La forme d'amour



寒さが厳しいウイーンの冬は、温かい日中でも気温が上がらず、氷点下を下回ることも珍しくない。街中は常に除雪されているが、オーストリアの山間部では半年も雪に覆われる地方もある。だが舞踏会のシーズンを迎えたウイーンの街中は、寒さが一段と募るこの季節を待ち望んでいた、人々の喜びや熱気に満ちているように思えた。

ウイーンの国立オペラ座や市庁舎、ハプスブルグ家の栄華を伝える王宮や、ウイーンフィルが新年のコンサートを行う楽友協会など・・・その他職種ごとにも大小様々な舞踏会が行われており、その数は一日に数十件以上だそうだ。ウイーンの国立オペラ座では、舞踏会の頂点とも言えるオーパンバルがもうすぐ開催されるせいもあるのだろう。花の冠に純白のドレスを来たデビュタントたちが、黒い燕尾服に身を包んだパートナーと共に踊る晴れ舞台・・・といえば、日本でも聞き覚えがあるだろうか。


舞踏会の開催を伝えるポスターの前で立ち止まり、ほぅっと甘い吐息を零す香穂子は、家に戻るとワルツを口ずさみながらくるくると楽しげに舞い踊るんだ。二人で暮らすこの家がボールルームなのだと君は言うけれど、夢見る少女のように輝く瞳は密かな望みを真っ直ぐに伝えていた。ウイーンで暮らしているのなら、いつか本物の舞踏会に行きたいのだと。


招待者限定のものもあるが、多くはチケットを入手すれば参加することが出来る。その入手が時に困難だっりするのだが・・・と困ったように説明したら、至極真剣に納得した彼女は、それ以来願いを口にしなくなってしまった。滅多なことでは我が儘を言わないのに、賑やかな場所が苦手な俺を気遣う優しさに胸が痛む。素直な君はそのまま納得してくれたのか、それとも理由が他にあったからだと気付いたのかも知れない。。


東洋の女性がこちらでは人気が高いという事情から、盛装した香穂子を華やかな場に連れて行きたくなかったという、個人的な焼きもちもある。しかも話に聞くと、王宮で行われる舞踏会では皆が仮面を着けるそうじゃないか。仮面を着ければ身分を明かさずに、一夜の淡い恋が楽しめるというのが理由だそうだが、冗談じゃない。好奇心旺盛な香穂子が、もし会場で俺の手からはぐれてしまったらと想像するだけで、心配のあまり胸が潰れてしまう。


零れた小さな溜息が、凛と冷えた空気の中で白い固まりに変わる。憂いが生み出したものなのに、ふわふわな綿菓子はどこまでも甘く柔らかそうに見えるから不思議だな。それはきっと、甘さの予感を秘めたものだからかも知れない。コートのポケットに手を入れると、ずっと忍ばせていた封筒が小さく胸を高鳴らせてくれる。この中に入っているのは舞踏会のチケットが二枚、しかも開催される日付は2月14のバレンタインデー当日というのは、まだ君に秘密だけれど。


これを受け取った香穂子は、喜んでくれるだろうか? 
一緒にワルツを踊ってくれないかと手を差し伸べたら、君は俺の手を取ってくれるだろうか・・・と。
文化祭のワルツを誘った時のように、甘酸っぱい恋心が蘇ってくる。





悪戯な風が吹き抜け、頬を裂く寒さに身を竦ませると、首に巻いたマフラーを立てて顔を埋めた。厚い鈍色の空から舞い降りる粉雪が、大人しさを取り戻した頃に空を見上げれば、白く昇る吐息が空へ溶けてゆく。青空が一番好きだが、石造りのアパルトマンが建ち並ぶウイーンの街には、歴史を刻む石壁と同じ色をしたこの空が似合う。そう思うのは何度も長い冬を過ごしてきたから・・・一人で過ごしていた頃は孤独に潰されそうだったが、今は愛しい季節に変わったからなのだろうな。


留学を終え、二つの道を寄り添わせた俺たちが同じ道を歩み、共に暮らすウイーンの街。

たとえ冬であっても、心のレンズを変えるだけで感じ方も変わるのだと、教えてくれたのは君だ。外の寒さは厳しいが、厚い扉の中には温もりや、寒さを忘れさせてくれる楽しいひとときががある。それに・・・ほら、見上げる空は冬色だが、いろいろな表情を見せる石畳に視線を戻せば、一際賑わう花屋の前に小さな春の景色が広がっているだろう? 

