誰からも教わらなくても、人は恋をする方法を知っている。
ただこれが好きになる気持なのだと気付くまでに時間はかかったけれど、気が付いたら俺の中は君の事でいっぱいになっていた。真っ直ぐに心へ届く音色やひたむきな姿、眩しい笑顔・・・会えない時間さえも狂おしいほどに想いを募らせる。

だからつふいに向けられた笑みに捕らわれ心も身体も軽く空へ舞い上がり、ふわり雲の上を歩くように街を歩いてしまうんだ。それは、君が俺にかけてくれた魔法なのだと思う。




放課後の図書館は大きな窓から差し込む温かな日差しと整った空調、靴音が響く静けさに包まれていた。
読書や勉強をするよりも、この心地良い空間はひと時のまどろみに適していると思う。
学校の図書館で本を読むと眠くなるから苦手なのだと、難しそうに眉を寄せていた香穂子を思い出し、確かにそうかも知れないな・・・と緩みかけた頬を引き締めた。


借りていた本をカウンターへ返却し、そのまま音楽関係の書籍が並ぶ棚へ向かってまっすぐ脚を運ぶ。
机や読書スペースが広がる空間を通り抜けると、天井から床までの高さがある本棚がいく列も平行に並んでいる。豊富に揃った音楽関係の本は部屋の一番奥に並ぶから、まるで本の森に迷い込んでしまったようだ。


角を曲がり棚の隙間を這う細い通路を歩いていると、だれもいない空間でポツンと唯一人、突き当たりの窓際に普通科の制服を着た赤い髪の少女が佇んでいた。そこにあるものが静かに語りかけてくるのを、じっと眼差しを向けて感じ取ろうとするように。校舎も違うし広い構内では、香穂子に会いたくてもなかなか出会えるものではない。偶然とはいえ君に会えた嬉しさに心が飛び跳ね、駆け出したい衝動に駆られるのをぐっと堪える。
邪魔をしないように・・・足音を響かせないようにと、はやる心ごと抑えながら一歩を踏み出した。

探し物をしているのか、膨大な書籍を前に困り果てて見上げる横顔が愛しくて。胸に込み上げる温かさがもたらす小さな笑みで口元と瞳を緩めると、ゆっくりと歩み寄っていく。高鳴る鼓動が弾けた瞬間にカツンと響き渡った硬い靴音に、はっと我に返り驚いたように目を丸くした香穂子が振り返る。俺だと分かるとふわりと頬を綻ばせて、背にして立つ窓から差し込む日差しのような笑みを向けてきた。


「香穂子、君も本を探しに来たのか」
「蓮くん! 図書館で会えるなんて偶然だね」
「俺が来るまでの間、練習室で待っていると思っていた。だが、一足早くここで会えて嬉しい」
「少し用事があるから来るのが遅れるって言ってたでしょう? だから待っているその間、私もここへ来てみたんだけど、やっぱり私たち何処でも惹き合うのかな。通じ合っていると言うか、見えないもので繋がっているみたいで私も嬉しいな」
「俺でよければ手伝おうか。本が語りかけてくる言葉よりも、君に届くと思うんだが」
「や、やだ・・・見てたんだ。でも、ありがとう! 本がたくさんありすぎるから、どれを読んだらいいのか迷ってたの。蓮くんのオススメがあったら教えてもらえる?」


恥ずかしそうに頬を赤く染めて小さく肩を竦ませた香穂子は困ったように微笑み、これなんだけど・・・と胸に抱えていた数冊の本と楽譜を差し出してきた。先日俺の家を訪れた香穂子は、新しい曲に挑戦するのだとそう言ってCDを借りてゆき、嬉しそうに張り切って譜読みをしていた・・・あの曲について調べているのか。


心が浮き立つのは、俺も早く君が奏でる音色を聞きたいから・・・そして君が音楽に興味を持ってくれるから。
香穂子の趣味や好きな食べ物、あるいは考え方がいつの間にか好きになっていたように、君も同じように俺が興味を持つものが好きになってくれる。いつも一緒にいるうちにまるで互いが自分の一部になったように、君が俺の中に・・・俺が君へ溶け込んだのか。でもそのお陰で一緒に楽しんだり感動したり出来るんだ。

もっと君の事が知りたい好きになりたいと思うように、俺の事も知って好きになってもらえたらいいと思う。
心の願いが少しずつ叶えられる度に、一歩ずつ互いに近づけるから。


