Valentine's day Kiss
朝から俺も香穂子も、どこかそわそわと落ち着きがなかった。
俺が何か言おうとすれば、彼女は意味ありげな輝きをその大きな瞳に湛えて、わざと話を逸らそうとする。ふとした拍子に視線が絡めば、くすぐったい沈黙の後に互いに頬を染め合って、どちらともなく瞳を逸らすばかり。
昨日までは普通だったのに、いきなり今日になってからこの調子だ。
君は隠し事が苦手だから何か企んでいる・・・というか俺に秘密にしている事があるくらい、すぐに分かる。
まぁ、実に分かり易すぎる素直さが、また愛しいのだが。
今日は2月14日、世間ではバレンタインデーだろう。
もしかしたら・・・と心の中で淡い期待はしていたが、結婚しても香穂子からもらえるなんて、そわそわした彼女を見るまでは思ってもみなかったし。俺から言い出しだら、催促しているみたいで照れくさいじゃないか。
何を企んでいるのかが俺には分かるから、あえて知らない振りをして、可愛いその企みに合わせていた。
しかし時間が経てどもいくら待てども、君は相変わらず知らぬ振りを通すばかりで。期待と焦りと不安に潰されそうになりながら、まだ今日の時間は残っている・・・と、ちらちらと時計ばかりを気にする事しか出来ない。
もう1日が終わろうとしている・・・そんな夜の静けさと、眠りにつく為の安らぎに満ちた時間。
香穂子が後ろ手に何かを隠しながら、顔いっぱいの笑顔を浮かべて俺に尋ねてきた。
「蓮、今日は何の日でしょう?」
「今日? 確か・・・にっ・・・2月14日だったか?」
「そう、2月14日はバレンタインデー。大好きな人に、想いを込めてチョコを渡す日なんだよ!」
だから彼女が、待ち望んでいた言葉をくれた時には少し・・・いや、かなり嬉しくて。
ついに来た! そう思ったら、急に心臓が飛び跳ねて過剰なまでに反応してしまい、声まで詰まってしまった。
心が舞い上がるとは、きっとこのような気分を言うのだろうな。
チョコレートが、というよりも。
今日というこの日に、たった一人の愛しい君からの想いを受け止める事が、たまらなく嬉しいのだと思う。
「だから、はい・・・これ。蓮に受け取って欲しいな」
「俺に!? ひょっとしてバレンタインのチョコ・・・なのか?」
「そうなの、蓮の為だけのバレンタインチョコ! 本当は朝一番に渡したかったんだけど、間に合わなくて・・・遅くなってごめんね。蓮にはあげるまで秘密にしておきたかったら、お仕事行ってる間にこっそり作ってたの」
そう言って香穂子は後ろ手に隠していたものを、俺の手元に差し出した。
頬を染めてはにかみつつ、僅かに俯いて照れくささを残しながら、両手にすっぽり収まる小さな箱を、大切に包み込むようにして・・・そっと。
いつまでも初々しさは変わらないのだなと・・・彼女への愛しさは、熱さを増して高まるばかりだ。
青い紙とリボンできれいにラッピングされた箱を、香穂子の手ごと包み込んで一緒に両手で受け取った。
高鳴る鼓動が伝わってしまわないようにと、必死に心の中で平静を装いつつ、笑顔を向けてくる香穂子に微笑を向けながら。
「香穂子の手作りなのか」
「うん、ちょっと照れくさいけどね。あ・・・でも、蓮は甘いもの苦手だったっけ?」
「いや、構わない。結婚しても今までのように、君からもらえるとは思っていなかったら、とても嬉しい」
「蓮の事が大好きだよっていう想いを伝えたいのは、これからもずっと同じだよ。前よりも、もっと想いが大きくなったから、その分、たーくさんの“大好き”を詰め込んだからね」
「開けてもいいだろうか?」
嬉しそうに頷く香穂子に、自然と頬が緩んでしまう。
