大切なものに寄せるメロディー

放課後の練習室に向かう足取りは、いつも軽い。きっと弾む心が、身体全体に伝わるからなのだろう。少し遠い普通科校舎にいる香穂子は俺よりも後に来る事が多いけれども、終わる時間は一緒な筈なのにその差も極僅かなものだ。急がなくてもいいから・・・そう言っても君は待ちきれないのか息を弾ませ駆け込んでくる。
一秒でも早く会いたかったんだもの・・・と上気してほんのり赤く染まった頬を嬉しそうに綻ばせながら。
そんな彼女の気持が嬉しくて、俺もつい急いでしまうのかも知れない。


扉にはめ込まれたガラス窓から中を覗けは、どうやら先に来ていた香穂子がヴァイオリンを奏でている姿が見えた。ノックをして重い扉をゆっくり押し開き、邪魔をしないように静かに入ると俺に気付いて弓を止め、ふわりと笑顔を向けてくる。



「蓮くん!」
「香穂子、今日は早かったんだな」
「ホームルームが早く終わったの。早く放課後にならないかな〜って、ずっと朝から待ち遠しかったから、嬉しくて走ってきちゃった。そう言えばクラスの友達がね、私はお昼休みと放課後になると急に元気になるって・・・分かりやすいねって笑ってたよ。いってらっしゃい〜って、皆に手まで振られて見送られちゃった」
「そ、そうか・・・・・・・・」


でもちょっと恥ずかしかったとペロリと舌を出し、小さく肩を竦めてはにかむ姿と真っ直ぐ向けられる想いに愛しさが込み上げる。だが教室での様子が手に取るように映像となって浮かび上がり、俺も何とも言えない照れくささを感じてしまう・・・。言葉を返せずにいるそんな俺に、嬉しいんだもの仕方ないじゃない・・・ねぇ?と愛らしく小首を傾げて同意を求めてくる彼女に、更に困ってしまうのだが・・・。

待ち遠しいのは俺も同じだからと、見上げる大きな瞳に微笑を注いだ。




グランドピアノの近く、彼女の荷物の隣へ鞄とヴァイオリンケースを床の上に置き、楽器を用意しようとケースを開けかけたところ、待ってと声をかけられた。屈めた身体を起こせば、何時の間に移動したのかピアノの側にいたはずなのに窓辺に佇んでいて。柔らかな午後の日差しが心地良く差し込む窓辺に置かれた椅子を、蓮くんの特等席だよと楽器を持ったまま指し示す。


「ヴァイオリン出す前に、ここ来て座って欲しいな」
「一体何があるんだ?」
「ふふっ・・・秘密!」


悪戯・・・というよりも何か楽しい企みを考えているらしい彼女は、堪えきれずに表情いっぱいにキラキラの輝きを溢れさせており、俺の胸にも心躍る微かな予感を与えてくれる。椅子も恐らく彼女が場所を選んで用意してくれたのだろう。椅子に歩み寄れば、さぁどうぞと弓を持った腕でゆっくり大きく空を描くように俺を誘う。


「香穂子が演奏を披露してくれるのか?」
「うん、蓮くんはお客さんなの。日野香穂子のリサイタルへようこそ!」


どんな立派なホールのロイヤルシートにも負けない俺だけの特等席に座り、胸を張って陽射しのスポットライトを浴びる彼女に声援の拍手を贈れば、照れくさそうに頬を染めながらも微笑を向けてくる。俺から少し離れた正面に立ち深く一礼すると楽器を構え、弓が静かに下ろされた。



・・・・・・この曲は・・・Happy Birthday?


一瞬耳を疑いもう一度音色に傾ければ、確かに耳に馴染みのあるメロディーが聞こえてくる。
Happy Birthday to you〜で始まる誕生日でよく歌われることの多い、あの曲だった。


何故!?と驚きに目を見開いて視線で問うように彼女を見れば、訳が分からず動揺している俺を、予想通りだと言わんばかりに、演奏しながらにこにこ微笑んで受け止めていた。まるで彼女の声そのもののようにヴァイオリンと一体になった温かい音色が、悪戯が成功したような嬉しさと向けられる深い慈しみを運び、直接俺の心に優しく語りかけてくるのだ。俺を見つめたまま明るく楽しそうに・・・泣きたくなるような温かさと祝福を溢れさせながら、言葉の代わりに弓と笑顔と・・・身体全体を使って。