厚い雲に覆われた冬の空を明るく染めるカラフルな花の中で、ひときわ目を引くのがヒヤシンスやチューリップといった春を呼ぶ花たち。そして赤い薔薇で作られた、バレンタイン用の大きな花束だ。


女性が好きな男性にチョコレートを贈る日本のバレンタインとは違い、男女ともお互いに・・・あるいは男性が愛する人へ贈り物をする日。恋人や夫婦など大切な相手に感謝をして、一緒に過ごす時間を大切にするのが本家のヨーロッパ流。
花やカードを送るのが一般的だから、バレンタインデーが近付くに連れて、花屋がどこも忙しそうなのはウイーンだけでなくヨーロッパ中が同じらしい。

まだ星奏学院に通っていた高校時代に、香穂子と付き合い始めたばかりの頃、初めて過ごしたバレンタインは、彼女から改めて想いを告げられた記念日。そして留学によって一度は分かれた道を再び寄り添わせ、共に生涯を歩み始めた今では、互いに気持を確かめ愛を深める日と言っても良いだろう。

大切な二人の記念日を共に祝える喜びを、家で待っている君と分かち合いたいから。最初はショーウィンドーに飾られる赤いハートたちが照れ臭かったが、喜ぶ笑顔の為なら何でも出来る気がする。そう心に問いかける俺に応えるように、ふわりと鼻腔を包む甘い香り。誘われ手元を見れば、先程買い求めたばかりの大きな花束が、優しく微笑んでいた。






「ただいま、香穂子」
「蓮、お帰りなさい〜! 外は寒かったでしょう? さっ、早くお家に入って温まろうよ」


玄関で呼び鈴を鳴らした数秒後、薄く開かれた扉から、笑顔の香穂子がひょっこりと顔を覗かせた。まだ春には少し遠い街中に、一足早く春を告げる花屋が青空を伝えてくれたように、俺にとっての春は君という存在。どんなに外が寒くても家に帰れば温かいように、こうして出迎えてくれる君がいるから、留学中のように心が凍らずにいられるのだと思う。

玄関に入り扉を閉めながら、手に持っていた花束をさりげなく背中の後へ隠すことも忘れずに。お帰りなさいのキスをしようと抱きつきかけた香穂子は、動きを止めると背伸びをして腕を伸ばし、肩や髪に積もった小雪を手の平で払ってくれている。かいがいしく世話をされるのは嬉しいのに、心の奥がくすぐったくなるのは何故だろう。


照れ臭さに身動ぎたいのをじっと堪えていると、丁寧に小雪を払いのけていた手の平が、俺の両頬を包み込んだ。一瞬感じた冷たさは、外から帰った俺の寒さを吸い取ってくれたから。だがすぐに温もりに代わり、小さな手から俺の身体全体に彼女の温もりが伝わってゆく・・・。つま先立ちで背伸びをしながら、心配そうにじっと見つめる眼差しと鼻先が、触れ合うくらいに近い。

近いのならいっそ絡む吐息ごと、このまま触れてしまってもいいだろうか。後ろ手に花束を持ったまま顔を近づけ唇を重ね、先程交わし損ねてしまった挨拶のキスを届けよう。これでようやく「ただいま」だなと微笑めば、不意打ちのキスに目を丸くした香穂子がぷぅと頬を膨らましてしまう。


すまない、いきなりキスをしたから怒らせてしまったのだろうか。真摯に謝ると俺の頬を包みながら、顔を益々赤く染めてしまうけれど、上目遣いに照れながら本当の事を話してくれた。お帰りなさいのキスを自分からしようと思っていたのに、先を越されたのが悔しかったのだと・・・。いつだって真っ直ぐ想いを届けくれる君を、今すぐに抱きしめたい衝動に身を任せたいが、背中の後でろ塞がるこの両手がもどかしい。


