たった一度のチャンス

寝室の窓から朝日が差し込んで、ベットの白いシーツに眩しく照らす。
その透明な光に包まれながら、愛しい人の温もり溢れる腕の中で目覚める朝は、幸せのひと時。
寄り添う胸から聞こえるあなたの規則正しい鼓動を、私を安らぎに導く目覚めの音楽に聞きながら。





寝ている間もしっかり抱き締められているから、互いの身体はぴったりくっ付いていているの。
目を開ければ額と鼻先が触れ合う近さにある、彼の寝顔。
長い睫毛が閉じられた両瞼に影を落とし、形の良い唇からは穏やかな寝息が漏れ聞こえてきて。
微かに掛かる吐息のくすぐったさを肌に感じるたびに、疼くような甘い痺れが身体中を駆け巡り、身を捩りたくなってしまう。

彼の無邪気であどけない寝顔だけを見ていたら、もう一つの顔である情熱を見せて私を焦がし、激流の渦へと私を飲み込んで夜毎に翻弄するなんて、ちょっと誰も想像つかないかも知れない。
だからなのかな? この寝顔を見ると、翌朝どんなに身体が重くて動けなくても、つい憎めなくて。
癒されるような、穏やかで温かい気持になるの。


寝顔に向かって微笑むと、白く滑らかな頬にそっと手を伸ばして、優しく囁きながらピタピタと叩いた。


「おはよう、朝だよ。蓮、起きて〜」
「・・・・・・・・・」
「ねぇ、蓮ってば〜」
「・・・・・・・・・」


声をかけても何度揺すれども、寝起きの悪い旦那様は一向に起きる気配が無い。
それどころか、しっかり抱きかかえられているから、私自身も身動きが取れなくて困ってしまう。



本当は私だって、できればこのまま腕の中に包まれて温もりに浸りながら、ずっと彼の寝顔を眺めていたい。けれど、私もけっこう忙しいのだ。
朝ごはんの用意をしたり、お掃除にお洗濯。それに玄関先や庭の花の手入れなども・・・他にもいろいろ。
今日は蓮の仕事が休みだけれども、ゆっくり寝ている訳にもいかないの。
せめて、この腕だけでも解いて欲しいのに。



「朝ごはん作るから支度させて、ね? 一緒にご飯食べよう? だから、起〜き〜て〜!」
「・・・・・・・俺は、香穂子が食べたい・・・」
「なっ・・・ちょっと、蓮!  寝ぼけてるの!? 起きてるの?」


爽やかな朝の目覚めに不似合いな台詞を耳元で吐息と共にボソリと呟かれ、思わず絶句して目を見開いた。


えっ! た、食べるって・・・私を!?


一気に噴出した熱が頭の先から爪先までを怒涛の如く駆け巡り、今にも火を噴きだしてしまいそう。顔に集まる熱と激しく高鳴る鼓動も、押さえたいのに高まるばかり。しかもぴったりくっついているから、このままではきっと彼にも気付かれてしまう。熱が移って火が付いちゃったら、ますます離してもらえなくなるじゃない。


恥ずかしさは焦りを生み、早く目覚めて欲しいと肩を掴みながら強く揺さぶると、気だるげにゆっくり瞳を開けた彼が覆い被さってきて、肩を揺さぶる私を押さえ込むように抱き包まれた。
押しても叩いてもびくともせず、再び瞳はゆっくり閉じられてゆき・・・そのまま眠ってしまったように見える。




けれども・・・・。
毎日蓮の寝顔を見ているから、本当と嘘寝の区別くらい、ちゃんと付くんだからね。
こうなったら、最終手段よ。私にはもう後がないの。
引き締まった胸に顔を埋めながら身体を預けて、演技力を尽くして悲しそうな声をだして・・・と。




「・・・私って、駄目な奥さんだよね・・・。いつも蓮の優しさに甘えて、朝の支度もして上げられないなんて・・・」
「そんな事は無い!」
「・・・やっぱり、起きてた」
「いやっ・・・す、すまない。もう少し、このままでいたかったから・・・つい・・・」


やっぱり起きていたようで、覆い被さったまま状態を勢い良くがばっと起こすと、真上から瞳を見つめてきた。しかし罠に掛かったと気付くと、バツが悪そうに表情を歪ませて、みるまに頬が赤く染まってゆき・・・。
しどろもどろに言葉を詰まらせ、濁している。


