扉を開けたら着替え中

帰宅をしてから真っ先にもらうのは、腕の中へ飛び込んできた香穂子から“お帰りなさいのキス”。そして俺からも、待ちきれなかった嬉しさが堰を切って、想いを込めた“ただいまの挨拶”を彼女の唇に返すんだ。
玄関先での長い挨拶の後は、今日あった事を互いに話しながら、着替える為に一緒に寝室へ向かう。
ここまではいつもと変わらぬ、俺が帰宅した時の風景だったのだが・・・今日はなぜか様子が違っていた。


脱いだスーツのジャケットを受け取る香穂子は、いつもなら背中へ抱きつく勢いで嬉しさと喜びを溢れさせ、蝶のように足取り軽く寝室内を駆け回るのに。俺の背後に佇んだままじっと俯き、脱いだばかりのスーツのジャケットを腕の中に抱き締めている。彼女が良くやる、顔を埋めて香りを嗅ぐ仕草に見えたが違うようだ。
ネクタイを緩め襟元を寛げても、香穂子的に注目するという瞬間なのだが、見向きもしない。

ヴェールのように髪で隠れた表情を身を屈めて覗き込み、掻き揚げながらそっと頬に触れた。だがようやく顔を上げてくれたのに、笑顔どころか鋭く睨み上げ、頬を膨らませながらフイと視線を反らしてしまう。


「香穂子、どうしたんだ?」
「・・・・・・・・」
「香穂子?」
「酷いっ、蓮のウソツキ! 俺には君だけだって言ってくれたのは嘘だったの? 私は世界中で蓮が一番大好きで大切だよ。だからどんな時も信じてたのに・・・うぅん、今でも信じたいと思ってるの。それなのに・・・」
「・・・・は!?」
「蓮なんて知らないっ! 今日は夕ご飯抜き、一緒にお風呂も入らないんだから。どんな時も同じベッドで寝るって約束だよって二人で決めたけど。蓮がごめんねって謝るまで、私は客間で寝るって決めたの!」


前触れもなく一体突然何を言い出すかと思えば。だが彼女の大きな瞳に宿る、真っ直ぐな光りは本気だ。
訳が分からないながらも緊急事態だと告げる本能、まずは話を聞かなくてはと。
平静を装ってはいるが心を覆う暗雲に不安が高まり、焦り動揺する鼓動を抑えるのに俺も必死。香穂子を宥めながら記憶を遡るものの、思い当たる節が全く無い。


お願いだ。なぜ君はこんなにも怒っているのか、俺に教えてくれないか?




俺の心も音色も全て君へと向かっている・・・それは神に誓って嘘偽りは無い。
君が俺のものであるように、俺も君のものだから。他に目を奪われるなどは、絶対にありえないんだ。

溢れる感情を抑えられずに互いの焼もちや、ふとした事がきっかけで起きる意見がすれ違う。
互いの頑固さも災いして、言い争いや喧嘩になるのはのは今までもあったが、ここまで一方的に激しいのは始めてだ。夕食抜きは我慢できるとしても、君と風呂やベッドが別というのは、正直身を裂かれるのと同じくらい辛い。俺はもう、君の温もりと柔らかさ無しでは耐えられないのだから。


「ち、ちょっと待ってくれ。そんな一度に君を失うのは耐えられない。お願いだから、落ち着いて話をしよう」
「嫌〜っ、話したくないの。何で私が怒っているか自分の胸に手を当てて、よ〜く考えてみて! 私、自分が悔しくて情けなくて涙出てきちゃうよ・・・」
「香穂子・・・」


とにかく、香穂子を落ち着かせなければ。
一度思い込んだらテコでも考えを変えない頑固さは、彼女の良いところでもあり、少々困ったところでもある。
今は何を言っても難しいかも知れないが、どうか俺の心が届いて欲しいと思う。真摯に見つめながら腕の中へ引寄せたものの、ジャケットを強く抱き締めたまま、いやいやと激しく身体を振って身じろいでしまう。


切れるのではと思うほど、強く噛み締めた赤い唇。煌く涙の溢れた大きな瞳。
真っ直ぐ俺を振り仰いで射抜きながら、一滴たりとも涙を零さないように見開いている。
決して弱さを見せまいとする姿と、すり抜けた手に感じた虚しさが痛みとなって突き刺さった。


「すまない・・・俺には本当に、香穂子が怒っている理由が分からないんだ。落ち度があるなら心の底から悔い改め、君に詫びよう。二度としないと誓う。だから、教えてくれないか?」
「蓮は、本当に気が付いていないの?」
「あぁ・・・嘘はつかない」


眉根を寄せる香穂子の瞳をじっと見つめると、少し警戒を解いてくれたのか、小さく溜息を吐いて強張った力を抜いてくれた。良かった・・・小さな変化だが、これだけも今は俺たちにとって大きな一歩前進だ。
そう安堵したのも束の間で、すっかり皺がついたジャケットをベッドの上に置くと、俺の腕を強く掴んでくる。

こっちへ来てと、導かれるままに腕を引かれ連れて行かれたのは、クローゼット近くに備えられた大きな鏡の前。肩を掴まれ後ろを向かされると、肩越しに振り返って見えたものに驚き、視線が釘付になってしまう。


「・・・・・・・っ! これは」


俺の着ているYシャツの背中でちょうど右肩の下、肩甲骨の辺りにあったのは唇を押し当てた跡。
ピンクベージュをした口紅の色も鮮やかな、キスマークだったのだ。
誰がいつの間に?と眉を潜めた瞬間、記憶の点と点が一本の線に結びつく。


