例えば君がいなくなったら

ふいに朝早く、何も用事がないのに目が覚める事がある。ベッドに再び潜らず気分転換に庭先へ出たり、学校で朝練習しようと早めに出かけると、すがすがしい朝露に出会えるんだ。青々とした草の先端に実る、ほのかに輝く水の玉。昼間はただの草なのに、日が昇りきらない時間に見ると宝石のように輝いている。

朝露は、空気中の水蒸気が水滴となったもの。あるいは地中から吸い上げた水分が、葉の外へでたものだと言われている。いわば植物の汗と言ってもいいだろう。


そっと触れれば透明感溢れる雫が弾けて、伸ばした指先を冷たく濡らした。
日が昇りきると消えてしまう儚い朝露は、早起きをした者しか出会えない貴重な宝石だ。


どこまでも透明で、清らかな雫に満ち足りた幸せを感じるのはなぜだろう。真っ直ぐな瞳から溢れる君の涙や、夜明け前にしか見られない葉の雫は、まるで眠る君がまとう汗の輝きに似ているからだと思う。
浅く荒い呼吸が吐き出す熱い空は肌に纏う汗に、身体の中から吸い上げる熱さは瞳に浮かべる涙となって。
狂おしく俺を惑わせる甘美な露・・・行為の最中に生まれる夜露は、安らぎと共に煌めく朝露へと姿を変えた。

早起きをした者の幸福・・・甘く優しい君の朝露を味わう為に、俺は君の眠りを守りたい。
閉じられた瞳の端に浮かんだ煌めく雫を指先で拭い去り、湿り気を帯びて輝く首筋にそっと唇を這わせる。


「香穂子・・・」
「・・・・・・ん、ん〜っ・・・・・・」


互いの熱を伝えあい、貪りながら与え合う・・・。
ベッドの上で行われる二人だけの行為に疲れ果てた香穂子は、俺の腕の中へ納まるなり、蕩けた眼差しをゆっくり閉じて微睡み始めてしまった。暫くあどけない寝顔を眺めていたが、穏やかさと温もりに誘われ、いつの間にか一緒に眠ってしまったらしい。慌ててベッドサイドの時計を見たが、まだ時間がある事にほっと溜息を漏らしつつ、はだけたシーツを引き上げ抱き直す。それでも彼女は、相変わらず心地良さそうに眠ったままだ。


「もうそろそろ、起きてくれ。帰りがまた遅くなってしまう」
「ん〜、あとちょっとだけ・・・」


耳元での囁きに瞼を震わせうっすらと瞳を開いたものの、小さくあくびをかみ殺してころりと寝返りをうち、俺の胸へとしがみついてしまった。駆け巡る甘い痺れが理性を崩してしまうから、優しく引き離して頬や鼻先を軽く噛んだり啄んだり。やがてくすぐったさに身を捩りながらゆっくり開かれた、視界いっぱいに映る大きな瞳。
ぼんやりと霞む意識が焦点を結ぶより早く嬉しそうに微笑み、背伸びして額と鼻先を愛撫するように擦り合わせてきた。


「おはよう〜蓮くん・・・」
「おはよう、香穂子。よく眠れたか? と言っても、もう夕方なんだが」
「ん〜さっきお昼過ぎだったような気がしたのに、早いね。残念、もっと眠っていたかったな〜」
「すまない、疲れている時には休ませてやりたいんだが・・・」
「うそうそ、違うの! 蓮くん、我が儘言ってごめんね。私だけが寝てたら起きてる蓮くんを一人ぽっちにさせちゃうし、もう帰らなくちゃいけないもんね。ちょっと寂しかったの・・・」


ごめんねと謝りながら風船のように赤く膨らませていた唇をしゅんと萎め、拗ねていたのは演技だったのだとそう言って。両肘で支えるように半身を起こす香穂子は、困ったように微笑む俺へ、切なげな瞳を揺らしながら真っ直ぐ見つめてくる。可愛らしい君を、ますます手放せなくなってしまうじゃないか。


よく眠れたかと聞いておきながら、穏やかな眠りを妨げたのは俺。
元を正せば、眠りを欲する程疲れさせたのだから、一番困らせて矛盾しているのは香穂子でなく俺だろう。
寝顔を守りたい・・・そう思って眺めながらも、早く起きて欲しさに君を心ゆくまで啄んだのだから。
君が謝る必要など、本当はこれっぽちもないのに。

