通信終了後の携帯にキス

歴史を色濃く残す北ヨーロッパの都市。数年に一度行なわれるという大きな演奏会を終えて、宿泊先のホテルに戻った頃には、夜も更け日付が変わろうとしていた。シャワーを浴び、倒れ込むようにベッドへ身を沈めれば、灯りを消したままの室内に満ちる深く穏やかな闇が俺を包む。
息苦しさに寝返りを打てば、耳元でベットのスプリングがキチリと音を立てた。


旅先だから当然だが、扉を開けても誰もいない部屋は見慣れていた筈なのに、どこか違和感を覚えてしまう。
お帰りなさいと笑みを浮かべて駆け寄る香穂子の出迎えが無いだけで、身体に残る疲労感さえ違うようだ。
自分の中で彼女はそれ程までに大きな存在で、欠かせない一部になっているのだと思う。






ヴァイオリニストとしての道と香穂子と。ずっと望んでいた二つを手に入れたはずなのだが、現実はなかなかに厳しく険しい。日本での結婚式と短い休暇を終え、新たな生活を始めたのはつい数週間前なのに。仕事が始まればさっそく君と遠く離れ離れだ。新婚さん特典で、家から通えるところのコンサートなら良かったのにねと。冗談交じりに見送ってくれた笑顔が、瞼の裏に焼きついて離れない。そんな特典があったら、ぜひ欲しいものだ。


生活の拠点にしているヨーロッパ各地だけでなく、日本や世界中に赴き俺の音色を届ける・・・。一度遠くへ出かけてしまうと、数週間から長くて月単位で家に戻れない。留学中は四年間も互いに海を隔てた時を乗り越えたのだから、数週間ならまだ短い方だと思う。だが君が側にいることや腕の中の温もりがどれほど幸せかを、知ってしまったらから。一日たりとも会えないのは今の俺にとって何よりも辛い。


いつもなら愛しい君を腕に抱き、温もりに包まれながら眠るのに、今は俺一人だけ。一緒に暮らし始めてからは隣を見ればすぐ、あどけない君の寝顔があったから、一人寝の寂しさなどは暫らく忘れていた。
自宅にあるベッドよりははるかに小さい一人用なのに、横になったまま眺める淵はこんなにも遠かったのだなと思う。どこまでも広がる真っ白いシーツが闇に浮かび、何も無い雪野原にポンと一人放り出された気分になる。

寒い・・・寂しいと軋む心。以前は何度も感じた想いが、久しぶりに込み上げてくるようだ。
身体は休息を求めているのに、なぜか頭が冴えて眠れない。


ここにいないと分かっていても、一人留守番をしてくれている君を想い、隣に手を伸ばさずにいられなくて。
冷たいシーツに触れる手の平を、求めるようにゆっくりと彷徨わせた。香穂子はもう、休んでいるだろうか?
心地良い安らぎと眠りをもたらす筈の寝室が、こんなにも寒く心を締め付ける。





枕元においてあった携帯電話に手を伸ばし、香穂子からもらったメールを一件ずつ順番に、ディスプレイへ表示してゆく。俺に送ってくれた言葉や写真たちは、距離を越えて届く君からの贈り物。心配してくれたり励ましてくれたり、飾らない心のままが伝わってくるんだ。何度読み返しても君らしさに笑顔が浮かび、心が温かくなる。


香穂子の元気は確かに受け取った、ありがとう・・・俺も頑張らなくてはいけないな。


横を向いていた身体を仰向けに寝返りをうち、広い天井を見上げたまま、光るディスプレイを閉じて折り畳む。
ゆるゆると重たい腕を持ち上げ、両手で包んだ携帯電話ごと額に押し当てた。君を思い浮かべながら、言葉や想いを俺の中へ刻み閉じ込めるように・・・瞳を閉じて静かに呼吸を繰り返してゆく。


だが落ち着くどころか、香穂子に会いたい気持は余計に積もるばかりだ。携帯電話を握り締めたまま身体を起こし、ベッドを抜け出すと窓辺に歩み寄った。閉ざした重いカーテンを開けると、広く大きな窓から差し込む優しい光りに一瞬凝らす。目が慣れた頃に見えたのは、藍色の夜空に浮かぶ、黄色の光りを放つ丸い月だった。