「大変、蓮のほっぺが凄く冷たいよ! ねぇこうすれば、凍ったほっぺが少しは温かくなるかな?」
「ありがとう、香穂子。温めてくれたお陰で、凍った身体も心も解けてゆくようだ。背伸びをしたままでは辛いだろう、俺がもう平気だ。冷えた俺の頬をずっと包んでいては、君の手の平が凍ってしまう」
「温かくなった蓮のほっぺが今度は私の手を温めてくれるの、だから平気だよ。暖房が効いてポカポカなリビングに行こうよ。今温かいカフェラテを入れるから、一緒にお茶を飲もうね・・・って。ねぇ蓮、どうしてさっきからニコニコしているの? あ!ひょっとして背中に何か隠しているでしょう?」
「頬を染めたり膨らましたかと思えば、もう笑顔に変わっている。香穂子は心や表情でもでも、ワルツのターンをくるくる踊っているんだな」


私にも見せて?と悪戯に輝かす瞳が、右へ左へ背伸びをしながら背中の後ろ側を覗き込もうとする。あまり焦らしては意地悪だとなじられてしまうから、そろそろ披露した方が良さそうだな。緊張と期待に膨らむ鼓動が弾けないように、深く呼吸をして落ち着かせると、隠し持っていた花束を香穂子の前に差し出した。

しがみつく勢いで身を乗り出していた彼女の前に、突如現れた白い固まりと甘く優しい香り。最初は目を丸くして驚いていたが、緩める瞳と微笑みで語りかけながら差し出すと、花よりも可憐に笑みを咲かせて受け取ってくれた。うわぁと感嘆の吐息で頬を綻ばす、想い描いていた以上の喜びが春風となり、身体をふわりと軽く浮き立たせる気がする。


「この花束を、君に・・・。受け取ってもらえるだろうか?」
「ありがとう、うわ〜素敵! ころんと丸いチューリップが、たくさん集まっていて可愛いね。チューリップって一つだけでも可愛いけど、みんながぎゅっと集まると、楽しい音楽が聞こえてきそう。真っ白だからウエディングブーケにも似ているよね、幸せな気持になれるの。買い物があるからって出かけたのは、もしかしてお花を買うためだったの?」
「あぁ、そうだ。詳しく行き先を告げずに出かけてすまなかったな。今日はバレンタインデーだろう? 行き先を告げたら、贈り物が分かってしまうと思ったんだ。春らしいピンクや元気なオレンジもあったが、ミルクのように甘く、雪のように清楚で清らかな白を選んでみた」
「色が付いているときには気が付かなかったけど、白くて丸いチューリップは卵に見えるよね。春の卵かな」
「俺もそう感じたから、白を選んだんだ。小さな花の卵たちを二人で温めて、たくさん幸せを生み出そう。始まりの色である白を、これから俺たちだけの色に染め上げたら、きっと楽しいと思う」


春の芽吹きを感じさせる鮮やかなグリーンと、卵のようなチューリップの白は、爽やかな春風を俺たちの窓辺に運んでくれるに違いない。日本だと違和感があるが、本家であるヨーロッパ式のバレンタインは、俺から君に愛を告げても不自然じゃない。今日は二人で愛を深める記念日だろう? いつもは照れ臭くて言えない君への感謝を素直な気持ちで伝える日、そして共に過ごす時間を大切にする日だ。


潤む瞳で真っ直ぐ俺を見つめる香穂子に語りかけると、泣き出しそうな吐息でありがとうと囁きが零れ落ちる。透明な滴が降り注ぐ花に込めた想いごと、瞳を閉じ胸に抱きしめる姿は、まだそれほど経っていない結婚式の一幕を脳裏に蘇らせてくれる。2月14日は愛の深める日なら、初心に返り色褪せない想いを重ねて行きたかった。いつもなら少し寂しさを感じてしまうかも知れないが、ウエディングブーケに見立てた幸せの白いブーケを贈るのに、これほどぴったりな日はないと思う。

祈りを捧げるように閉じていた瞳を開けると、雨上がりのように澄んだ眼差しが俺の心を照らしてくれた。ほら、玄関にいつまでもいたら薄着の君まで風邪を引いてしまうぞ。玄関での立ち話はこの辺にして、温かいリビングへ行かないか?
目尻に指先を添わせ、光る滴と涙の跡を丁寧に拭い去ると、指先がくすぐったいのか小さく笑いを零しながら身をよじらせてくる。まるで甘える子猫が、心地良い日だまりの膝へ擦り寄るように。


