○○当番



リビングのテーブルを飾るのは真っ白い三段重ねのアフタヌーンティートレイ。一番下にスコーン、真ん中には一口サイズのフィンガーサンドイッチ、一番上には手作りのクッキーが乗っていた。どれも香穂子の手作りで、クッキーとスコーンからは食欲を誘うバターの香りと、焼きたての温かさがほんのり伝わってくる。たまには気分を変えてお茶を楽しもうという香穂子の試みで、今日のティータイムはアフタヌーンティーだった。

君の優しさと想いが調味料となって溶けこんでいるから、きっと美味しいのだろうな。見つめるだけで緩んでしまう俺の頬は、一口食べたらきっとバターと一緒に溶けてしまうのだろう・・・君の中へ。


本当は柔らかい芝生を足下に感じながら、ゆったりと景色に溶けこむウッドチェアーでゆっくり寛ぎたかったのだと・・・そう言って残念そうに彼女が広げて見せた雑誌には、北イングランドのヨークシャー地方にある古城ホテル。
カントリーサイドの緑や花に囲まれたイングリッシュガーデンで味わう、本格的なアフタヌーンティーの光景に想いを馳せながら、夢見がちに目を輝かせていた。


隣に並んで座ったソファーに寄り添う君が、俺にも雑誌が見えるようにと身体を寄せて半分膝に乗せてくる。顔を寄せて一緒に覗き込めば互いの頬と頬が触れ合い、くすぐったさにどちらともなく微笑みが浮かんだ。寄りかかる微かな重みと触れ合う柔らかさが心地良い・・・。

温もりを感じさせる丸い木製のテーブルにかけられた真っ白いクロスに、見るからに英国紳士なバトラーによって用意されたお揃いの白いティーセットたち。白い小皿に浮かぶピンク色の花が爽やかな風に揺られているようだ。だから俺たちのテーブルにも、花が飾られてあるんだな。いつもはクッキーの取り皿に使う小さな器には、庭で積んだピンク色のデイジーの花が微笑みを浮かべている。癒しを取り入れながらお茶のひとときを楽しもうという、優しい気遣いが伝わってくるようだ。


遠くフェンスの向こうには羊たちがゆったりと草を食んでいて、花や羊を眺めながらお茶を飲みたい、可愛いねと頬を綻ばす君の笑顔の方が可愛いと俺は想うのだが。慌ただしい街中では得られない穏やかさも、自然に囲まれたこの場所なら味わうことが出来るのだろうな。いや、君と俺がいるこのリビングも、雑誌の写真にある自然の光景に負けない穏やかさに包まれていると思う。微笑み合えば、いつでもそこには心と身体がが伸び広がる日だまりが生まれるから。


だが、一つ聞いても良いだろうか。
君と一緒にお茶を飲むのに、なぜ俺は演奏会用の黒いスーツに着替えなくていけなかったんだ? 



「・・・ひつじ?」
「違うよ蓮ってば、良く聞いて。もこもこの白い羊さんじゃなくて、し・つ・じ! バトラーの執事さんだよ」
「すまない、似ているから聞き間違えた」


ついさっきまで羊の話をしていたのは君なんだが・・・という一言は苦笑と一緒に喉元で飲み込んだ。

見ていて飽きない表情のように話題もくるくる変わるから、追いついたと思っても、身軽にポンと飛んで行ってしまうんだ。時に俺は振り回されてしまうのだがそれは彼女の魅力でもあり、俺にとっても心弾むひとときである事に代わりはない。

ソファに寄り添い座る香穂子が、鼻先が触れる程近くにぐっと身を乗り出し、違うよとそう言いながらぷうっと頬を膨らませた。口をはっきり大きく開けて強調しながら俺の脚をポスポスと叩き、手に持っていた雑誌を目の前に広げて執事を指で指し示す。勢いに押されて思わず背を反らし、後ろ手に支えながら可愛らしく迫り睨む君を受け止めて、すまないと真摯に謝るが、拗ねた君も可愛いと心の中で思うのは惚れた欲目だろうか。


自室で練習をしていた俺の元へ、お茶の用意ができたと告げに来た嬉しそうな香穂子は、朝から変わりなくパタパタと忙しなく動き回っていた。出会った頃から君は、軽やかに走り回っている印象が強いなと、そう想いながら頑張っている君に少し休んでもらいたくて。今日は俺がお茶を入れようと、そう言ったんだ。

