小さい春みつけた

長い間の想いを実らせ、楽しい時も辛い時も常に共にあった香穂子と結婚してからは、音楽と生活の拠点を留学先のドイツに移していた。今回は日本でのコンサートツアーの為に、二人揃って久しぶりの帰国となる。生まれ育った街へ向かう道すがら、車窓に張り付き景色を眺める香穂子は、嬉しそうに目を輝かせていた。

「日本に戻るのは私と蓮の結婚式以来だから、久しぶりだね! 皆は元気かな?」
「あぁ、変わらず元気でいるに違いない。落ち着いたら、二人で挨拶に行こうか」
肩越しにくるりと振り返る笑顔に頬を緩めれば、うん!と頷き、期待と懐かしさを溢れさせながら再び流れる車窓に魅入ってしまう。
 
理由や確信は無いけれど、春に新しい何かが始まると思うのは、季節が冬と春の境目だからだろうか。春は新しい命が生まれる芽吹きの時。君との出会いだったり、プロポーズだったり・・・振り返れば大切な節目は春にやってきたなと思うから。心に灯った温かさに、新しい何かが始まる予感を感じていた。





休日で人の賑わう海辺の公園を散策しながら、海の遠いドイツで感じる事の無かった潮風を浴び、胸いっぱいに吸い込んだ。空と海が一つになったきらめきの青に溶け込んでゆくようで、心が落ち着き癒される。ここ数日は寒さの厳しい日が続いていたが、春が直ぐ近くにあると思わせる・・・そんな温かさが港の公園を包んでいた。

海が見渡せる大きな公園は、まだ高校生だった頃に二人でよく出かけた思い出の場所。手を繋ぎ散歩をしながら、懐かしい思い出話にも花が咲く。こうした積み重ねたまた新しい思い出を作り出すのだろう。ふと耳を掠めたヴァイオリンの音色に視線を辿れば、高校生らしき数名が合奏している姿もある。


「あっ! ねぇ蓮、見てみて。皆で合奏しているよ、高校生くらいかな? とっても楽しそうだね」
「香穂子と二人で演奏したな・・・彼らのいる辺りで。懐かしいな」
「もう一度やりたいよね。でも昔ならともかく、ヴァイオリニストの月森蓮が街の公園で演奏していたら、たちまち人だかりがで出来て大騒ぎになっちゃうよ」
「近い場所で多くの人に聴いてもらえたらと思うが、騒ぎになるのは困るな。それに君を独占できなくなるのは、騒ぎと同じくらいに辛い。では今度二人だけで、音色を重ねよう」
 残念そうに眉を寄せて見上げる香穂子を宥めるように、月森は琥珀の瞳を柔らかく緩めて微笑みを注いだ。微笑みの陽射しを受けて、彼女の頬にもうっすらと赤く染まった花が開いてゆく。


海を隔てて互いに離れていた時間が長かったが、無駄じゃなかったと思うのは、一緒にいられる大切さとありがたさを心の底から感じるから。こうして君に触れ、話せば声が返ってきて、目が覚めたときには腕の中にあどけない寝顔の君がいる・・・。
一人異国の地にいた時には、君が幸せであったらいいと願うだけで寂しさも和らぎ、優しく温かな気持になれた。その気持は今も変わらないけれど、共に歩むにはただ願うだけでは駄目なんだ。
毎日が新しい発見の連続で、普通の一日などは無い。何気無い日常の中に散りばめられたたくさんの幸せを、見失わないようにしよう。


秘めた誓いを新たに繋いだ手を、心ごと離さないように握り締める力を込める。だが、いつもよりも僅かに熱さを感じる香穂子の手の平に眉を潜めた。ドイツを経つ前からここ暫らく体調が悪いと言っていたが、今日は顔色も良く終始笑みを絶やさないところをみると、良くなったのだろうか?