まるで奏でられる音の一つ一つに翼が生えて、自由に羽ばたいているように思える。香穂子の手によって生れた彼らが彼女の周りを慕うように集い飛び回っており、そして俺へも向かってきた音色たちが、羽ばたきながら包み取り囲んでいるのが分かる。






やがて余韻に包まれる中ゆっくりと弓が空に弧を描くと、静かに構えた楽器を下ろした。
雲間に差し込む光芒のように光を湛えた大きな瞳が、距離を感じさせない程に真っ直ぐ俺を照らしている。


「蓮くん、お誕生日おめでとう!」
「誕生日・・・俺の? そうか、今日は4月24日!? すっかり忘れていた・・・」
「蓮くん気にしなさそうだし、多分そうだろうな〜って思ってた。でも大丈夫、私がちゃんと覚えているからね。私なんか1ヶ月以上も前から楽しみで待ち遠しくて、ソワソワしてたんだよ」
「まるで君の誕生日みたいだな」
「そうだね、蓮くんの誕生日は私の誕生日と同じくらいに大切な日だもん。去年はまだコンクール前でお互い出会っていなかったでしょう? だから、今年は絶対にお祝いしたかったの」


ふふっ・・・と嬉しそうに頬を緩ませながら小さく笑うと、舞い踊るようにくるりと後ろを向き、蓋の閉まったグランドピアノに駆け寄って楽器を置く。ひらりとスカートの裾を翻し、軽やかな足取りで羽ばたき戻ってきた彼女は、俺の両手をそっと掴んで包み込むと、自らの胸元へと引寄せた。


「・・・・・・っ!」


制服越しに伝わる柔らかな感触と、上から押さえるように重ねられる手の温かさ・・・。
何時になく大胆な行動に戸惑い顔だけでなく耳にまで熱を感じてしまい、思わず手を引き離そうとしたが、しかし向けられる穏やかな微笑みはそのままで、意思を持った強い力が離れようとする俺の手を引き留める。


「今日はね、大切な蓮くんの誕生日。蓮くんが生まれてきてくれなかったら、こうして出会う事も好きになる事も出来なかった。いつも私を幸せいっぱいにしれくれるあなたに、生まれてきてくれてありがとうって、心の底から思う。蓮くんを生んで、こんなに素敵な人に育ててくれた御両親にも、感謝したい。だからね、大好きな人がこの世に生まれた日・・・蓮くんの誕生日は、私にとっても凄く大切な日なんだよ」



香穂子の高鳴る胸の熱い鼓動が、手の平を通して伝わってくる。
生きているのだと、ここにいるのだという証が・・・。
それを感じている俺も、今生きてここにいるのだと言うことを・・・。



「シューベルト、メンデルスゾーン、パガニーニ・・・誕生日のお祝いに何を演奏しようか凄く迷ったの。シンプルな曲だけど・・・ごめんね。でも格好つけたものじゃなくて、私らしく飾らない心のままで、胸に溢れる想いと言葉を真っ直ぐに伝えたかったら」
「ありがとう、香穂子・・・。今までの中で一番最高の誕生日プレゼントだ」
「でもね、実はまだあるんだよ。これは私に音楽の楽しさと喜びを教えてくれた蓮くんに、音楽の贈り物なの」
「もう1つは?」
「もう1つはね・・・恋する気持と優しさを教えてくれた大好きな蓮くんに、私から想いを込めたプレゼント!」


ちょっと待っててね、用意をするから・・・そう言うと胸元に押し当てていた手を離し、俺の手を脚の上にそっと戻した。制服のポケットから一本の金色のリボンを取り出すと、髪の一房を摘み取って器用にリボンを結び始め、ちょうど顎の脇辺りに程良い大きさの蝶結びが作られる。赤い髪に栄える金色のリボンがまるで髪に寄り添う蝶のようで、髪が揺れるたびに楽しげな様子で舞っているように見える。


「蓮くん、お待たせ。用意できたよ!」
「そのリボンは?」
「えっとね・・・今日は、特別な日だから・・・」
「特別? 俺の誕生日だからなのか?」
「う〜ん・・・ま、まぁ・・・そんなところかな・・・」