逸る心を抑えながら青いリボンを解き、破かないようにと注意しながら包み紙を取って、中から現れた小さな箱をそっと開けた。
手の平サイズの小さな箱に収められいてたのは、ココアパウダーのかかった丸いトリュフチョコレートが4粒。
どんな宝石よりも輝いて価値のあるこの一粒一粒に、彼女の想いがぎゅっと詰まっているのだ。
口の中に入れて溶けたら、君の想いが俺の中いっぱいに満ち広がって、溢れてしまうかもしれないな。
「甘いのが苦手な蓮にも食べやすいように、さっぱりと甘さ抑え目に作ったの。ちゃんと試食したから、味は保障済みだよ」
そう言われてさっそくチョコの一粒を手に取ろうとしたところで、ちょっと待ってと香穂子が静止の声を上げた。
「実はまだ、最後の仕上げが残っているの。だからね、食べるのはもうちょっと待って欲しいな」
「充分出来上がっているように見えるんだが、未完成なのか?」
驚きに目を見張り、手元のチョコレートをじっと見つめた。
どうみても、店に並んで売られているものと比べても遜色劣らない・・・いや、それ以上に見える。
料理に関しては良く分からないが、最後の仕上げとは何だろう。
まだ食べられないというが、いくら間に合わせるとはいえ、香穂子が俺にそのようなものを渡すとは思えない。
俺が眉を潜めば、予想通りと言わんばかりに顔を綻ばせてフフッと小さく笑い、手を後ろに組んだ。
悪戯っぽさを秘めた大きな瞳を輝かせて、そのまま覗き込むように身を乗り出してくる。
「このチョコを完成させる最後の仕上げには、蓮の協力がぜひ必要なんだけど、協力してもらえるかな?」
「俺に出来る事なら、喜んで」
「じゃぁ・・・目、閉じて」
「こう・・・か・・・」
「そう、そんな感じ。私がいいって言うまで、絶対に明けちゃ駄目だよ」
香穂子は月森の顔の前で2〜3度手を振ったり、間近で覗き込んだり。
瞳が完全に閉じられている事を確認すると、チョコの入った小箱を持つ月森の両手に、香穂子の手が包むように添えられた。一度呼吸を整えて、長い睫毛が影を落とす閉じられた双眸をじっと見つめる。
包んだ手に力を込めて、支えにするように背伸びをしながら、そっと瞳を閉じた。
月森の唇に重なる、香穂子の唇。
ほんの一瞬、触れるだけの優しいキス。
だがそれは柔らかさと熱さを伝えるには充分な程の時間で、しっかりと押し付けるように。
「・・・・・・っ!」
唇に感じた温かさと柔らかさが、香穂子の唇だと触れた瞬間に悟った。
息が、止まる。
鼓動が、音を立てて張り裂ける。
溢れ出した熱が全身を駆け巡り、熱さに焼かれて眩暈がしそうだ。
もう・・・いいよ。
やがて俺のすぐ側・・・胸の辺りから小さな声が聞こえてきて、ゆっくり瞳を明けた。
声のした胸元をふと見下ろしせば、再び光が差した視界に香穂子の姿が映る。手を伸ばせば抱き締められる近さで、頬を赤く染めつつも、俺の両手をしっかり包み込んだまま、真っ直ぐ見上げてくる大きな瞳が。
「最後の仕上げは、私のハートにリボンをつけて、蓮にプレゼント。恋のパウダーシュガーもたっぷりと、このチョコにふりかけたからね」
「・・・・・・・・っ」
「完成したから、もう食べても平気だよ」
嬉しさ満面の笑みを浮かべる香穂子を見つめて、顔を真っ赤に染めたまま、呆然と立ち竦む月森。
香穂子はそんな彼に、食べないの?と不思議そうに瞳を向けて首を捻ると、小箱の中から一粒摘み取った。
じゃぁ私が食べさせてあげるね〜と、言いいながら月森の口元に自ら作ったチョコレートを運んでいく。
はい、あ〜んして・・・・。
他の事は何も考えられなくとも、身体は自然に動いていくようで、差し出されたしなやかな指へと口を寄せる。