私がむっと膨れているから、余計に焦っているみたい。
もう・・・。起きていたなら、ちゃんと言ってくれればいいのに。
私一人で、びっくりしちゃったじゃない・・・まだドキドキしてるんだからね。


「あったかい朝ご飯を、二人で一緒に食べる。一日の始まりだから、家族が揃って食べるのは、とても大切な事なんだよ。朝からだらだらしちゃ駄目っ、けじめは大事。それに今日は、一緒にお出かけする約束でしょ?」
「もちろん、今日の約束は覚えているよ。温かい家庭を作ろうと、いつも君が俺に伝えようとしてくれてることも」


私を見つめる瞳が、すまなそうに切なさを帯びて歪められた。
蓮はいつもどんな時も、私の言葉を真摯に真っ直ぐに受け止めてくれるから。
ちょっと言い過ぎたかな・・・。
悲しい顔しないでって伝えたくて、真上にある顔に手を伸ばすと、そっと両手で頬を包み込んだ。




お互いが育った環境という違いもあるから、私と蓮がもつイメージは違うかもしれないけれど。
私が持つ温かい家のイメージを、何とかして彼に伝えたいと思う。
いつも家族が側に居て、揃って温かい食事を取ること・・・ささやかだけど、とても難しくて大切なんだよ。
だって彼には、温かさをもっと感じて欲しいんだもの。今までの分まで、もっともっとたくさんに。
これからそれを伝えるのは・・・作っていくのは私の役目なんだから。


それよりも、このままいつもみたく蓮のペースに巻き込まれるが、一番困るんだってば。
ただでさえ身体が重いのに、これ以上は・・・本当に動けなくなっちゃうんだもの・・・・・。


「さっきの言葉も、嘘じゃなくて私の確かな気持なの。蓮がお仕事の疲れを癒してもらえるように、また頑張ろう〜って思ってくれるようにって、蓮とこの家の中を守るのは私の仕事。世界のヴァイオリニスト・月森蓮の奥様として恥ずかしくないようにね」
「香穂子・・・・・」
「ね? だから離して欲しいな〜って・・・・きゃっ!」
「ありがとう。香穂子の気持が、とても嬉しい」




強く引き寄せられ、気が付いたら次の瞬間には広く引き締まった胸の中。
押し付けるように強く閉じ込められて、息も出来ない。
熱い吐息となった彼の想いが、吹き込まれた耳朶だけでなく心をも激しく揺さぶる。


「毎晩無理をさせているから、君に負担をかけているのは承知している。だが愛しい君を求める気持が溢れすぎて、押さえる事ができないんだ」
「蓮・・・・・」
「なのに香穂子は、朝早くから遅くまで本当に良く頑張っていると思う。いつも俺は、君に感謝せずにはいられない。だからせめて、俺の仕事が休みの時くらいは朝だけでも、ゆっくり休んで欲しい」
「その言葉と気持だけで充分だよ・・・・・・・って、蓮? ちょっと!?」


耳朶から下がり降りた唇がゆっくりと首筋を辿り、さらさらの髪の毛がくすぐったさをもたらす。身を捩って思わず仰け反った喉に顔が埋められ、きつく吸い付かれる感触に痺れが走った。


えっ・・・そんな、まさか!?
せっかくの起きるチャンスが、もしかして逆効果だったの!?
どうしよう・・・正攻法の説得なら聞いてくれると思ったのに、彼の心に火をつけちゃったみたい・・・・。


「ん・・・・っやっ・・・・。起きてくれるんじゃ・・・というか、休ませてくれるって・・・さっき言わなかった?」
「確かに言った。気にせずゆっくり休んでくれ」
「蓮ってば、言ってる事とやってる事が・・・んっ・・・全然違うよ!」
「朝から可愛く起こされ、その上あんなに嬉しい事を聞かされたら、愛しさのあまり俺の心が壊れてしまいそうだ。高まる心のままに君が欲しいと・・・抱きたいと思う。駄目だろうか?」
「だめっ! 朝だってば! う・・・嬉しいけど、これ以上は私・・・本当に起き上がれなくなっちゃう・・・。蓮とお出かけ・・・したいのにっ・・・・」
「香穂子・・・」