「蓮がヨーロッパ式なら、私は懐かしい日本のバレンタインだよ。私も、蓮にチョコレートを作ったの。不器用な私にチョコを作ろうと思わせてくれるのは、世界でたった一人の大切な蓮だけだよ。出会った頃から今まで、一緒に過ごす毎日はいつも新しい世界が広がっているの。新鮮だからいつも新しく見つけたあなたに恋をする・・・色褪せない想いって、きっとこういう心のトキメキが積み重なるからなんだよね」
「香穂子からの手作りチョコが楽しみだ。甘い物は苦手だが、君がくれる甘さは平気なんだ・・・もっと欲しくなってしまう。チョコレートに負けないように、俺たちも甘く蕩けなくてはいけないな」
「じゃぁ、これから二人でデートしようよ、甘い恋人気分に戻ってね。今日の夜は空けておいてくれって、蓮が前から言ってたでしょう? 実はね、お出かけすると思ったら、お夕飯の用意をしていないの・・・。コンサートに行くのかな、それともレストランで食事とか?」
「そのことなんだが、香穂子にもう一つ贈り物があるんだ。花よりもこちらの方がメインかも知れないな」


手に抱えた花束に顔を寄せながら、花の香りを楽し香穂子へ瞳で合図をすると、廊下を先に歩き始めた俺に気付き、小走りに駆け寄ってきた。リビングのドアを潜れば、温められた春の息吹がふわりと包み込み、気付けばコートを脱ぐべぐボタンを外している自分がいる。香穂子に手を引かれ、ここに座ってねと案内された俺の席には、出かける前には無かったチョコレートの丸い小さなトリュフたちが、白い小皿に盛られていた。

数粒ある中でたった一つだけ、中には恋の実であるアーモンドが入っているのだという。中世の昔は、もしも意中の人がアーモンド入りのチョコレートを食べたら恋が実ると信じられていたらしい。好きな人と添い遂げることや、自由に恋することが今の事態よりも厳しい状況だったからこそ、占いの結果に願いと想いを馳せていたのだろう。


俺がどの一粒を食べるか興味津々な香穂子は、向かい側に座ったまま食い入るように俺を見つめている。君の大きな瞳に見つめられたら、その・・・吸い込まれてしまいそうだし、少し照れ臭い。


「俺たちはもう想いを実らせ、夫婦として結婚しているだろう? 恋占いは必要ないと思うんだが・・・」
「そんな事言っちゃ駄目っ! 初心忘るべからずって、昔の偉い人も言ってるでじゃない。初めて恋した時の気持はずっと忘れちゃいけないと思うの。私は結婚しても、毎日蓮に恋しているんだよ。どうしてこんなに好きなんだろうって、胸が苦しくなるんだもの」
「・・・分かった、一粒頂こう。だから香穂子、落ち着いてくれ。それに一粒食べたら、残りのトリュフはどうなるんだ?」
「一粒は蓮が食べる恋占いだけど、残りは私のお腹に収まる予定なの。へへっ、だってチョコ大好きなんだもん」
「香穂子・・・」
「冗談だってば、ね。アーモンドが入ってない他のも全部、蓮にあげるために心を込めて作ったんだもの」


一度は勢い余って立ち上がったものの、ストンと元の椅子に腰を下ろすと、肩を竦め小さく赤い舌を覗かせた。お茶を飲みながら一緒に食べようと誘えば、満面の笑みが綻び大きく頷く。釣られて緩む頬のまま、一粒を摘み口に入れると、何が入っているかどうかを知りたい香穂子は、テーブル越しに身を乗り出し真剣そのもの。甘さ控えめでビターの風味が強いチョコは、舌の上で優しく蕩けてゆく・・・まるで君の唇のように。

やがて堅い実が舌の上に現れ、こりっと堅い音が口の中で響くと、再び椅子から飛び跳ねた香穂子の表情が、嬉しそうに花開いた。テーブルを回り込み、俺の元へ駆け寄る勢いのまま抱きつきはしゃぐ笑顔が、何よりもの甘く美味な贈り物だと君は知らないだろうな。良かったね当たりだねと、揺すられる波に呑まれながら、俺よりも喜びを露わにする温もりを、優しく抱き返せることの幸せが、チョコレートのように胸を甘く溶かしてゆく。