具合が悪い香穂子を一人残して帰国する訳にもいかないし、もちろんそうするつもりも無かった。それでもこうしてスケジュール通りに帰国したのは、彼女が頑として譲らなかったせいだ。「私のせいで蓮に迷惑かけられない、勝手に変更したらもう一緒に寝ないんだから」・・・と。頬を脹らませて睨みながらの、可愛らしい脅し文句だと分かっているが、実現されたら敵わないので俺に逆らう術は無かった。


「香穂子、具合は平気か? まだ寒さが残っているから無理をしない方がいい。調子が良いと思っていても、治りかけが肝心だ。海風は身体に障る、早めに戻ろう」
「今日は気分がいいの、もうすっかり元気だよ。ちゃんと病院にも行ったし・・・その・・・ね、風邪じゃないって分かったから心配しないで?」
「・・・風邪じゃないのに具合が悪いのは、余計に心配じゃないか」
「えっと〜それは後で話すから・・・ね? それよりも今日のお散歩は、小さい春をいっぱい見つけるんだよ。蓮も見つけたら教えてね?」


急に真っ赤に頬を染めて慌て出す香穂子は、口を開いたり閉じたり・・・続いて何かをいいかけたが、結局止めてしまい、恥ずかしそうに手を弄りながら俯いている。恥ずかしがっている姿に、悪いものではないとだけは分かるが、かなり気になるじゃないか・・・本当に大丈夫だろうか。

心配そうに見つめる月森に勤めて元気な笑みを見せた香穂子は、行こう?と繋いだ手を軽く揺さぶって催促をしている。彼女が大丈夫というなら信じるしかない。どちらともなく浮かんだ笑みを合図に、再びゆっくり歩き出した。




香穂子が「小さな春を見つけに行こう」と言い出したのは、朝食や片付けが終った寛ぎのひと時の事。遠くじゃなくてもいいのだと、近くの公園へ散歩に行こうと。せっかく日本に帰ってきたんだし、ただ何もせず家にいるのはもったいないと力説しながら、冬晴れの広がる窓の外を示していた。
帰国後は俺だけでなく香穂子も慌しい日が続いていたから、たまには何もせず休んで欲しいのだけれど。
気分転換に外の空気を吸いに行く方が、彼女にとっての癒しなのだ。日本にいられる時間を一刻たりとも無駄にしたくない気持も分かるし、俺も君と出かけられるのは嬉しい。


「小さな春はどこかな〜?」

きょろきょろと視線を巡らせ、道端に咲いている小さな花や土を割って芽吹いた緑を見つけては、春を見つけたと頬を綻ばせていた。春が一つ・・・春が二つと歌うように数えながら、繋いだ手を楽しげに揺らして。
一緒に歩けば普段は見過ごしてしまうものが、たくさん見えてくる。
 
二人で幸せになる為にそれを感じられる、ゆとりある心の大切さを教えてくれたのは君。
この手にある温もり、互いに重ねる笑顔と息遣い。大切なものたちを心のポケットへ集めてゆけば、一つ一つは小さいけれども、いつかささやかな幸せが大きなものになるのだと思う。


少女のような無邪気さではしゃぐ君の純粋さと輝きは、出会った頃も結婚した今も変わらない。真っ直ぐな瞳に捕らえるものと同じく話題もくるくる変わるから、一瞬も目が反らせず引寄せられてしまう。俺は香穂子以外に余所見ができないから、すまないけれども「小さな春」を見つけるのは難しいかも知れないな。

心の中で苦笑を漏らしながらも、元気そうで良かったと湧き上がる安堵感。愛しさに熱く込み上げる甘い苦しさに騒ぐ心を止められず、瞳と頬を緩めたまま横顔を眺めていた。


「ねぇ蓮、ちゃんと小さな春を見つけてる? 春は囁き声だから、注意しないと聞き逃しちゃうんだからね」
「もちろん探している。だが香穂子から目を反らせなくて、なかなか見つけられない」
「も、もう〜蓮ってば。嬉しいけど、もうちょっと回りも見て欲しいな。さっきから視線を感じるほっぺが熱くて、火を噴出しそうなの・・・恥ずかしい。あっ・・・また小さい春見つけた!」
「小さな春? 何処にあるんだ・・・おいっ香穂子、走っては危ないぞ」


繋いだ手を解くと背中押して吹き抜けた風に乗り、ひらりと舞う花びらのように、花の香りを運ぶ風と一つになって軽やかな足取りで駆け出してゆく。すり抜けた君を捕らえようと伸ばした手が空を掴むのは、いつもの事。悪戯な花びらは少し先にある樹の側で振り返り、笑顔で早くと手招いている。彼女らしさに嬉しい苦笑を零しながら、見えない手に引寄せられ隣に肩を並べた。


芝生の広がる緑地には、冬でも緑を失わない木々の合間に、冬枯れで葉を落とした針金のような木々。寒そうだなと呟く俺に何かを見つけたらしい彼女は、パッと瞳を輝かせて振り仰いだ。逸る気持を押さえ切れずに腕を引かれ目線の高さにある枝に近付くと、しなやかな指が示すものを追った。