綺麗だな・・・太陽と見まごう大きさと明るさから察すると、今夜は満月だろうか。
ネオンサインや街頭も無く、歴史のままの景色が広がる街並みは、微かな月明かりに照らされているのみ。
その殆どを闇の中に溶け込ませていた。満天の星空も月の輝きにどこか恥じらい、月の周囲では姿を隠しているように思える。


「・・・・・・?」


今、何か聞こえた?  
月の囁きかと耳を澄ませば、寂しいよ・・・と心に直接届く聞き覚えのある声。月ではなく、香穂子のものだ。



今この瞬間君も俺と同じように月を眺め、寂しさや寒さを抱え、一人自分を抱き締めているのかも知れない。
肩越しに振り返り、月明かりの絨毯に照らされたベッドサイドの時計を見れば、夜の一時を回っていた。
同じヨーロッパとはいえ一時間の時差があるから、向こうは0時を回った頃だろう。

もう寝ているかも知れない、起こしてしまったら迷惑だと頭では分かっているが。
せめて君の声が聞きたいと、そう思い立ったらもう止められなかった。





『もしもし!? 蓮なの?』
「・・・香穂子、俺だ。夜遅くにすまない、寝ていただろうか? その・・・用事というじゃないんだが、君の声が聞きたくなって。変わりはないか?」


ディスプレイには俺からだと表示されるから、すぐに分かったのだろう。嬉しさと興奮を押さえ切れない様子で、電話の向こうの君がはしゃいでいるのが見える。


『うん、元気だよ。変わった事って言ったら、お庭の花が咲いたの! 可愛いんだよ〜蓮が帰ってくるまで残っているといいんだけど。後で携帯から写真を送るね。ねっねっ、コンサートどうだった? 明日もあるんでしょう?』
「あぁ、良い演奏が出来たと思う。聴衆の反応や温度が熱いんだ、引き手と聞き手が一つになる感じがした。今度は香穂子も行けるように手配しよう。俺が君と一緒にいたいんだ」
『本当!? 私も聞きたかったの、蓮の演奏。やっぱり生でいろんな演奏を聞くのは、勉強になるって思うの』
「香穂子は、眠れなかったのか・・・?」
『へへっ、蓮は鋭いね。実は眠れなくて起きてたの。でも心配しないで、その・・・ちょっとお昼寝しちゃったからなの。電話しようかなって悩んだんだけど夜遅いし、コンサートの後で疲れているだろうから、明日にしようって思ってた。ほら、モーニングコールも素敵でしょう? そうしたら蓮から電話がかかってきたんだよ、凄く嬉しい!』


演奏も聞きたいけど、綺麗な街も散歩したいねと。想いを巡らせはしゃぐ君の笑顔が、満月に重なって見える。耳に聞こえる優しい声や、電話の向こうで聞こえる吐息や息遣い・・・香穂子の全てを五感で聞き取ろう、気配を感じ取ろうとして。窓の外を眺めていた視線は、いつの間にか窓辺に肩を預けて寄り掛かり、手に持つ携帯電話へ注がれていた。


『眠れなかったから、月を見ていたんだよ。大っきな満月が凄く綺麗なの、蓮のいる街からも見えるかな?』
「あぁ、見えている。俺もちょうど月を見上げていたんだ・・・君と同じ月を。月の囁きに耳を澄ませていたら寂しいと・・・君の声が聞こえてきた。すまないな、せっかく一緒に暮らし始めたばかりなのに一人にさせてしまって」
「や、やだもう〜突然改まってどうしたの? だってお仕事じゃない・・・。世界中のたくさんの人が、蓮の音楽を待っているのは私も嬉しいもの。それにね、蓮が携帯から旅先の写真とかメールとか、こうして電話で元気をくれるから・・・私も頑張れるんだよ。ふふっ、国際通話の出来る携帯電話に万歳だね』
「香穂子、ありがとう」
『・・・・・っ』