「香穂子が持ってる本は、少し難しいかもしれない。それならこちらの方が分かりやすいと思う」
「本当!? じゃぁ今持っているのは棚に返してそれ借りようかな」
「あともう一冊、以前読んだ作曲家の詳伝で、なかなか良かったものがあったんだ。君も読んでもらえたらと思っていたんだが・・・どこにいったのか。確かこの辺りにあった筈なんだが・・・・・・」


迷う事無く本棚から一冊を取り出すと、どんな本?と好奇心に目を輝かせながら駆け寄り、肩を並べ身を寄せてきた。俺を振り仰ぐ瞳に微笑みかけ、もう一冊を探すべく棚に視線を向けたが、以前あった場所には見当たらない。既に借りられてしまったのか、それとも場所が変わってしまったのか・・・。
伸ばした手のまま固まる俺を、不思議そうに首を捻って本棚と俺を交互に眺める君。

諦めきれずに大きな本棚の上から下、右から左へと隅々まで探し始めると、香穂子は動き出した手元を追い興味深げに覗き込んで来る。手元が陰るほど頭を寄せてくるのは、まるで子猫が玩具を追いかけるのに似ていて、自然と笑みが零れてしまう。懐に飛び込み擦り寄るようで、髪から漂う優しい花の香りが甘く鼻腔をくすぐった。


彼女が寄り添う側の頬と首筋だけが熱く燃えていて、このままでは見つめられる視線で焼き焦げ、穴が開くのではと思えてくる。香穂子の為にと俺が探している本のタイトルを告げていなかったから、一緒に探したくても探せずに、期待に胸を脹らませながらただ俺を見守る事しか出来ないんだ。

まだ誰も踏み入れて来ない場所で静けさに包まれながら、今は俺と君と二人だけ。
あえて隣を振り向かないように心へ言い聞かせ、至近距離で吐息と鼓動を感じながら。
いつしか本ではなく俺に注がれていた君の視線・・・それが余計に俺の鼓動を高鳴らせ、焦りと熱さを生む。


床に近い本棚に並ぶ本を探そうと膝を折れば、隣にいる香穂子も胸に本を抱えたまま、一緒にちょこんとしゃがみ込む。今は本を探し当てるよりも、何がもの言いたげにじっとみつめる大きな瞳から意識を反らし、冷静さを保つのに精一杯。だがその一方で、もしかしたら・・・今日こそはと、微かな期待と望みの光りが心に芽生え始める。風に揺られる灯火のように時には消えそうでまだ頼りないのは、彼女の心の動きなのか。
消えないようにと大切に抱き締めて守りながら、どうか君も届くようにと願いを込めた。


乱れる呼吸を理性で整えるうちに、探すタイトルさえもあやふやになりかけた頃、一番下の段の隅にようやく見つけた目的の本。明らかに違うジャンルのところに紛れていたから、きっと誰かが戻し間違えたのだろう。
あった・・・と安堵の溜息混じりに呟けば、張り詰めた空気も溶けるようで。
緊張からの解放感と少しばかり残念な気持が複雑に混ざる中、本を取り出そうと手を伸ばし身を屈めた瞬間、俺の頬に柔らかく温かいものが掠めた。


「・・・・・・・・!」


ふわりと触れる羽のような・・・それでいて熱く焼きついて焦げそうな感触。
ピタリと思考と動きを止めたまま数秒の後、香穂子が俺にキスをしたのだと気が付いた。

俺から求めたり、互いに引き合うように唇を重ねる事は何度もあるけれど、いつも恥ずかしがる彼女からキスをもらえた事はまだ一度も無かったように思う。本能が予感を告げたのか、もしかしたら・・・と期待していたのは、まさにそれだったのだから。頬とはいえ恐らくこれは、香穂子から俺にしてくれた初めてのキスだ。


「香穂子・・・・・・」
「えっ!? あっ・・・やだ、私ったら!!」


弾かれるように隣を振り向けば、キスをしたまま固まってしまったのか、鼻先が触れる程の近さで大きな瞳を見開く香穂子が息を詰めて固まっていた。香穂子・・・と呼びかければ、どうやらされた俺よりもキスをした彼女の方が驚いているらしい。はっと我に帰ると咄嗟に唇を手で押さえ、しゃがんだまま慌てて後ずさり、茹蛸のように耳や首筋まで真っ赤に染めてしまう。

恥ずかしさのあまり瞳を涙で潤ませながら、抱える本をぎゅっと強く抱き締めて耐え、やっとの思いで言葉を紡いでいる。香穂子の熱さと鼓動が伝わるから、連られて俺まで言葉が詰まり、顔から火を吹いてしまいそうだ。


