手料理



香穂子の手料理が美味しいのは、料理をしている君がヴァイオリンを弾いている時と同じように、楽しそうにしているからだと思う。ことこと煮込む鍋の声や、軽快に弾む包丁の音に合わせて歌を口ずさみ、ふいに俺を見上げ鼓動を高鳴らせるんだ。冷蔵庫や食器棚などキッチンの中を、くるくると駆け回る姿は、花から花へと蜜を求める蝶のようだな。俺なんて鍋が噴き出さないよう、その場でじっと見守るのが精一杯だというのに。

だが心が溢れる優しく温かな音楽が心地良いように、キッチンに並んで立つ君とふいに視線が交われば、甘くくすぐったい微笑みがどちらともなく生まれるんだ。


「じゃぁまずは、温泉卵を作ろうね。小さなお鍋に沸騰させたお湯があるから、卵をそっと静かに入れてもらえるかな?」
「・・・こうか? だが卵を茹でるのに、火を止めても良いのか?」
「火を止めないと堅ゆで卵になっちゃうから、余熱で大丈夫だよ。香穂子流カルボナーラの最後には、とろとろ卵のお月様が欠かせないから、この作業はとっても重要なの。生クリームを使わない代わりにマヨネーズとバターでコクを出して、それからチーズは市販の粉チーズで充分だよ。ね? 手抜きだけど、これなら蓮にもカルボナーラができるでしょう?」
「簡単・・・ではないが、美味しいと喜んでもらえるように頑張ろう。香穂子が分かりやすくアレンジしてくれたから、本格的なものよりは上手く出来そうな気がする」


調理台に広げられたノートは、料理の苦手な俺の為に香穂子が作ってくれた手書きのレシピ集で、その名も「蓮にも出来る、香穂子の簡単お料理」。手を怪我しないように、なるべく火や刃物を使う量は少なめに。難しい技や高級な食材は必要ない。冷蔵庫の余り物程度と簡単な作業だけで、見た目も良くレストランの味というのが彼女の自慢らしい。

手順と材料はシンプルだが、料理が苦手な俺でも美味しい料理が作れるように、写真や絵と分かりやすい文章で書かれた世界に一冊・・・彼女の味を伝える俺のためだけのテキストだ。 広げられたレシピのノートを差し出しながら、俺の手料理の完成が楽しみだと、早くも試食に想いを馳せて頬を綻ばせているから。キッチンに並んだ食材や調味料を前にして眉を寄せた俺を、微笑みの吐息で見つめる香穂子の視線が頬に熱く照れ臭い。


ヴァイオリンの練習を俺がみるように、料理の勉強は香穂子が先生にと立場が変わる。カラフルなペンで大きく書かれたノートのタイトルのネーミングは、他に何とかならないものか・・・と思ったが、料理が苦手なのは本当の事だから仕方がない。いやそれ以前に、共に暮らしているのに俺が何も出来ないままでは、彼女が病気で寝込んだときに困ってしまう。

先日に香穂子が熱を出した時には、ご飯を作らなくてはと無理して起き出す君を、宥めてベッドに寝かしつけ、残ったスープを温め直したな。一晩休んだらすぐに回復したが、長引いたらどうなっていたことだろう。出来ることなら栄養付くものを食べて早く元気になって欲しかったが、キッチンの惨状を見せては余計に熱を上げてしまいかねない。


