのだろうから。
期待が外れて残念そうに頬を膨らますけれども、じゃぁこれはお家で使ってねと、にこやかに残りを押しつける事も忘れない。
好奇心もあるけれど心配してくれる優しさを感じるから、心の底からじんわり温かくなるんだ。
香穂子が風邪を引いて辛そうだった時には、俺が変わってやれたらと強く願ったが、君はそれを望まなかった。
俺が自分の事のように心を心を痛めているのと同じように、もしも俺が寝込んだら、心配する君を泣かせてしまう事になるから。
患者を見守る医者のような真摯さで、じっと俺を見つめる君に微笑みながら、さっそくマスクをはめてみる。鼻先にあたるワイヤーを調節してフィットさせ、どうだろうかと披露すれば、似合うねと嬉しそうな笑顔を頬を綻ばせた。
マスクに隠れてしまっているけれど、大きな瞳が柔らかく緩んでいるから、きっと笑顔を浮かべているのだろうと、自分に言い聞かせてみるしかない。なんだかもどかしくてじれったくて、君の口を覆うそれを奪い去ってしまいたくなる。
「う〜ん、でもやっぱり白いマスクは寂しいなぁ・・・何かが足りないの。私風邪引いてますって主張しているみたいで、元気になれないよね」
「いや、マスクはこういう物だと思うんだが・・・」
「そうだ、マスクに絵を描こうよ。蓮くんそれちょっと貸して?」
「え!? いや・・・その、香穂子!」
このままで良いからという言葉は届かず、止めようと伸ばした手は空しく宙を掴むだけ。ポンと手を叩いて閃くと、逃げる間もなく飛びつき素早くマスクを奪い去さられてしまった。練習室の隅に置いてある鞄からそしてまたピアノの前へと、足取り軽くひらひら飛び回る君は、ピンク色のマスクが桜の花びらのようだ。ふわりと舞い降りた椅子の前に膝をつき、手の中へ握った赤のサインペンで、白いキャンバスへ楽しげに描かれる模様。
何をする気なのだろうか・・・たくさんのマスクを買ってきた時点から嫌な予感はしたけれども、彼女を止める方法は無くて。君はいつも俺を驚かせてくれるから僅かな警戒心と、それ以上に大きな期待や楽しみが奥底から溢れてくる。だが楽そうな歌声に誘われそっと覗き込んだときに、見てしまった自分を後悔しつつ、体中から熱さが噴き出しそうになった。
「はい、蓮くん出来たよ〜どれでも好きなのを選んでね。マスクに大きなハートを描いてみたの、どう?可愛いでしょう?」
「可愛い・・・と、思う・・・・・」
「でね、余っていたこっちのマスクにはキスマークだよ。もう一枚には音符とヴァイオリン。でも上手く描けなくて、楽器が串団子みたいになっちゃった・・・ごめんね」
ペンを握り締めへへっと無邪気に浮かべた笑いに、怒る気力も消え失せ脱力しそうになる。一枚だけでは飽きたらず、残りの2枚にも同じように絵を描き始いて・・・俺はあれを使うのか?