「これは・・・・・・!」
「ね、小さな春でしょう? とっても可愛いよね」


自慢げに胸を張る香穂子が見つけたのは、葉を落とした枝いっぱいについていた、赤く芽吹く小さな蕾たち。少し突付けばポンと弾けそうな程丸く大きく膨らんでおり、一際日を受けた温かい枝先には、たった一輪だけ赤い小さな花が咲いていた。あんな遠くからよく見つけたなと、ただひたすら彼女に感心してしまう。


光りを求めて一生懸命背伸びをする、小さな春の使いたち。
優しい眼差しを注ぐ香穂子と、どんな会話をしているのだろうか。枝先の赤い花は微笑を受けてはにかんでいるようにも見える。二つの微笑みに心が安らぎ、寒さを忘れる温かさに包まれるようだ。君も俺に春を運んでくれるから同じ春を届ける者として、きっと彼らの言葉が遠くからでも聞こえたのかも知れないな。


「これは梅の花だな。冬の最中だと思っていたが、もう花が咲く季節なのか。春は目の前だ、早いものだな」
「みんなまだ寝ているのに、この子一人だけ咲いているんだよ。今日は特別に暖かいから、春が来たって慌てて早起きしちゃったのかな。また寒くなったら眠くならないといいんだけど・・・。ほら、二度寝って気持ち良いでしょう? 温かいお布団の中でヌクヌクするの、私大好き! とっても幸せだって思わない?」
「そうだな、俺も好きだ。だが再び眠られては困ってしまう、君も花たちも・・・。早起きもいれば寝坊するものもいるのは、俺たちと同じだ。きっと春を教えてくれたこの花が、他の花たちに声をかけて起こすのだろう」
「春だよ〜起きてって、お寝坊さんを一生懸命起こすのかな。ふふっ・・・何だかいつまでもベッドに潜っている、蓮を起こす朝を思い出しちゃう」


隣で肩を小さく揺らしながらクスクスと笑う香穂子に、すまない・・・とそう呟く月森が顔を赤らめフイと視線を反らしてしまう。照れているのだと気が付き、ますます笑みを深める香穂子に、頬の熱さは募るばかり。やがてどちらとも無く互いに噴出すと、甘く絡んだ視線は陽だまりの温かさを生み、一つだけ咲いた花や蕾たちをも包んでゆく。


冬が長く厳しいヨーロッパに暮らすようになって、春を望む気持が強くなったように思う。 
長い冬篭りの間も着実に新しい命を育てながら、指折り数えて芽吹きの時を待つ花や緑や樹たち。
彼らの気持が分かるから、冬と春の境目に生まれる新しい命たちに、他の季節には無い誕生を喜ぶ気持が込み上げる。

暦では立春が過ぎても風はまだ冷たい北風。南風の春一番が北上しても、あっという間に北風に追い越されてしまう。寒さと温かさが互いに追い越し追い越され・・・やがて一つに交わりながら、次の季節へと共に歩んでゆくのだ。

季節の流れと言うのは、俺たち歩みと似ているな。
そう思いながら華奢な肩をそっと抱き寄せれば、甘えるように肩先へ頭を預け、身を寄りかからせてきた。


「春って大好き。暖かくなるとコートも脱いで軽くなれるし、お洒落も楽しくなるし、いろんな場所に出かけられるでしょう? 花も咲くし、若葉の色って元気が出るし、光りや水や・・・何もかもが毎日どんどん変わっていんだもの」
「俺にとって、春は香穂子のようだと思う。生命力と輝きに溢れ温かく、いつでも俺の心を浮き立たせてくれるから」
「蓮ってばサラッと恥ずかしい事、平気で言えるよね。恥ずかしいけど凄く嬉しい、ありがとう。私が春なら蓮の季節は何だろう。夏って感じじゃないし秋でもないし・・・やっぱり冬かな」
「・・・・・・俺はそんなに冷たい男だろうか?」


冬と言えば寒さや厳しさなど、とかく辛い形容詞がつきものだ。寒さで人の心が砕けるととも言う。出会った頃は確かにそうだったかも知れないが、今は違うと信じたいのに。肩を包む手もするりと力なく滑り落ち、言葉を失い佇むしかなかった。打ちひしがれている俺をきょとんと不思議そうに見つめる香穂子が、急に手をバタつかせて慌て出した。