口の中に入れた瞬間に、舌の上でふわりと溶けていっぱいに広がるチョコレート。
確かに、甘いものが苦手な俺に合わせてくれたのかさっぱりしていて・・・でも後を引く深いコクがある。香穂子の心遣いが伺える自然に馴染める甘さがじんわり染み入って、この甘さをもっと・・・と求めたくなってしまう。
そう、まるで彼女のように。
「甘い・・・・・・」
「えっ、本当!? ちゃんと味見したのに・・・ごめんね・・・」
「いや、すまない。違うんだ、その甘さではなくて・・・・・」
思わず呟いてしまった俺の言葉に香穂子が、打たれたように目を見開き、固まって。
やがてハッと我に返ると、泣きそうに瞳を潤ませて、おろおろと慌て出した。
どうしよう・・・ごめんね、作り直すね、と何度も呟きながら。
喜びと嬉しさの絶頂から、悲しみの淵へと突き落とされたような悲しい顔をしているのに・・・・。
水持ってくる? と下から覗き込むように見上ながら、本気で俺の事を心配しているのが痛いくらいに分かる。
まだ3粒残っている小箱を、俺から取り戻そうとしている彼女の手を、掴んだ。
そっと、優しく・・・けれども離さないと力強く。
潤む瞳を真っ直ぐ射抜きながら、想いを込めて。
「チョコレート、大好きだろう? 香穂子も、俺と一緒に食べないか?」
「・・・・・・食べたくないなら、後は全部私が食べるよ・・・・・・」
「違うんだ、香穂子。とても美味しかったよ。俺でも無理なく食べれるようにと、心を配ってくれた君の想いが嬉しかった。今でも充分美味しいけれども、君と一緒に食べた方が、もっと美味しくなる筈だから」
「え・・・でも、蓮にあげたのに」
「気にしなくていいから。それにチョコレートを完成させる最後の仕上げは、まだ終わっていない」
さぁ、口を開けて・・・・。
微笑みと共に優しく語りかけると、悲しみに沈んでいた表情が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
やがて硬くつぐんでいた彼女の口が緩み、雪間から芽吹いた春のようにおずおずと、小さく開けられた。
手元の小箱からチョコレートを一粒取り出すと、香穂子の口へと運んでいく。けれども口へと入れる直前で動きを止め、自らの口の中へと放り込んだ。
そんな俺を見て香穂子が、一体どういうことなのかと驚きに目を見張る。
何か言うよりも早く彼女の腰を、箱を持っていない方の片手で捕らえて強く引き寄せる。
視線は熱く絡めたままで、開けたままの口を塞ぐように、自らの唇を重ねた。
深く絡み合い、重なる舌の中で、チョコレートが瞬く間に溶けてゆく。
互いの唾液と絡み合うそれはまるで、溶け合う二人の身体や熱い想いのように一つになって・・・・。
飲み下せばチョコレートの後味のように、もっと君が欲しいと求めてしまう。
「本当だ・・・。すごく・・・甘い・・・・・・・」
口付けの合間に、半ば意識を飛ばしかけている潤んだ瞳を向けながら、吐息に乗せて囁いた。
崩れ落ちないようにと、背中に強く縋りつきながら。
そう、甘いんだ・・・・。
俺が「甘い・・・」と言った理由が、どうやら君にも分かってくれたようだな。
耳朶にかかる熱さが、そして胸に湧いた激しく高まる想いが甘さへと変わって、心と身体に染み込んでゆく。
バレンタインに交し合うキスは、どこか大人なチョコレートの味。
俺の中で広がるどこまでも甘い君の想いに、身も心も溶かされながら・・・・・。
手元に残ったチョコレートは、あと2粒。
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