嬉しそうにぱっと目を輝かせてクローゼットに駆け寄ると、これとこれを来てリビングに降りてきて欲しいのだと。ベッドの上に広げられたのはコンサート用の黒いスーツ。白いシャツに黒いベストとパンツにタイを締めて・・・しかもジャケットは脱いでベスト姿で着てねというドレスコードの指定付き。だがリビングにやって来れば、君はいつもと変わらず普段着なのに。眉を寄せる俺に手を前に組み合わせながら、うっとり蕩ける眼差しを向けていたのだから。


「えっとね、つまりは楽しく美味しいアフタヌーンティーを過ごすための役割分担だよ。私がお茶とお菓子を用意する係で、蓮が紅茶を入れるの・・・つまり執事さん。蓮の入れてくれた紅茶はとっても美味しいから、私大好き!」
「香穂子に美味しいと言ってもらえて、俺も嬉しい。だが俺が紅茶を入れるのと執事はどう関係があるんだ?」
「あのね、女の子のロマンを叶えて欲しいの」
「ロマン・・・?」
「ほら、男の人のロマンってメイドさんなんでしょう? この間、高校の文化祭で着たメイドさんの服が出てきた時に、蓮に着て見せたら可愛いって喜んでくれたじゃない。女の子にも、憧れの夢というかロマンがあるんだよ」
「・・・・・・・・っ!」
「いつもと違う自分になれるのは楽しいし、それに・・・ね。ほら、その後もお互い夢中で熱く蕩けちゃったでしょう?」


うっすら頬を赤く染めながらもじもじと両手を弄り、上目遣いにそっと俺を見つめてきた。毎日共に過ごしていても、初めて味わったかのように鼓動が高鳴り、可愛さに何度も君に魅せられてしまう。その反面心の奥を見透かされたようで、全身の血が一気に沸き上がり、駆け巡っているのを悟られないように必死に押さえているんだ。俺は今、真っ赤な顔をしているのかそれとも驚きに青ざめているのか・・・どちらなのだろう。

黒いパフスリーブのドレスにフリルのついた白いエプロンと揃いのカチューシャ。ふわりと広がるミニスカートから、惜しげもなく晒されるすらりと伸びた脚。メイド服は男のロマンだと人は言う。正直理解に苦しむ部分があったが、香穂子が身にまとった姿を見たとき、確かにそうかも知れないと改めて思った。荷物を整理していたら懐かしい物が出てきたと、高校の文化祭で使ったというメイド服を来て、嬉しそうに俺へ披露したのはつい先日の話だ。

摘んだ裾を広げながらくるりと回り、似合う?と愛らしく小首を傾けた君は結婚した今でも変わらず少女のようで。時間も呼吸も止まる甘い痺れに浮かされながら理性は崩れ、深く腕の中へ抱き締めてしまったのだが・・・。
二人だけの空間で傍にいてくれるだけでなく、かいがいしく世話を焼かれたら、俺は平静でいられないだろう。

いや、今だって・・・思う返しただけでも甘く痺れて目眩がしそうだ。


「それをロマンと言うのかは分からないが、確かに可愛いと・・・思う、ただし香穂子限定で。俺の心と視線は、紡ぐ音色と同じようにいつでも君へと向かっているから。俺を捕らえることが出来るのは、君だけだ」
「蓮にそう言ってもらえると嬉しいな。じゃぁ今度から、お茶の時間の時にはメイドさんに着替えようかな。でね、蓮が思いっきり甘えて良い時間なの」
「いや・・・それは・・・その、まさか同じように女性のロマンが執事だと、香穂子はそう言いたいのだろうか」
「ピンポーン、蓮の大正解! 大当たりの商品はホッペにチュウだよ」


満面の笑顔で立てた人差し指を、ピンポーンと楽しげな声を付けながら、見えないチャイムを押した。座ったままの俺にピョンと飛びつき、甘い吐息と一緒に首に絡むしなやかな腕。背伸びをして微笑みを浮かべたままの唇が
ふわりと頬に触れた。嬉しそうにしがみつく君を抱き締め返せば、嬉しそうに腕の中からちょこんと振り仰いだ。
もう既に、俺の理性は風前の灯火だ。こんなにも本能のままに君を求めているのに、ストイックさが要求される執事役が出来るのだろうか・・・。