いそいそと自分のマスクも外した香穂子は、隅に同じようなハートマークを描き始めた。再び身につけるとポケットから手鏡を取り出し、絵柄の可愛らしさに満足そうな笑みを浮かべている。ピンク色のマスクに赤いハート模様。香穂子が身につけると、取り去って口付けたい程に可愛らしいが、俺にははっきり言って似合わないだろう。
の上に並べられた三枚のマスクには、赤いハートマーク、キスマーク、踊る音符とちょっぴり歪んだヴァイオリンの絵柄。
どれも香穂子直筆の貴重なものだ。気持ちがとても嬉しいのに、なぜこんなにも押しつぶされそうな重圧を感じるのだろうか。
カードの選択を迫られたものの、どれもジョーカーな気がして動悸が高まり、背中には見えない冷や汗が伝う。
やはりブルーのマスクをして君とカラフルなお揃いにしようと・・・今更意見を変えるのは、もう遅いのだろうな。
だがこれをどうすれば良いのだろうか。このマスクをして学院や街中を歩くには、恥ずかしすぎるし、男の俺には似合わない事は鏡を見なくても分かるから。膝を折って香穂子の隣へ座り、どれを選ぼうか伸ばす手が躊躇うけれど。身につけるのを今かまだかと、期待を込めた眼差しに逆らえないのは、惚れた弱みなのだろう。
「ねぇ、蓮くんはどれが好きかな? 迷っているなら私が選ぼうか?」
「いやっ・・・その、自分で選ぶから・・・」
「そう?」
きょとんと小首を傾げる君にそう言うものの、ハートとキスマークと音符の上を、何度も行ったり来たり手が彷徨う。動く手と一緒になって香穂子も首を巡らせ、あちらからこちらへと子犬のように追いかけてくるのが楽しいけれど。
落ち着かせる為に一つ呼吸をして、ちらりと視線を向けた香穂子の口元に浮かぶ赤いハートが俺を誘う。誘われてしまった。いつまでも迷っていられないな、早く決めて選ばなくては・・・よやく手の中へ握ったのは、彼女と同じく、ハートが描かれたマスク。
と熱さが込み上げる絡んだ視線の先で、君が着けていたピンク色のマスクを外し、とっても嬉しそうな顔をしたから。
ずっと見たいと願っていた笑顔に心奪われ、俺はもうそれだけで心が満たされてしまうんだ。このマスクをしても良いかなと思えてしまう程に。
「香穂子の気持ちはとても嬉しい。だが絵柄を表にするのは・・・その、照れ臭いんだ」
「残念だけどじゃぁ、絵柄を内側にするのはどうかな? ちょっとイラストが透けるけどあまり見えないって思うの。それにね、ずっと蓮くんのほっぺにキスしていられるよね。それも嬉しいかも」
「キス・・・・」
「だって、ほら・・・マスクをしてると口が隠れちゃうからキスがしにくいでしょう? 私の変わりに心を込めて描いたハートの絵が、大好きな気持ちを届けてくれるの。蓮くんのほっぺにずっとくっついていられるんだよ、チュットね。どうしよう、私までドキドキしてきちゃう」
もじもじと照れ臭そうに手をいじり、ふいに上目遣いに向けた視線に射抜かれ目眩がした。気を緩めた隙に手の中にあったマスクが香穂子の手に渡り、そっと唇に押し当てられた。赤く色づく唇が、同じように赤いハートの絵へキスをするようにゆっくりと。
ちょこんと背伸びをして着けてくれる柔らかい指先が頬に擦れば、燃えるような熱さを感じる。もちろん絵柄は内側にして、俺の頬へ直接触れるようにと。
本当は、君の柔らかい唇から直接欲しいけれど。
ハートのマークへ姿を宿した君がくれる優しいキスに、マスクの内側でじんわり熱くなる俺の心と身体。
トクントクンと脈打つ熱い鼓動は、描かれたハートが生きているのか、それとも俺のものなのか。
「・・・っ、香穂子!?」
「風邪菌が来ても、私がやっつけるからね・・・」
「それは俺が言おうとしていたんだが・・・ありがとう香穂子。唇同士が触れ合っていられるのは時間に限りがあるが、これならずっと君のキスがもらえるな」
香穂子は絵柄を表に向けるだろうから、俺はずっと触れていられる内側へ君へのキスを贈ろう。
真っ赤になって俯く香穂子の手から彼女のマスクを取ると、指先で自分のをずらし、自由になった唇を押し当てた。
絵柄の方ではなく何も書かれていない内側へ、君の唇へ愛を届けるように想いの全てを込めて。
「・・・れ、蓮くん!?」
「君が風邪を引かないように、俺が守ろう。君にも俺の想いを届けたい」
「どうしよう、凄く熱いよ・・・私の中が蓮くんでいっぱいになって、お熱が出てきちゃったよ」
瞳を緩め微笑みを注ぎながら、口付けたマスクを香穂子へ着ける。確かめるように辿る指先が、口元へふわり舞い降りれば、互いに込めたキスが触れ合っているのだと気付いたのか、さらに赤みが増していく。
白い湯気が見える程、茹でだこに染まった香穂子は両手で頬を押さえ俯いてしまった。そわそわ肩を揺らしながら火照った顔を隠すように・・・。さっき君も俺へ同じ事をしたというのに、照れ臭さにようやく気付くなんて君らしいな。
今年の冬は風邪を引かずに済みそうだな。
どんな風邪菌も、このマスクの前では恋の熱が焼き焦がしてしまうだろうから。
だが恋の熱は薬も効かない、俺は風邪ではない別な熱に浮かされていると、もう君は気づいているだろうか?