「や・・・やだ誤解しないで、冷たいとかそんな意味じゃないの! 蓮は優しいよ。私ね、冬も大好きなの」
「それは、どういう・・・」
「空気が澄んで透き通っているのは、蓮の心や瞳みたいだって思う。月の輝きも一番強い季節だから、迷いそうな夜も私を明るく照らしてくれる。凛としている寒さの中でフトした温かさが嬉しいの。寒さの中で小さな花をや陽だまりを見つけるとね、蓮が微笑みかけてくれる時みたいに、胸がキュンと胸が締め付けられるから」
「香穂子・・・・・」
「冬ってたくさんの命を樹や地面の中で大切に育ててくれるんだよ。だから春の気配に敏感なの、蓮が私の事を細やかに気遣ってくれるように・・・。冬があるから春が来る、蓮がいなきゃ私じゃないもの」


切なげに潤ませてた瞳で真っ直ぐ振り仰ぎながら、誤解をしないでと必死に想いを届けてくる。一瞬の戸惑いはあったとはいえ、もちろん本当の意味知っていたのに。勘違いとはいえ迂闊な一言で彼女を傷つけてしまったのは俺なんだ。この熱さが君の想いの証・・・心の底から激しく揺さぶられ、駆け巡る熱さに眩暈がしそうだ。


「早とちりをして、すまなかった」
「私こそ、言葉が足りなくてごめんね。真っ盛りの春よりも、やっと春が来たなっていう境目が一番素敵。だって冬と春が交わる季節には、新しい命が生まれてくるんだもの」
「小さな春・・・か。俺も春の訪れを感じられる、この季節は好きだ。俺は確かに冬だな。君という春色に染まり、共に季節を歩むのだから。俺と香穂子・・・出会ってから今まで、冬と春の交わりが生み出したものは数え切れないな。このひと時だってそうだろう、どれもかけがえの無い宝物だ」


まだ冬も盛りな頃から、春の声はひっそりと訪れている。冬の短い昼間が少しずつ延びて日脚が長くなっていたように、気付いた頃にはいつの間にかすぐ目の前に来ていた。光の変化を誰よりも早く感じ取る花や樹たちの声は、聞き逃してしまう程ささやかだけれども。予感を・・・兆しを確かに告げてくれていたのだ。

どれだけ春を待ち望んでいたか・・・それは君が好きだと、恋をする気持に似ていると思う。

まだ春の気が整わないうちに気が急いてしまい、再び寒さが戻った時に緩んだ気持を引き締められるように。甘く苦しい程に想いを馳せ、時には悩み心を揺さぶられ、緩み引き締められながらを繰り返す。
気付いた時には、君の事だけでいっぱいになっていたんだ。今までも、これからも・・・ずっと。


両手で頬を包み、瞳を緩めて笑みを注いだ。
寒さに凍った心と頬を緩めて欲しいと。俺が冬なら、君にとっての陽だまりであるように願いを込めて。 

 
「ここにも、春を告げる花が咲いている」
「えっ、どこどこ?」


きょろきょろと枝先を見渡し始める香穂子の腰を抱き寄せ、腕の中に深く閉じ込める。驚きに目を見張る顔が影で覆い被さると、柔らかい唇を掠めるだけのキスを素早く贈った。見る間に真っ赤に染まってゆく頬は、彼女の傍らに見える小さな赤い花よりも愛らしい。花が自分を指しているのだと気付き、赤くなった顔を見られまいと胸に顔を埋めてしまった。


「もう〜いきなりキスするなんて反則だよ! こ、心の準備が・・・・心臓弾けるかと思っちゃったじゃない」
「花はか弱そうに見えても、生命力に溢れて力強いからな。大丈夫だ」
「何が大丈夫なのか分かんないよ〜。そうやって毎晩いつも、私に無理させるんだから」
「でも私が春って・・・ひょっとして私が言う前に、気付いちゃったの?」
「何がだ? 香穂子の隠し事か? いや、残念ながらそこまでは気付かなかったが」
「うん・・・。あの・・・ね・・・もう一つ、小さな春があるんだけどな」


耳貸して・・・と、そう言って背伸びをする香穂子に月森は抱き締める腕を解き、身を屈めて耳を寄せる。口元に手を添えて、ひっそりと交わされる二人だけの内緒話。僅かな囁きの後で月森の瞳が驚きに見開かれ、香穂子の頬がほんのり桜色に染まっていった。


「・・・・・・・・!」


今、何と言ったんだ?