耳朶を甘噛みされて切羽詰ったように囁かれる言葉と、熱く甘い吐息は、ぞくりと背を走り抜ける恋の媚薬。
身動ぐ力と意識を吸い取られ、ぼうっと霞む視界に映しだされるのは、あなただけ。
身も心も痺れてあなたに任せ、虜になるの。


何か言わなきゃ・・・。
朝ごはんよりも、私が先に食べられちゃうよ。
そう思って僅かに開いた唇を塞がれて、吐息ごと熱い舌に絡め取られた・・・・・。








「香穂子・・・・」
「・・・・・・・・・」
「すまなかった。こっちを向いてくれないか?」
「蓮なんて、知らないっ!」
「香穂子・・・お願いだから、俺を見てくれ。朝に君の笑顔を見ないと、俺の一日は始まらない」


すっかり身支度を整え終わった蓮が、ベッドの枕元に腰掛けて、先程から何度も私に呼びかけている。
朝ではなくて、もうお昼なんだけど。
彼に背中を向けながら、拗ねてそう心の中で呟いてみたり。
縋るような瞳で見ているって分かるから、心が痛むけれど、そっち向いてあげないんだから。




結局朝ごはんよりも先に、私が美味しく頂かれてしまった。

私は起き上がれなくて身動きが取れず、まだ素肌の上に、蓮のパジャマを上だけ羽織ったままの姿だ。
なのに彼は元気そのもで、朝の気だるさは何処へ行ってしまったのやら・・・。
その差が本当に食べられてしまったみたいで、ちょっとだけ悔しく感じてしまう。
困らせてみようと思っても、仕方が無いと思わない?




「蓮は私の作った朝ごはん、いらないんでしょ」
「俺は香穂子が食べたいとは言ったが、香穂子の手料理が食べたくないとは、言ってない。どちらも食べたかったが、あの時の優先順位の話であってっ・・・・・。あっ・・・いや、そのっ・・・・・」
「・・・・・や〜っぱり、初めから起きてたんじゃない〜。本当はもっと早く、私の寝顔から見てたんじゃないの?」
「香穂子っ・・・・!」
「もう起こしてあげない」
「それは困る!」


背中で感じる声色から、必死に謝る彼の表情と、寂しそうな子犬の瞳まで見えるようだ。
さすがに気の毒になってきたかも・・・お仕置きはもう良いかな、反省した?

じゃぁね、あなたにも私からチャンスをあげる。たった一度だけのね。
私が欲しいものをくれたら、許してあげるよ。


だるくて重い身体を何とか腕で支えながらくるりと寝返りを打つと、すぐ目の前には彼の顔。
振り向いた私を見て、硬い表情がホッと緩むのが分かった。
そんな彼の表情が私の心にも、ふわりと柔らかさと温かさをもたらしてくれる。
枕元に腰を降ろしてベットに手を付き、身を乗り出すようにして私を見つめていた琥珀の瞳に微笑みかけた。


「許してあげる代わりに、私の3つのお願い、聞いてくれる?」
「あぁ、もちろん」
「もうお昼になっちゃったけど食事の支度、一緒に手伝って欲しいの」
「俺に出来る事なら、喜んで手伝うよ」
「それと午後からのお出かけ。久しぶりに蓮とのデートだから、とっても楽しみにしてたの。でもすぐには動くのが無理そうで・・・必ず行きたいから、ちょっと時間くれるかな?」
「ゆっくり休んでくれ。それまで、ずっとここにいるから・・・・」
「最後はね・・・・。おはようのキスは、もっと優しくして欲しいな」


ちょっと甘えた声音でそう言うと、柔らかく瞳を緩ませて、向けられる微笑が一層深いものに変わる。
きしりとスプリングが軋み、腕を突いて傾けた上体を支えながら、覆い屈むように身体を寄せ。
私の額に掛かった前髪を優しく払いのけると、大きな手を乗せて癒すように包み込んだ。



心地良い感触に目を細めると、聞こえてくるのは、降り注ぐ日差しのように優しい彼の声。
私が一番欲しかった、大好きな微笑と共に・・・・・。

温かく柔らかい唇が、ふわりと私のそれに優しく重なった。




「おはよう、香穂子」
「おはよう・・・。蓮のこと、許してあげる。な〜んてね、最初から怒ってないよ。だって蓮は大好きだもの」


ゆるゆるとシーツから覗かせた手が、そっと包まれる。
大切な宝物を扱うように・・・。
ふわふわの羽根で包まれるように・・・・でもしっかりと、強く。