「メイドさんと同じように執事さんが良いなって思うの。傅かれたいっていうか、お世話されるってどんな気分なんだろうって思うから。蓮が入れてくれた紅茶が飲みたいっていうのもあるんだけど本当はね、蓮のベスト姿が大好きなの。執事さんには、白いシャツとタイにベストは欠かせないでしょう?」
「だから着替えて欲しいと言っていたのか。確かに形から入るのは大切だ、服装違えば気持ちも変わる」 
「真摯な蓮がやったら素敵だろうなって想い描いていたとおりだったから、今すごくドキドキしているんだよ。それにこの紅茶は、蓮がコンサートのお土産に買ってきたくれた美味しいお茶だから特別な時に飲もうって決めてたの。執事さんになった蓮が入れてくれたら・・・うぅん、蓮は蓮のままでいいんだけど、もっと美味しくなると思うの。きっとね、雑誌の中にいるバトラーさんも、降参の白旗上げて誌面から消えちゃうかも」


執事・・・か。期待を込めた眼差しに、何か思惑がある予感はしていたのだが・・・その通りだったな。
嫌だと言っても、彼女の中では既に決定事項なのだろう。澄んだ大きな眼差しが、雑誌の写真に大きく映る金髪の英国真摯な執事ではなく、小さく映る羊やテーセットへ純粋に注がれている事に安心していたのに。

誌面の中にいる見知らぬ人物といえども、彼女の興味を捕らえているのは落ち着かない。君の前には俺がいる・・・というライバル心と僅かな嫉妬が、心に火を付けた。ならば今度は俺が君の笑顔の為に、音楽と同じく最高の一杯を君に捧げよう。


「香穂子、俺は何をすれば良いんだ?」
「ん〜とね、いつもと同じようにティーカップへお茶を注いでくれるだけでいいんだけど。あとね、いらっしゃいませお嬢様って言って欲しいな。蓮と結婚しているから本当は奥様だけど、細かいことはツッコミ無しね」
「・・・・・いらっしゃいませ、お嬢様。これで良いのか?・・・何か変な感じだな、くすぐったくて落ち着かない」
「そう、それなの〜! どうしよう、素敵すぎて心臓が壊れちゃうよ」


手の平で胸を押さえながら、満面の笑みでジタバタと脚を踏みならしていた香穂子が、はっと我に返って表情を引き締めた。押さえきれない嬉しさが紅潮する頬を緩ませているが、そわそわと身動いでソファーに座り直すと背筋を伸ばし、スカートの裾も整え直していた。脚の上にちょこんと両手を添えて、貴婦人のようにすます君。無邪気な元気さを隠すように、優雅さとおしとやかさを装おうとする健気な姿が、微笑ましい。

いつもと違う君の雰囲気に新鮮みを覚え、ふとした仕草で指先が触れる度に火が付いたような熱さを覚えてしまう。
視線が絡んだ香穂子も恥ずかしそうに頬を染めて、膝の上に置いた手をきゅっと握り合わせているから、きっと高鳴る鼓動は二つ分なのかも知れないな。


たまには良いかも知れない・・・では、今日は君のためだけのバトラーになろうか。
座ったソファーから立ち上がりテーブルの傍らに片膝を付くと、ティーポットを手に取って真っ白いティーカップに注げば、夕陽のように煌めきを放つ琥珀色の液体が揺れている。温かい湯気と香りを吸い込めば、自然に囲まれているような安らぎと、君に抱き締められているような温もりが満ち溢れるんだ。


ここで香穂子なら、あれをやるのだろうな・・・ならな俺もやってみようか。
カップを手渡しかけた所で一度手を止め引き戻すと、口を寄せた琥珀色へそっと吐息を吹きかけてゆく。
君の肌に触れるように甘く優しく想いを注ぎながら、舌に馴染むようにと何度も吹き込んで。カップの中で揺れる水面が、心にも静かに波紋を描き出してゆく・・・冷ました紅茶の熱は俺から君へと熱く伝わりながら。

片膝を付いたまま恭しくカップを掲げ渡すと、香穂子は紅茶の色に溶けこんでしまうくらいに頬を染め、蕩ける瞳でじっと俺を見つめていた。


「どうぞ、熱いから気をつけて・・・」
「ありがとう!」


注意深く受け取ると、まずは瞳を閉じて香りを吸い込み、見ている俺が蕩けてしまいそうな微笑みを浮かべた。吸い付きたくなる唇をすぼめてカップへ寄せると、ふぅっと息を数度吹き込み静かに一口すする。コクンと喉を通る些細な仕草や表情から目が離せない、緊張の一瞬。美味しいねと・・・そう言って浮かべた満面の笑みに氷は溶けて、君の頬だけでなく俺にも春の花が咲き誇った。