優しく語りかけると、息を詰めて驚く気配が伝わってくる。一瞬の沈黙の後、微かに鼻を啜る声が聞こえてきたのは、ひょっとして泣いているのだろうか。泣かせたくは無いのに、声を殺そうと必死に堪えているのが胸を締め詰める。どんな時でも周りを気遣い、明るく元気に振舞う君が人知れず抱えていた想い・・・。
今すぐに抱き締められないのがもどかしく、伸ばした腕を引き戻すと拳を強く握り締めた。


「香穂子?」
『・・・っ私からも、蓮にありがとう。本当はね、広いベッドに毎日一人で寝てたら寂しくて、いつも蓮が寝ている場所で枕も借りていたの。寒くて寝られなくて、夜なんか来なきゃいいのにってちょっとだけ思ってた。けど窓を見たら、大きな月が優しく微笑んで語りかけてくれたの・・・大丈夫、側にいるよって。凛と輝く月、温かくて優しい光りのお月様って蓮みたいだよね』
「良かった、俺の声が届いたんだな」
『寂しいのは私だけじゃないんだよね。ずっと空を眺めて月とお話してたら、黄色の光りが私を包んで心を静めてくれたみたい。蓮から電話がかかってきたのは、そんな時だったの。偶然にビックリしちゃった』
「いや、偶然なんかじゃない。君の心の温もりを、月明かりが伝えてくれたんだ。君が俺に語りかけ、俺の声が君に届いた。夜空の元で繋がっているというのは、嬉しいな」


一番寂しいのは自分だと、そう思っていた俺たちだが本当は違っていた。俺も香穂子も・・・いや、きっと月を見上げてている全ての人が、同じ想いを抱えているのだろう。こうして君の声を聞いて話しているだけで、元気になるのが分かる。携帯電話を握る手の平も押し当てた耳も、先ほどまでの俺とは別物だ。

耳をくすぐる弾む吐息で分かる、君も笑顔でいる事を-----。





通話をしたままゆっくりベッドへ歩み寄り、音を立てないよう静かに腰を下ろした。このベッドからも、窓の外に輝く大きな月が見えるんだな。では今夜は、カーテンを開け放ったまま眠るとしようか・・・君の声を聞きながら。


『明日もう一日コンサートを終えたらその翌日、明後日には帰ってくるんでしょう?』
「予定では午後の飛行機なんだが、午前中の便に変更できそうなんだ。上手くいけば早く香穂子の元へ帰れると思う、もう少し待っていて欲しい。お土産は何がいい?」
『早く蓮に会えるのは凄く嬉しいけど、無理しないで気をつけて帰ってきてね。お土産か〜特に欲しいものは無いんだけど・・・・あっ! 一つだけあったよ。ギューって抱き締めて欲しいな、特大のただいまのキスと一緒に』
「では留守だった三週間分まとめて、たっぷり君へ贈ろう」
『楽しみに待ってるね。あとおねだりついでに、もう一ついいかな?』
「何だ?」
『蓮から、お休みなさいのキスが欲しいの』


甘く囁く吐息が穏やかな夜の闇へ溶けてゆく・・・心の中へ染み込む温かさとなって。
口元を緩めながら携帯電話の通話口に唇を寄せ、チュッと音を鳴らしてみた。
今はこれが精一杯だが、君への想いと心の全てを込めて贈ろう。


「お休み、香穂子」


再び耳の戻してそう微笑むと、同じようにチュッというキスの音が聞こえてきた。
おやすみなさい・・・安らぎの眠りへ誘う、ちょっぴりはにかんだ笑顔と共に。






一日の終わりには君と話したい。
一つシーツに包まり、ベッドの中で額を寄せ合いながら。互いに離れている時には、電話で声を交わして。
今日一日にあった事を話して眠りにつけば、きっと素敵な事に変わるから。
名残惜しさと離れがたさを振り切り通信を終了させると、開いたディスプレイを折り畳んだ。


手の平に感じる携帯電話の熱は、君がくれた想いであり俺の心。
おやすみ・・・香穂子ともう一度語りかけ、熱さを宿す携帯電話にそっとキスをした。
君を包む優しい夜の眠り共に、この口付けも届くけばいいと、窓の外で微笑む月に願いながら。