「香穂子にもう一つ贈りたいものがあるんだ。君に受け取ってもらいたいものがある」
「なぁに、バレンタインデーの贈り物? 蓮からのメッセージカードが入っているのかな、開けても良い?」
「あぁ構わない、香穂子の予想通りにメッセージカードなんだ。ヨーロッパのバレンタインには花とメッセージカードを贈ると聞いている。その・・・今俺の目の前で読まれるのは照れ臭いが、出来れば今ここでカードを開いて欲しい。その中に、招待状が入っているはずだから」
「招待状?」


抱きつく彼女が身体を起こし、椅子の隣に佇むのを待ってから俺も立ち上がり、瞳の奥を見つめるように向かい合う。眼差しから眼差しへ、言葉にしきれない想いも伝えられるように。前のボタンは外していても、着たままだったコートのポケットから一通の封筒を出すと、きょとんと不思議そうに目を丸くする香穂子へ手渡した。早く君が好きな春・・・俺たちが初めて出会った季節が来るようにと願い、選んだメッセージカード。日本の春に咲く桜の色をした、淡いピンクの封筒を。

封をされていない封筒の中身を取り出し、カードを取り出すと、開いた中から零れ落ちたのは二枚のチケット。慌ててしゃがみ込み、拾い上げた香穂子の瞳が驚きに見開かれた。


「・・・あっ! Ballって書いてあるこのチケットはもしかして、舞踏会の!」
「ウイーンに暮らしたら、一度は舞踏会に行きたいと言っていただろう? バレンタインデーの今夜、楽友協会主催の舞踏会があるんだ。主に音楽関係の面々が集うだろうから、ワルツだけではなく演奏を聞くのも良い機会だ。香穂子、これから出かけないか?」
「夢みたい・・・! ウイーンの舞踏会に行けるんだね。でも良いのかな、私が行っても。蓮が教えてくれたから、ステップは踏めるけど、花びらみたいにくるくる上手に踊れないの。みんなダンス教室に通っているだろうから素敵だろうし、ドレスを着たら私・・・こっちのお姉さんたちに比べて胸ちっちゃいし・・・」
「香穂子は充分に魅力的だ、自分がどれだけ人を惹き付けているか、もっと自覚した方がいい。俺はきっと平静でいられないだろうから。女性は支度に時間が掛かるのに、急な誘いですまない。俺と一緒に踊ってくれるだろうか?」


真摯に見つめながら差し伸べた手に、鼓動の全てが凝縮する。コサージュと共に後夜祭のワルツに誘ったあの時の思い出や、プロポーズをした時と同じくらいの緊張などが脳裏に駆け巡り、長いようで短い一瞬が流れてゆく。止まった時を動かしたのは透明な涙を零す笑顔と、そっと重ねられ、確かな温もりで握り締める手の平の感触だった。


「ありがとう、蓮。・・・最高のバレンタインをありがとう。2月14日の夜を空けておくのは、舞踏会に行くためだったんだね。どうしよう、すごく嬉しいの。でも泣いている暇は無いよね。クローゼットからドレスとアクセサリーを選んで、シャワーを浴びて・・・急いで支度しなくちゃ。蓮もタキシードとか用意するんでしょう? ほらほら、ゆっくりしている時間はないんだからね」
「こらこら、そんなに慌てなくても大丈夫だ。会場で軽食が用意されるけれど、始まりは夜遅いからどこかで食事を取ってからの方が良さそうだな」


握り締めた俺の手ごと忙しなく引っ張りながら、リビングを駆け抜ける香穂子を宥めれば、どちらとも無く生まれる温かな感情と幸せな微笑。テーブルの上に置いた花束を手に取り、優しい口づけを落としてもう一度託せば、同じ場所へキスをして花束と想いごと受け止めてくれた。香穂子に出会わなければ、こんなにも満ち足りた気持は無かっただろう。


形が残る実用的な贈り物や、菓子や花のように形に残らない贈り物・・・もらって嬉しいものに想いを馳せながら選ぶのも良いけれど。大切な人と共に過ごす時間を大切にするのなら、いつまでも心に刻まれる思い出こそが、愛を深める日に相応しい最大級の贈り物だと、そう思わないか?  

君といれば楽しさや喜びは二人で二倍になり、寂しさや悲しみは半分になる。
だから・・・過ごす時間の中で降り積もる想いを重ね、これからも同じ時を刻んでゆこう。