「ご、ごめんね・・・蓮くん。せっかく探してくれていたのに、何してるんだろう私・・・・・・」
「いや、謝らなくてもいいから。むしろその・・・俺は、嬉しかったし」
「蓮くんの横顔をじーっと見つめてたら、唇が勝手に引寄せられちゃたの。ほっぺが綺麗だな〜って、キスしたいな〜って思って、つい・・・・・・」


どうして必死に謝る必要があるのだろう。ずっと欲しくて待っていたのに、俺にキスをした君を咎めるなど、決してあるわけ無いだろう? ありがとうと、俺はそう君に伝えたいんだ。

どれだけ時が流れても、いつまでもずっと大切にしたいこの気持。君が届けてくれた、朝日のように真っ直ぐで湧き出る泉のように清らかな想いを・・・・俺も君の胸の中へ届けたいと思う。


本棚に挟まれた細い通路にしゃがみ込んだまま、流れるのは短いようで長い沈黙。
それを破るかのようにすっと立ち上がった香穂子が、俯くように視線を反らしつつ、くるりと背を向けた。


「えっと・・・私、この本戻さなくちゃ」


俺から離れるように本棚へ駆け寄り、一冊・・・二冊と抱えていた本を、笑みを浮かべ冷静さを装いながら戻してゆく。だが片付ける最後の本は大きくて厚い上に、棚が背丈よりも少し高めの位置にあった。肩を震わせた香穂子は、眉根を寄せてう〜んと唸りながら、背伸びをして何とか届かせようとする爪先立ちの足元が危うくて目が離せない。なるべく頼りたくない気持も分かるが、お願いだから無茶をしないで欲しいと思う。

横顔がほんのり火照っているのは、きっと窓から差し込み照らす日差しのせいだけじゃない。
もう一度確かめたくて・・・一瞬の幻のままでは終わりにしたくなくて、俺も静かに立ち上がり香穂子へとゆっくり歩み寄った。だが響く俺の靴音にピクリと肩を震わせた拍子に、バランスを崩してよろめいてしまう。


「きゃっつ・・・!」
「香穂子、危ない!」


頭で考えるよりも早く身体が反応して駆け寄りながら、咄嗟に持っていた二冊の本は床に放り投げた。
本よりも・・・何にも変えられない大切なのは香穂子だから。背後から攫うように片手で彼女を抱きとめ、もう片手は伸ばした手に重ねて本を支えると、どちらともなくふっと安堵の溜息が零れ落ちた。

難なく本を戻し、伸ばした手は華奢な身体を捕らえ懐深く閉じ込める。触れ合った身体を通して伝わる言葉にならない彼女の声・・・早く駆ける心臓の鼓動が俺の鼓動をも震わせ高鳴らせて。


「大丈夫か?」
「う、うん・・・ありがとう蓮くん」
「無茶をしないでくれ・・・と言いたいが、俺がもっと早く気が付いていれば良かったな。すまなかった」


首元に顔を埋めつつ耳元に囁けば、蓮くんのせいじゃないよ・・・ごめんねとそう言って、回した腕に手を重ねてきた。首を前に回して頬に掠めるだけのキスを贈ると腕を解いて身体を離し、床に放り投げていたままだった二冊の本を拾い上げた。埃をで払って傷が無い事を確かめると、読んでみてくれないか・・・そう言って瞳を緩めつつ差し出した。ありがとうとはにかみつつ両手で受け取る香穂子は、本と受け取った俺の想いごと・・・大事そうに胸へ抱き締める。


心の声に耳を澄ませば、この機会を逃してはならないと本能が強く訴えかけてくる。
ならばもう一度欲しい、確かなものとして感じたいのだと願いを告げてもいいだろうか。
閉じていた蓋を開けたのは、他ならぬ香穂子自身だ。一度走り出した君へと向かう想いの流れは俺にも止められず、求める心は貪欲で、もっと先をと性急に望んでしまう。


真っ直ぐに俺を振り仰ぐ吸い込まれそうな大きな瞳の奥へ届けるように、じっと見つめた。
身の内に湧き上がる熱さと願いを、一つの想いに変えて。


「香穂子・・・もう一度欲しい。駄目だろうか・・・?」
「・・・っ!! 蓮くん、ここ学校の図書館だよ。本棚に囲まれた隅っこだけど、誰か来ちゃうかも知れない・・・。駄目っ、恥ずかしいよ。さっきのは、本当に無意識で・・・だから・・・・・・」
「今は俺が通路に背を向けている。俺に隠れてしまうから君の姿までは分からない、安心してくれ」


