手を触れれば分かる
菩提樹寮のラウンジから窓越し外を眺めれば、緑が茂る庭の合間から覗く太陽が、濃い真夏の青空をじりじりと焦がしている。室内や木陰に入ってしまえば日差しは遮られるけれど、眩しさを眺めるだけで身体中から熱さが沸騰しそうになる。
暑いのは嫌やなぁ・・・と眩しさに目を細めた土岐が、ゆっくりと仰ぐ団扇の手を止めて。風通しの良い日陰に座る膝を枕に横たわる、小日向の額にそっと触れながら顔を覗き込んだ。
「この炎天下で水分も取らんと、ずっと練習してたん? そりゃ具合が悪ぅなって当然やわ。小日向ちゃん、お日様にやられてもうたんやね。症状が酷いと命に関わる事もあるんやから、気ぃつけんと。楽器の演奏は激しいスポーツと同じや、ちゃんと水分補給せなあかんよ」
「ごめんなさい、蓬生さん・・・一緒に練習する約束だったのに・・・」
「心配せんでえぇ。あんたが倒れる前に、向かえに行けて良かった」
いつもは元気な笑顔も今日はぐったりと瞳を閉じて青白く、それでも心配させないように微笑んでいる。触れる肌が少し冷たく感じるのは、体温がやや低めな証。手に取った細い手首にから伝わる脈も、いつもより弱くて早い。
午後から一緒に練習する約束をしていた公園に行くと、先に練習していた筈の小日向ちゃんが、具合が悪いとベンチに座って休んでいて。焼け付く太陽に当たった・・・熱中症だと一目で分かった。練習熱心なのはえぇけど、一度目標を決めたらまっしぐらやろ。太陽に気付かんくらい夢中になったり、たまーに抜けとるから心配になるわ。
「最初は木陰で練習していたんです。でも青空にもりもりと沸く入道雲が面白くて・・・雲とお話ししていたら、いつの間にか明るい日差しの下でヴァイオリン弾いてました・・・」
「雲と話すなんて子供みたいやね、楽しそうでえぇなぁ。けど、テレビでも言うとったやろ、熱中症に注意って。あんた一人の身体やない、もっと大事にせなあかん」
「私一人欠けたら大変ですよね・・・演奏にも影響しますし」
「アンサンブルもやけど俺は、あんたが大事なそのままの意味で言うたんよ」
額にかかる前髪を払いのけながら微笑めば、ぼっ・・・と火を噴いた顔が赤く染まる。新婚さんの台詞みたいで照れちゃいます・・・と、恥ずかしそうに口籠もる可愛らしさに、俺の方が理性に火がつきそうや。あかん、小日向ちゃんは具合悪いんやから我慢しとき。そう心の中へ言い聞かせながら、彷徨い求めようとする手を必死に止めているなんて、あんたは知らんだろうなぁ。
「でもあの・・・蓬生さん。どうして私、お膝枕なんですか? 嫌という訳じゃなくてその、照れ臭いなって思って」
「知っとう?熱中症は、頭を高くして休ませると楽になるんやで。あんたの頭には、俺の膝くらいがちょうどえぇ。それに、いつもあんたに膝枕してもろてるしな」
「そう・・・だったんですか、ありがとうございます。蓬生さん、詳しいんですね〜」
「暑いのは苦手や、面倒で好かん・・・これも経験と知恵やね。でも小日向ちゃんの役に立てたのなら、嬉しいわ」
濡れた冷たいタオルで首筋を冷やせば、苦しげに寄せられた眉がふわりと緩んだ。冷たくて気持ちがいいと、心地良さそうに綻ぶ笑顔が、不安で締め付けられそうに緊張していた俺の心まで和らげてくれる。それでもまだ、浅く早い呼吸を繰り返すところをみると、息苦しいのやろか。
「小日向ちゃん。ちょっとだけ触るけど、堪忍な」
「えっ? ちょっ・・・蓬生さん、何をするんですか!?」
「頼むから暴れんといて、大人しくしとき。衣服を緩めれば、呼吸も大分楽になるはずや。心配せんでも、具合の悪いあんたに悪さはせぇへんよ」
頭を乗せて横たわる脚を動かさないように身を屈めると、制服の襟元を少しだけ緩めて。抱きかかえて浮かせた白い夏服の背中かから、手を差し入れて下着のホックを器用に外した。真っ赤に火を噴きながら身動ぐ小日向は、慌てて起き上がろうとするものの、身体へ力が入らず土岐の膝枕へと逆戻り。
応急処置だと言い聞かせてあやしながら、冷たく冷やしたタオルを緩めた襟元から忍ばせ、身体の熱を早く冷ます脇の下へと忍ばせた。指先を掠めた柔らかな肌や胸の膨らみが、狂おしいほどに甘く誘う・・・あかん、今は駄目や。早く元気になって、ヴァイオリン弾くんやろ?と、髪を撫で梳きながら囁けば、ゆるゆる見上げた潤む瞳がコクンと頷く。
「あのっ、さっきよりも気分がすごく楽になりました。蓬生さんのお陰です、ありがとうございます」