 するっと自然に耳から吸い込まれて、すぐに心へ染み込んでしまったけれど。初めは信じられずに何度か反芻するうちに大きな衝撃に変わり、呼吸も鼓動も全て止まったような感覚に襲われた。驚きと興奮と嬉しさと・・・感情が一気に溢れ、上手く言葉に出来ないもどかしさが込み上げる。鼓動は高鳴り、耳朶に残る吐息の熱さが全身へと駆け巡っていった。


-------赤ちゃんができたの。


夢じゃない・・・小さな囁きだったけれども、確かに君の声で聞こえた言葉。

じっと見つめる俺の視線を受け、はにかんだ笑みを浮かべてしっかりと頷いた。大切なものを守り労わるようにお腹に当てられた両手と、慈しみに溢れた穏やかな微笑みが全てを語っている。彼女の中に宿った新しい命、それはつまり俺と君の・・・・・・・・。


「ここ暫らくずっと具合が悪くて・・・毎月のが来なくて。でね、この間病院行ったら、おめでとうって言われたの。へへっ、三ヶ月だって。蓮もパパになるんだねって・・・きゃっ!」

 
気が付けば、再び香穂子を腕の中に閉じ込めていた・・・先程よりも深く強く、髪に顔を埋めるように。
幸せが吐息を震わせ、涙が零れそうになる。服越しに触れ合った肌や抱き締めた腕から微かな震えが伝わるのか、蓮?と優しく宥めるくぐもった声が聞こえてきた。

いけない、強く抱き締めすぎでは身体に障るだろうか。
慌てて力を緩めるが、それでも抱き締める腕を離す事が出来なかった。愛し過ぎて、誰よりも大切な君を。
 

そうか・・・だから、ここ暫らく具合が悪かったのか。
小さな春を見つけに行こうと言ったのも、きっと俺に報告する為だったんだな。
芽吹いた花たちは香穂子へ、祝福の言葉や歌を奏でていたのかもしれない。一つ一つを見つける度に、幸せそうな笑みを浮かべていたから。春の声は囁き声で聞き逃してしまう・・・確かにその通りだった。
 
だが自然に溢れる春の喜びの中で、本当の小さな春をやっと見つけた・・・俺たちだけの春を。


「すまない・・・その大丈夫か? 嬉しくてつい強く抱き締めすぎてしまった。何処か辛いところは無いか?」
「大丈夫だよ、ありがとう。無理して言葉にしなくても平気だよ。言葉の代りに伝えてくれるものがたくさんあるもの。私もね、蓮の気持が凄く嬉しかった・・・伝えるまで不安だったから。ようやく実感できた感じかな・・・やだ、ほっとしたら涙出てきちゃった」


薄っすらと赤く染まった目元。大きな潤む瞳に浮かぶ光る雫を人差し指で拭うけれども、次から次へと零れてしまう。嬉しくても涙は零れるのだと、そう言って必死に笑顔を浮かべる頬を両手で包み込み、朝露のように清らかな雫を指先で拭い去ってゆく。やがて涙は止まり、指先のくすぐったさにくしゃりと頬を緩めながら、小さな笑い声が手の中から聞こえ始めた。


感謝や愛しさ嬉しさ、強さなど・・・君は俺にたくさんの気持をくれる。そして君にやどった小さな命が、命の尊さも教えてくれた・・・両親への感謝も。
気持が溢れて上手く言葉にならないけれど。たった一言、全ての想いを込めて君に伝えたい言葉がある。
収まりかけたもののまだ潤みを湛えている煌く瞳を、頬を包んだまま真っ直ぐ見つめた。


「ありがとう、香穂子。君と一緒になれて良かったと、心の底からそう思う」
「・・・! ありがとうって、蓮に伝えたいのは私だよ。大好きな蓮と結婚できて、赤ちゃんが授かって・・・いつも蓮に幸せ貰っているんだもの。私たちの愛の結晶、大切に育てようね」



二人の頬笑みが重なり、吹き抜ける風が変わった。
寒さを運ぶ凍てついた北風から、温かさを運ぶ柔らかな南風に。 

花の香りと春を囁く彼らの声を携え、春がきた事を知らせる役目は風。
気の急いた春の使者たちは時折強く吹きぬける悪戯をするけれど、優しく温かく俺たちの心へ届けてくれる。

奇跡の瞬間。想いと希望の光り、幸せ・・・そして冬と春が交わり生まれた、新しい生命の喜びを------。