「ふふっ、料理をしている蓮がとっても素敵。いつもとは違う真剣な横顔とか、背中が格好良くてつい見とれちゃうの」
「ありがとう・・・と礼をいうべきだろうか、慣れないから少し照れ臭いな。料理をしている香穂子も楽しそうだ、ヴァイオリンを弾いている時に似ている」
「料理を食べてくれる蓮の笑顔を考えながら作っているから、そう言ってもらえると嬉しいな。蓮に『美味しいな』って言ってもらえるように頑張りたいもの。私にとって最高のご馳走は、作った料理を笑顔で完食してもらえることなの。食べ終わったら消えちゃうけど、心もお腹もポカポカ温かく満腹になれたら良いよね。私ね、お料理は音楽に似ていると思うの」
「演奏前には譜面をしっかり読み込み、アナリーゼをする・・・譜面がレシピだとしたら、材料を吟味したり忠実に再現する作業ににているな。だが奏でる音楽が人の数だけあるように、料理も作り手の個性が現れるというわけか。聞き手がいるからこそ音楽が成り立つように、食べてもらう相手に心を届ける気持も同じだな」


うん!と満面の笑顔で頷く頬に、桃色の可憐な花が鮮やかに咲く。ヴァイオリンに乗せて大切な曲を奏でるように、手料理に込めてくれる嬉しい気持ちを、俺も君へ届けたい。心を温めてくれるその笑顔の為に、何かしたいと思うんだ。
音楽と同じく料理も心なら、心弾む笑顔が交わる俺たちも魔法の調味料に違いない。

ヴァイオリンの呼吸であるボウイングのように、タマネギとニンニクの欠片をみじん切りにする曲のフレーズが、君は軽快に俺はゆっくりとアンダンテに。ベーコンは適度に切るそうだが、適度と言うのは難しいな。香穂子はどれくらいだろうかと、隣の手元を覗き込む緊張感は、ノートの答えをそっと覗き込み答え合わせをする気持に近いだろうか。


パスタが茹で上がるのを待つ第二楽章に突入すれば、俺にとって最大の難関である炒め物の音が賑やかさを増し、いよいよ迫るクライマックスを知らせてくれる。火加減や塩加減を吟味する香穂子の視線は、楽しい中にも妥協が無く真剣そのもの。良いものの為には努力を惜しまない・・・そんな君と共に作り上げているから、楽しいと心から感じるのだろうな。


「お料理が楽しいもう一つの理由はね、キッチンにはたくさん音があるからなの。さぁ蓮に質問です! 冷凍後の中から音が聞こえてくるんだけど、どんな音楽だと思う?」
「冷凍庫? 冷蔵庫じゃなくてなのか。氷が凍る音だろうか、肉や魚は凍っているから音と言うよりも眠っているように見えるが。元気がありそうなのは、香穂子の大好きなアイスクリームくらいだな・・・。すまない、降参だ」
「う〜ん、近いところまで行ったけど惜しい! 正解はね、冷凍庫だから凍らすで『コーラス』、合唱だよ。ね?音楽でしょう?」


耳を添えた手の平を冷凍庫に向けながら、涼しい音が聞こえるでしょう・・・と。そう悪戯に頬を綻ばせ、手元にあったスプーンを取り、近くにあった皿やボウルを軽やかに叩き始めた。透明な音色がカチンチリンとリズム良く響く最後には、背伸びをした香穂子の唇が、俺の頬に柔らかく触れた恋の音。

呼吸も鼓動も一瞬止まり、腰を抱き寄せ俺の方からキスを送ろうとした時を狙うように、待ったをかける吹き零れた鍋に慌てて我に返るのはいつもの事だな。キッチンでは気をつけなければと心に誓っているのに、俺たちのキスは呼吸と同じだから、触れなければ俺の心が君を求め溢れてしまいそうだ。

慌ただしく火を消し止め、ほっと安堵の吐息を零す香穂子に謝ると、照れ臭そうにはにかむ君も悪戯を詫びて。真摯に流れた沈黙も、やがてどちらとも無く生まれた微笑みに、互いの顔が自然に惹き寄せ合い、仲直りのキスがそっと甘く重なった。