「ちょうどジャケットに隠れて見えない場所だけど、どうしてこんなところにキスマークが付いているの?」
「これは・・・あの時についてしまったものか?」
「ほらっ、やっぱり心当たりがあるんじゃない! どこでつけて来たのか、正直に白状して!」


鏡越しに強く睨むもののやがて瞳を潤ませ、堪えていた溢れ涙が一筋頬を伝った。
しゃくりあげながら蓮の馬鹿〜と俺を呼び、握った拳で俺の背中をポスポスと叩く声が背中に響く。
想いの全てを拳に込めているのだろうが痛みは無く、羽根が掠っているようだ。




そうか、これが香穂子の機嫌が悪かった原因なのか。
背中にあったから、ジャケットを脱がせた時に彼女が真っ先に気づいたのだと。
ならばすぐに、誤解を説かなければいけないな。いやそれよりも、君にこそ思い出してもらわなければ。

解決の糸口が見えてきて、心を覆う雲間から一筋の光りが差し込んだようだ。
どうか君も、早く気づいて欲しい・・・この印が誰のものであるかを。


「香穂子こそ、忘れているんじゃないのか? 今朝俺たちにあった出来事を、冷静に良く思い出して欲しい」
「へっ!? 私?」


きょとんと目を丸くして一瞬身動きを止めた香穂子を、肩越しに振り返りながら、両腕を掴んで前に引寄せた。
背中から抱きつく形となった香穂子は離してと身じろぐが、それを拒む力で抱き締め、更に強く抱き寄せた。
言葉の代わりに伝わる鼓動と温もりが、次第に互いの波長を一つに重ね、落ち着きをもたらしてくれる。


「俺のYシャツの背中にあるキスマークをつけたのは香穂子、君だろう? 今朝ここで支度をした時に、着替えを手伝ってくれた君が、こうして俺に抱き付いてきたじゃないか。しがみ付いてじゃれていたから、恐らくその際に唇が触れて付いたのだろう」
「あーっ! そういえば・・・ジャケット羽織らせる前に私ったら、蓮の背中見てたらつい飛びついちゃって。そうか、あの時のだったんだね」
「今ちょうど触れている香穂子の唇と、シャツについてるキスマークが同じ位置にあるだろう? ルージュの色も唇の形も、君と同じ筈だ。確かめたいのなら、もう一度口付けて試すといい」


宥めるように勤めて優しく静かに告げると、やがてシャツ越しの背中に、熱く柔らかい感触が押し当てられた。
香穂子からのキスは、言葉の代わりにゆっくりと長く・・・。唇が触れた場所から、熱さが電流となって背中を走り抜けてゆく。息を潜めて耐えていると力を抜いた身体ごと寄りかかり、額を預けるのを感じた。

背中にくすぐったい吐息が降りかかる度に、炎をなって俺を焦がすんだ。


「・・・・・・本当だ、ピッタリ同じだよ。このキスマークは正真正銘、私のだね。なのに勝手に勘違いして、疑って騒いでごめんなさい。蓮は信じてくれてたのに、酷いのは私の方だよ・・・ごめんね」
「やっと手に入れた君との幸せなんだ、俺には香穂子しか見えないと言ったろう? 余所見をしたとでも思ったのか?」
「うん・・・ちょっと違うかな。蓮は私と結婚してから前よりずっと柔らかく優しくなって、ヴァイオリンも蓮自身も素敵になったの。気づいてる?だから凄く人気があるんだよ。正直言うとね、悪い虫が付いたのかって早とちりしたの・・・ほら、熱烈なファンとかも中にはいるでしょう? 皆に認めてもらうのは嬉しいけど、私だけの蓮なのにって・・・独占欲なんてみっともないよね」
「そんな事はない。今日一日中君を想うほどに強く、触れてくれた所がずっと熱く疼いていたんだ。身の内に湧く温かさに包まれて幸せだった、ありがとう」
「蓮、私を許してくれるの?」


微かに震える吐息と共に伝わる振動が胸の奥を震わせ、心のありかを教えてくれる。
君が好きで大切だと想う、輝きに溢れた光りの泉を。

しがみ付くように俺のシャツを握り締め、背中へ頬を押し付ける香穂子の手にそっと包み重ねた。
これで誤解が解けただろうかと、優しく語りけてゆっくり肩越しに振り返れば、自然に口元が綻び頬が緩む。
俺の心を覆っていた灰色の雲も、どうやら消え去ってしまったらしい。
恥しそうに頬を染め上目遣いでちょこんと振り仰ぎ、雨上がり空のように笑顔を見せる君がいたから-----。


「ねぇ、今日はジャケット脱いだりしなかった? どうしよう、凄く恥しいよ」
「大丈夫だ。コンサートの打ち合わせだったが、ずっと着たままだったから」
「良かった。じゃぁ前言撤回で、お夕飯一緒に食べようね。着替えたら直ぐに、テーブルに来てね」
「解決しなのなら、風呂とベットもいつも通りで良いのだろう?」
「う、うん・・・・え〜っとね。もちろん約束どおり、一緒だよ」


恥しさで真っ赤に染めた顔を隠すべく、再び背中へしがみ付いた身体を解き、正面から抱き締め直した。
どうか俺に君の顔を良く見てほしいと、そう囁いて。
熱さを宿す頬を片手で包み、涙の伝った跡を指先で拭い去った。




シャツの背中に残ったキスマークではなく、今度は見えない場所に。
例えばシャツも隠れる素肌の上に、炎よりも熱い君の想いを刻み込んで欲しい。
俺が夜ごと君に刻む赤い花のように、心に深く刻まれる君の印を--------。