僅かに頬と目元を赤く染めた香穂子は、小さく俯きながらごにょごにょと口篭ってゆき、恥ずかしさを紛らわすためのか、指先で髪に結んだリボンをくるくるといじっている。一体何が彼女を照れさせるのかさっぱり見当がつかないが、良く似合っているよ・・・と微笑を乗せて思ったままの感想を述べれば、ちらりと視線を上げて絡んだ瞳が嬉しそうに緩み笑顔を見せた。


「じゃぁ改めて、蓮くんお誕生日おめでとう」
「ありがとう、香穂子」
「2つ目のプレゼントを渡すね、ちょっと大きいけど受け取ってくれると嬉しいな」


後ろ手に組みながらそう言うと、身を屈めてくる彼女顔がゆっくり近づいてくる。大きな瞳が俺の視界から溢れそうになるとスッと閉じられ・・・そう思った瞬間、唇にふわりと柔らかいものが重なった。


直ぐには離れず、いつもより長めに俺の唇に触れている柔らかくて温かいもの・・・それは香穂子が贈るキス。
一見普段と変わりないように見えるそれは、紛れもなく誕生日・・・特別な日に贈られるもの。そう教えてくれるのは、彼女の赤い髪に結ばれた金色のリボンだった。込められた意味は単なる髪の飾りではなく、プレゼントを包むラッピングのリボンと同じなのだと・・・彼女自身がプレゼントなのだ。


だからさっき、ちょっと大きいけれどもと言ったのだな。
いかにも彼女らしい・・・と、受け止める唇で笑みを返した。






離れた唇が名残惜しさを感じて、温もりと柔らかさを求めるように再び引き合おうとしているのが分かる。
君も同じなのだろうかと思うのは、甘さを含む瞳の中に切なさを僅かに感じるからなのかも知れない。

手を伸ばして立ち竦んだままでいる彼女の腕を取り、手繰るように腰を引寄せると最初は困ったように、どうしても?と縋る視線を向けていたが、やがて諦めたのか両肩に手を添えながら、椅子に座ったままでいる俺の脚の上に、ちょこんと横座りをしてくる。


「ありがとう・・・君からの贈り物、確かに受け取った。包みを解いても良いだろうか?」
「う・・・うん・・・・・・でも、ここじゃ駄目だよ。今はリボンだけなら・・・」
「では貰ったプレゼントは、家に帰ってからゆっくり見ることにしよう・・・楽しみにしている」



後で俺の家に・・・と暗にそう言えば、膝の上に座る香穂子は顔や耳だけでなく首筋まで今にも火を噴出しそうな程真っ赤に染め、恥ずかしさに耐えられなくなったのか、俺の首にしなやかな腕を回すときゅっと強くしがみ付いてくる。

目の前でふわりと髪に揺れるリボンの裾を唇で挟み、ゆっくり引っ張れば、しゅるりと音を発てて解けてゆき。
身体の隙間にはらりと落ちたリボンが、互いの心を繋く糸のように煌いていた。


「香穂子・・・」


背を優しく撫でながら耳元で囁きかければ、すがり付いて首元に埋められた顔がおずおずと上げられて。
緩めた瞳で見つめながら、まだほんのり染まる頬を手で包み、引寄せるように俺からも唇を寄せていく。
俺が生まれた今日というこの日と、誰よりも大切な君へ、俺からも“ありがとう”を込めて贈りたいから。





誕生日おめでとう・・・その一言に、一体どれだけ深い意味と想いが込められているのだろうか。
香穂子の唇からから注がれた祝福の言葉が水面に広がる波紋のように俺の中を温かく満たしてゆき、海よりも深く宙よりも広い想いの在り処を伝えてくれる。


彼女の優しさや想いを初めて受け止めた時、それまで好きになれなかった自分が好きになれたように思う。
俺に伝え教えてれたように、俺がここにいるから君の事を大切に・・・大好きだと思う事も出来るんだ。
生まれてきて良かったと・・・ここにいて良かったと・・・心の底からそう思う。



大好きな君と、君の事が大好きな俺。
君が俺にくれた二つの宝物を、これからもずっと大切にしよう・・・もっともっと大きく育てながら。
だから、俺も心の中でそっと呟いた。

“Happy Birthday to me.”