「半熟ゆで卵とパスタのお湯は、熱いから気をつけてね。火傷しないようにね!」
「香穂子が書いてくれたこのノートによると、先程炒めたこのフライパンで、パスタと調味料を絡めるんだったな。仕上げの粉チーズは、たくさんかけた方が良いのか? 香穂子はチーズ料理が好きだろう?」
「うん! 私の分にはこれでもかってくらい、チーズはたっぷりかけてね。多い方がきっと美味しいと思うの。さすが蓮だね。最初は危なかったけど、だんだん手際が慣れてきたみたい。でも慣れた時こそ慎重にね」


ヴァイオリンもドイツ語もウイーンで生活や街の事も、俺が香穂子に教えることが多かったが、逆に教える事があるのが嬉しいのだろう。自信たっぷりに胸を張るキッチンでは、確かに彼女の方がプロでありホームグラウンドだ。

背後にある食器棚から、二枚の皿を取り出してくれた礼を述べて受け取ると、パスタを盛りつけ希望通りにチーズを振りかけてゆく。俺の腕を掴みながら、ぴったりとくっついて手元を覗き込み、じっと見つめる嬉しそうに輝く大きな瞳が、もういいよと言うまでチーズの粉雪をたっぷりと。

パスタが見えなくなってしまったが、こんなに振りかけても良いのだろうか。無邪気な笑顔が見られるから、つい皿ではなく君を見つめてしまうな・・・俺も気をつけないと。君と一緒の料理は、どうやら理性と忍耐も試されるようだから。


「卵をお鍋から取り出したら、そっと割ってパスタに乗っけるの。・・・そう! 卵のプルプルお月様が美味しそう〜!最後に黒胡椒を振りかけたら完成だよ」
「・・・待ってくれ。香穂子が書いてくれたこのノートには、最後にもう一つ項目があるぞ。最後の仕上げに、愛情のスパイスをふりかけたらできあがり!?  一体何を入れるんだ?」
「そうなの、お料理に大切なのは愛情だと思うの。私はね、胸に手を当てて蓮の事を思い浮かべているんだよ。その両手でハートマークを作ったら、透明な卵を割るみたいに、そっと料理の上にきらきらの想いを振りかけているの。でもそれは私のやり方だから、あえて蓮のお料理ノートには書かなかったんだけど。ふふっ、蓮がどんなスパイスを振りかけてくれるのか、凄く楽しみだな〜」


同じ手順で作ったはずなのに、明らかに香穂子の皿の方が美味しそうに見える。経験の差だけではなく、目の前で実際に手で作ったハートから、俺に想いを込めてくれたからなのだろう。本当は内緒でやるから恥ずかしいのだと、桃色の頬で上目遣いに振り仰ぐ視線に、俺も熱く茹だってしまいそうだ。深呼吸を一つして、まずは落ち着かなければ。

早く試食したいとそわそわ肩を揺らしながら、少し上を向いて口を開ける仕草は雛鳥に似ていて、愛らしさに頬が緩んでしまう。そうだな・・・俺も早く食べたい、料理だけではなく君の甘い唇が。香穂子、少しだけ目を瞑っていてくれないか?

さすがに手でハートを作るのは照れ臭いから、俺は俺のやり方で手料理の想を込めて君に届けよう。
嬉しそうに緩む微笑みのまま瞳を閉じ、じっと待つ香穂子の腰を攫い腕の中に抱きしめる。突然の抱擁に驚き身動ぐ君を逃がさず捕らえたまま、覆い被さるようにしっとりと深く唇を重ねてゆく。メイン料理の前に、とびきり甘いデザートを出してしまっては、順番が違うと頬を膨らましてしまうだろうか。だが、甘いものは別腹なんだろう?


「んっ・・・・」


新鮮で新しいことに事の連続に戸惑うが、音楽も料理も自分が苦手なところを認める所から、上達への新たな一歩が始まると思う。香穂子が作る手料理には敵わないが、日ごろの感謝を込めて彼女を喜ばせたい。それに料理を覚えれば・・・その、熱い夜を過ごして無理をさせてしまった朝も、君をゆっくりとベッドで休ませることもできるだろうから。