「具合はどうかと尋ねても、あんたは「大丈夫だ」と応えるだけ。心配させないように気ぃ使うてくれるのは嬉しいけど、ちょっと寂しいねん。こんなときばかりは、ちょっとは甘えて寄りかかってもえぇんやで?」
「甘えて・・・ますよ、元気なときにこんなに長い間お膝枕してもらっていたら、恥ずかしさで茹だっちゃいますもん。いつも具合が悪くなると、急に一人ぼっちになった気持ちになって、寂しくなるけど・・・。蓬生さんが傍にいて、手を握ってくれるから、すごく安心しているです。誰かが傍にいてくれる温かさって、嬉しいですよね。元気のお薬です」
あんたは素直やね。自分の過ちを素直に認めたり、感謝の気持ちや嬉しさを伝えてくれる。どんなに格好つけた言葉よりも、心からの真っ直ぐな言葉のほうがずっと気持ちえぇ。だから、小日向ちゃんは強いんやろな。フローリングの床へ置いていた団扇を再び手に取り、緩やかに仰ぎながら、もう片方の手を額に乗せて冷却シートを押さえ包んた。
「安心しきっとうけど、緩めた制服の隙間から俺の手が忍び込んで、こっそり悪戯するかもしれんよ?」
「蓬生さんは優しいから、悪戯したくても我慢してるって・・・ちゃんと分かってます。ふふっ、手は嘘つかないんです」
「あんたには敵わんなぁ。なんや具合悪くすると、いつもよりあんたの羞恥心が鈍るんやろか。俺の方がドキッとするわ」
「頭がぼう〜っとしているからかも、知れません。夢の中みたいに。私、蓬生さんの優しい手が大好きなんです。手を繋いでくれたり抱き締めてくれたり、こうして私のおでこに手の平をあてて、熱をみてくれたり。素敵なヴァイオリンも弾いてくれるし、車の助手席にいる私のことを、いつも気遣ってくれる・・・。私を幸せな気持ちでいっぱいにしてくれるんですよ?」
手の平が包み込む感覚と心地良さへ身を委ね、ふわり幸せな表情を浮かべながら。あんたの優しい微笑みこそが、俺の心に触れることの出来る、優しい温もりの手の平やって知っとう? 握り返してくれる柔らかい手から、伝わってくる・・・あんたの心に触れる事ができるのも、俺だけなんやね。
「看病にかこつけて、溶けてしまいそうな雪の素肌へ、このまま触れてしまいたいねんけど。もっと気持ち良くする続きは、小日向ちゃんが元気になってからにするわ」
「ほっ、蓬生さん・・・!」
「本当はすぐにあんたの部屋へ運ばな思うたけど、なんや名残惜しゅうなってな。ふふっ、具合の悪い小日向ちゃんが、意識朦朧とした中でも、ずっと俺の手、握って離さへんかったし。ふふっ、驚いた顔して・・・知らんかった?」
制服の襟元から差し入れた手に、ぴくりと身体を震わせた小日向ちゃんが、羞恥で真っ赤に顔を染めながらも、ひたむきに見つめてくる。胸の前できゅっと握り締めた手と、信じる真っ直ぐな瞳に、降参の小さな吐息を零して優しく微笑みかけると、小脇に挟めていた濡れタオルを抜き取り、新しい冷たいものへと交換した。
「とりあえず夏の暑さにやられたら、ちゃんと水分は取らなあかん。一人で飲めそう?」
「・・・んっ、まだあまり力が入らなくて・・・難しそうです」
「困ったなぁ。なら、俺が口移しで直接飲ませたる・・・なんて、冗談や」
「蓬生さん・・・あの、一つだけ甘えても、いいですか?」
「どないしたん、小日向ちゃん」
「えっと・・・その、蓬生さんが飲ませてくれるお水が・・・飲みたいです。キスが心のお薬で、口移しに飲ませてくれるお水が、身体の元気の源だと思うから」
恥ずかしさで真っ赤に染まりながらも、横たわる膝の上から真っ直ぐに見上げる瞳。トクンと高鳴る鼓動が全身を巡り、理性を溶かす熱さが沸騰する。静かに抱き起こして自分の胸に寄りかからせると、スポーツドリンクを一口含んで。捕らえた顎を少し上向きにした唇に、そっと重ねてキスをする。薄く開いて待っていた唇の隙間から、浸透しやすい人肌に温められた液体が、想いを宿しながら注がれてゆく。
コクンと飲み下す喉が妖しく上下すると、ふたたび膝を枕に横たわらせる。するとゆるゆる持ち上げられた手が何かを求めて彷徨い、瞳が俺を捜し求めていた。膝を枕に横たわる愛しい宝物を、上から覆うように覗き込めば、俺とあんたを包むヴェールのように、髪がさらりと壁を作る。
俺はここにおるで、そう微笑みながら覗き込めば、すゆるゆる持ち上げられた小日向ちゃんの手が、俺の手を重ね包み、「もう少しこのままで・・・居てくれませんか?」そう小さく囁きながら瞳を閉じた。
えぇよ、俺もあんたの気がすむまで手を握って、ずっとこうしてたい。
触れた手かから気持ちを伝える恋の薬、それは心へ伝えるラブレターやから。