「やっぱりお茶は、大好きな人に入れてもらうのが一番美味しって思うの。カフェで飲むのも好きだけど、私は家で蓮が入れてくれたお茶で一緒に寛ぐ時間が、何よりも大切で大好きだよ。もうね、一口飲んだだけでも身体と心がポカポカになっちゃったの。嬉しくて甘えたくなっちゃうの、もっといろんな事をおねだりしたくなっちゃう」
「俺も香穂子が入れてくれる紅茶が大好きだ。いつも頑張ている君に、俺からも何か出来ればと思っていたから、喜んでもらえて俺も嬉しい。だが気持ちが引き締まって緊張したのは、この服装のせいなのだろうな。今日は君だけの執事になろう、望むことがあったら何でも言ってくれ。他に欲しい物はあるか?」
「じゃぁお腹が空いたから、クッキーが食べたいな。執事さんに、あーんして欲しいの」
「分かった、ではクッキーだけでなくサンドイッチやスコーンも俺が食べさせよう。君が俺にしてくれるように、こうしてあれこれ世話を焼くのも楽しいから。さぁ香穂子、口を開けて・・・」
「あ〜ん!」


ソファーに座り直して身体を寄せると、雛鳥のように口を開けて待つ香穂子の舌へ、摘んだサンドイッチを舌へ乗せた。ぱくりと食いつき美味しそうにほおばると、甘い視線でもっとと次をねだってくる。次にクッキーを摘み、唇で挟みながら食べさせれば、咥えた拍子に唇が悪戯に触れ、求め合うようにキスを交わすんだ。一度味わうと止まらなくて、クッキーやサンドイッチよりも柔らかい唇が欲しくなる・・・。俺だけでなく、真っ直ぐ振り仰ぐ蕩ける眼差しは、君も同じように思ってくれているのだろう。


「んっ・・・・・」


喉の渇きを潤そうとカップに伸ばした手を遮る俺をきょとんと見つめた香穂子に微笑むと、彼女のカップを一口含んで腰を抱き寄せた。重ねた唇の隙間からゆっくりと注がれる紅茶は、口の中で程良い温度になっている筈なのに、浮かされそうな暑さが駆け巡る。ぼうっと遠のく意識でコクンと喉を鳴らして飲み込んだ香穂子の唇から、注ぎ切れ無かった僅かな琥珀色が零れるのを、唇を寄せて頬の柔らかさごと吸い取った。


「熱い、凄く熱いよ・・・・」
「香穂子、大丈夫か? すまない、冷ましたつもりだったんだが、紅茶が熱かっただろうか?」
「違うの、何て言うか・・・その。たった一口なのに、蓮からもらったら身体が燃えそうに熱くなって、息が詰まりそうなの。毎日お茶の時間を一緒にしているのに、今日は違うの・・・ドキドキしているのが蓮にも分かる? 私変なのかな、キスをしていない方が苦しいなんて」
「熱いのなら、服を脱いだ方がいい。汗をかいたままでは風邪を引いてしまう」
「えっ、ちょっと! ねぇ蓮ってば」
「着替えを手伝うのも執事の役目だろう?」


ゆっくりとソファーに押し倒し、香穂子へ覆い被さるとブラウスのボタンに手を伸ばし、迷い無く外してゆく。素肌と胸の膨らみがが誘うほど襟が開いた所で気づき、慌てて俺の手を押し止めた香穂子に甘く微笑めば、蓮のイジワル・・・と、そう言って茹でだこに染まる。恥ずかしそうに膨らます頬に、あやしながら何度もキスを降らせていううちに、降参したのかくすぐったいのか、クスクスと小さな笑い声が零れてきた。


つまり今日は、君が執事役の俺に思いっきり甘えて良い日という事になる。
君のお願いを叶える立場だが、意外と簡単に逆転することもできると、君は知っているだろうか?
メイド服に着替えた君が積極的に甘えてくれたように、装いが変わるだけで気持ちは変わるらしい。
普段は照れ臭くて躊躇うことでも出来そうな気がしてくる、こんなにも君が欲しいと夢中になれるんだ。


では今度から、お茶の時間には互いに当番を決めようか。
君が俺に、俺が君へお茶を用意して、紅茶に蕩ける甘いひとときを共に過ごそう。