抱えた本をぎゅっと抱き締めたまま、瞳を閉じてぶんぶんと勢い良く首を横に振る。
ぱさぱさと舞い広がる赤い髪が、心へ鮮やかな華模様を刻み込んだ。

一体何が安心なのかと自分へ問いかけたくなるが、今彼女が欲しいのは一握りの勇気なのだと思うから。
初めて君の唇にキスをした時の俺と同じように・・・。
香穂子の心が知りたい・・・欲しいのは心から俺に向ける想いの形だから。恥ずかしさで再び潤みかける瞳に心が甘く締めるけられ、直ぐにでも抱き寄せたいのをギリギリの理性で堪えるしかない。



本当は困っているのを知っているんだ。
奇跡に等しい偶然かもしれないけれど、頬にくれたさっきのキスだって君の精一杯の気持だって事も。
それに香穂子に言ったら意地悪だと言われるかも知れないが、恥ずかしがりがる君が可愛くて仕方がない。
だから俺の願いを叶える為にひたむきな彼女が愛しくて、独り占めしたくて・・・何度でも困らせたくなる。


暫しの沈黙の後に、真っ赤に頬を染めた香穂子が大きく深呼吸を一つして片手に本を抱えなおした。
きょろきょろと周囲を伺い誰もいないのを確認すると俺の懐に歩み寄り、二の腕をキュッと掴んでくる。
心まで捕まれたように胸が甘く締め付けられ、熱く焼ける感覚に目を細めると、振り仰いでじっと見つめる瞳。
反らせずにいると赤く艶を増す唇が動き、消えそうだけどはっきり耳へ届く吐息で囁いた。


「さっき助けてもらったから、今日は特別だよ。・・・・目、瞑ってくれる?」
「あぁ、こうか・・・?」


気持ちは少し意地悪でも、願いは心の底から望む本物。
だから俺はそっと瞳を閉じた。


「蓮くん・・・・大好き」


消え入りそうな声と共に、柔らかなものが唇を掠めた。
そっと触れるだけの、きみからの優しいキス。
ささやかだけど、精一杯の気持ちが嬉しくて瞳も口元も何もかもが緩んでしまう。

応えてくれてありがとう。
お詫びも込めて、今度は俺からも香穂子の唇へ軽く啄ばむキスを送り、腕の中に閉じ込め抱き締めた。


「・・・もう〜恥ずかしいよ・・・」


閉じていた瞳を開ければ彼女の腕も背にまわされ、しがみ付きながら俺の胸へと顔を埋めてしまう。
香穂子?と宥めるように優しく呼びかければ、腕の中からちょこんと顔だけを上げ、真っ赤に染めた頬を怒ったように脹らませる。そうやって潤んだ瞳で睨むから、余計に愛しさが増してしまうんだ。

ちらりと背後を振り返り、俺たちがいるここへ誰も来ない気配を感じ取ると、額の中心へ熱を伝えるようにゆっくり唇を触れ合わせた。次第に安らぎと心地良さに包まれて、俺だけでなく視界の端に映る君の表情も緩んでゆくのが分かった。

互いの想いが触れ合うのと誰か来ないかとの緊張感で、二倍に高鳴る鼓動。
だがたまには、こんな緊張感も良いかも知れない。


「一歩ずつ、少しずつ。今は俺と君にとって特別だとしても、いつか二人にとって、自然で当たり前な事になれたらいいな」
「ちょっと恥ずかしいけど・・・頑張るね。蓮くんからキスしてもらうと、七色に輝いて透き通る光りの欠片たちが私へ流れて来るんだよ。蓮くんを想うたびに胸いっぱいにふくらんで、隣にいるだけで溢れちゃうの。いつも蓮くんに貰ってばかりだから、今度は私からもちゃんと届けたいって思う・・・私の唇に乗せて」



君がいてくれて良かったと・・・君が好きだと、心の底からそう思う。
香穂子に出会ってから今まで何回思っただろうか。きっと数え切れないくらいあるだろうが、言葉にしたり行為で現した回数は少なくて、だからこそ何度でも届けたい・・・欲しいと思う。




君が俺にキスをしてくれた・・・二人は恋人なんだと実感させてくれる夢のような瞬間。

一番大切なものは何かと訪ねられたら、真っ先に浮かぶのは香穂子だ。
綻ぶ笑顔や音色がそうであるように、君がくれるキスは俺にとって特別。
想いがたくさん詰まったそれは、どんな物よりも最高で素敵なプレゼントだから。






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