分からないことだらけの恋



「加地くん、動いちゃ駄目っ!」
「そうは言っても、ちょっとくすぐったいかな。ねぇ香穂さん、僕はいつまでじっとしていれば良いの?」
「今日こそは、加地くんのお口がどうしてくるくる動くのか、確かめようと思うの」
「くるくるって・・・僕は想った感想を素直に言っただけなんだけどな」


困ったように微笑む加地の頬を両手で包む香穂子が、動いちゃ駄目と上目遣いにメッと叱る。その可愛らしさは心を激しく揺れ動かすから、じっと耐えることは困難だ・・・。そうかこれは神様が、君に恋する僕に課した試練なのかも知れない。瞳を閉じてうっとり夢見心地に頬を緩ませた加地に、あっ!と声を上げた香穂子が、ほらまた何か考えたでしょ?と、急かすようにぴたぴたと頬を軽く叩きながら、夢の世界から引き戻す。


「瞳を閉じると、さっき香穂さんが奏でたヴァイオリンの音色が蘇ってくるよ。春を迎えた歓喜のメロディー、甘い夢に誘う至福の音色だね。そして目を開けたら・・・ほら、本物の香穂さんがいるんだ。ふふっ、夢の中だけじゃなく目覚めたら、本物の女神がいたんだ。僕に春を呼ぶ、君という女神がね」
「・・・あ、ありがとう。でもね、その・・・大げさじゃなくて素直な感想でも、いいんだよ?」
「大げさ? 嫌だなぁ香穂さん、僕は心に浮かぶありのままの景色を、君に伝えただけだよ」
「・・・・加地くん・・・」


勝負を挑んだものの、加地には敵わず真っ赤な茹で蛸になった香穂子が、見えない湯気を噴き出してしまうのは、いつものことだ。恥ずかしさで潤みそうな瞳を見開きながら、それでも負けじと唇を引き結び、フフッと微笑みを浮かべたまま見つめる加地の唇の形を、確かめるように指先で触れている。ひょっとして、唇から生まれる言葉の意味を知りたいのかな?

甘く痺れる指先の感触に、そのまま唇に含みたくなる衝動を堪えるのに紙一重。悪戯な指先を封じるために、そっと手を重ねて彼女の名前を呼びかけると、懐の中からちょこんとふり仰いでじっと見つめてくる。さっきまでの強気な姿勢を潜めて、あの・・・あのねと、切なげに瞳を揺らしながら。


「香穂さん、どうしたの? 心に溜めている想いがあったら、僕に教えて欲しいな」
「加地くんの中にある、可愛いリボンやお花がくるくる動く景色を、私も見たいなって思ったの」
「僕の・・・心の中を?」
「加地くんの気持や言葉はすごく嬉しいの。でもね、恥ずかしくて照れ臭くて、私の想像力が追いつかないというか。実際に私も同じ景色を見たら、もっと一緒に分かち合えるのかなって・・・好きだから。私ね、加地くんの事、もっと知りたいの!」
「香穂さん・・・」
「上手く言えないんだけど、言葉よりも行動で示したい・・・そんな気持かな。あのね、信じていない訳じゃないからね! 加地くんの素敵な表現力は、素敵だなぁって思うもの」


必死な瞳で真っ直ぐ訴える光に吸い込まれそうになる。恋するからこそ、いろいろ考えてしまう胸の内の不安を抱えながら、それでも僕への気遣いを忘れない。香穂さん、君は本当に優しいね・・・僕は君を不安にさせてしまったというのに。
口元に湛えた微笑みはそのままで、瞳に真摯な色を浮かべた加地が、頬を包んでいた香穂子の手を、熱く脈打つ自分の胸に引き寄せる。初めは驚きに戸惑っていた香穂子も、包まれる眼差しと温もりに、ゆっくりと溶け合うような穏やかさを取り戻してゆく。


「君の指はなんて刺激的なんだろう。僕を君に出会わせたヴァイオリンの音色、そして今僕に触れているこの指先。僕の心がドキドキしているの、分かる?」
「うん、温かい手のひらから直接感じるよ。私の心もドキドキしているから、耳から聞こえるのがどっちの鼓動か分からないくらいなの。でも、すごく安心する」
「香穂さんに恋してから、今まで以上に心が敏感になったんだ。好きになるほど、感情が溢れて止まらなくなる・・・色鮮やかになったっていうのかな。嬉しくて楽しい気持も、切なさ、悲しい気持も、もちろん好きな想いも全てをここに映し出しているんだよ」
「恋する胸って、忙しいんだね」
「そう、だからこそ豊かな音楽を奏でられたり、綺麗な景色を映し出してくれるんだ。ねぇ香穂さん? 僕の心の中の景色、見えたかな?」


二人の心が近くなるほど、お互いの声に耳を澄ます事って、大事なことだよね。頬を桃色に染めながら、花の笑顔を綻ばせた香穂さんに、もう曇り空はない。あるのは広く温かに澄み渡る青空と、眩しい笑顔の太陽。僕の心臓の上へ一つに重ねていた手を、胸の両脇に広げると、甘える子猫のように懐へ擦り寄り胸の中で耳を寄せた。柔らかな日だまりで寛ぐ、幸せな笑みを浮かべながら。


「私にも見えたよ、加地くんの景色が」
「本当? どんな色だった?」
「可愛いパステルピンクだったり、少し濃いめのキュートなピンクだったり。甘く優しい綿あめみたいな、ふわふわのお花畑だったよ。言ってたとおり、春なんだね」
「綿飴みたい・・・か、ふふっ、確かにね。君に触れられている僕は、恋の熱で蕩けてしまいそうだよ」


君が見た景色は僕のものでありながら、本当は香穂さんの中にあるものなんだよ。でもそれが二人同じ景色を見る・・・気持を分かち合うって事なのかもね。


香穂さんが僕に触れている、しなやかな指先が伝える熱さが、身体中を巡り僕を柔らかに溶かす。温かいような、どびきり甘いような心地良さは、澄んだ泉のように心の底から沸き上がってくるよ。きょとんと小首を傾げている香穂さんも、さぁ・・・この温もりを感じながら瞳を閉じて想像してみて?

清らかな君の想いが僕の中に溢れるほどに、僕自身の身体が蕩けて、ふわりと漂う光と一つになる。
君の熱で蕩けて消えないように、僕にしっかり触れていて欲しいな。僕も君を離さないからね。