香穂子が言いたい気持は俺も同じだから、痛い程分かる。一人で眠る夜よりも、二人で共に抱きしめ合う束の間の微睡みの方が、どんなにか心穏やかに眠れるだろうか。日が傾く黄昏時だが、俺たちにとっては大切な目覚めに違いない。


「怒ってないから、俺こそすまなかったな。どこか辛いところは無いか?」
「うん、平気だよ。温かい蓮くんに包まれながら、とっても凄く気持ち良く眠れたもの」


ゆるゆると持ち上げた腕で背中を抱き寄せ、腕の中へ優しく引き戻した。互いの素肌が触れ合う温もりだけでも充分に温かいが、香穂子が風邪を引いては大変だ。はだけたシーツを引き上げ、むき出しになってすっかり冷えた彼女の肩先にかけると、同じようにシーツの端を持って俺の肩へも覆いかけてくれる。熱く駆け抜けた一時が身体を繋ぎ合わせたのなら、共にまどろむ今は二つの心を溶け合わせる時間なのかも知れないな。


一つのシーツに包まる幸福・・・。
視線を絡ませ、重ね合わせる鼓動から伝わる音色が安らぎをもたらす。

次第に赤く染まってゆく香穂子の唇へ、緩めたままの微笑みでキスを送ればピクリと震る。目覚める前に纏っていた雫のように甘い、俺を蕩かす溜息が零れ落ちた。きゅっと胸にしがみつき、頬をすり寄せるたびに肌を這う髪がくすぐったい。指先に絡めて撫で梳き宥めれば、頬を綻ばせてちょこんと振り仰いだ。


「私が目覚めると、いつも蓮くんが見守ってくれているでしょう? 私ばっかりじゃなくて、たまには蓮くんの寝顔も見たいのに。だからね、今度こそ先に起きよう・・・寝ないようにしようって頑張ってるの。でもすぐに寝ちゃうから、いつも蓮くんを一人ぽっちにさせちゃう」
「俺の事は気にしなくていい、眠っている君を眺めるのは何よりもの幸せだから。それに疲れているなら、無理せず休んだ方がいい。いや・・・俺がいうべき台詞ではないな、その・・・すまない」


自分のせいだとの恥ずかしさから、ふいと背ける顔に耳まで熱さが募ってゆくのが自分でも分かる。視界の端で捕らえる香穂子も、きょとんと目を丸くしていたが、意味を察したのかそわそわ身じろぎ移った熱さで頬を赤く染てゆく。どんなに肌を重ねても・・・一つに溶け合っても。初めての頃と変わらない想いと煌めきが、互いの心でくすぐったく疼くんだ。


どちらとも無く視線を重ね、心に生まれる温かさを微笑みで伝え合いながら、腕の中から伸ばされた香穂子の手を握りしめる。ヴァイオリンを奏でる為に堅くなった指先一本一本へ口吻を送ると、この手を離さないという誓いを込めて、自分の指先としっかり絡め合った。


「今日はね、ちょっぴり早起きが出来たんだよ。とっても素敵なものが見られたの!」
「何を見たんだ?」
「あのね、月の雫なの」
「月の・・・雫?」
「草花とかにつく、きらきらした朝露のことなんだって。夜空を照らすお月様の涙・・・うぅん、光る汗にピッタリだよね。さっき一度目を覚ました時、蓮くん眠ってたんだよ。まだ乾ききっていなかった汗が、肩とか鎖骨の辺りに雫を作ってて。それが窓からの光を浴びて、蓮くんごと宝石みたいに輝いてた・・・凄く綺麗で見とれちゃったの!」


初めて聞いた言葉に眉を寄せて聞き返すと、俺が知らなかったのが嬉しいらしく、満面の笑みで大きく頷いて。
秘密の内緒話をするように、瞳を輝かせる香穂子がこっそり囁いてきた。


「そう・・・だったのか、雫は植物の汗ともいうからな。俺も、君の雫を眺めていたんだ」
「でもね、もう一度目が覚めて蓮くんが起きたら、宝石が消えちゃったの・・・もう一度見たかったのに。朝が来るって待ち遠しいけど、どうしてこんなに切ないんだろう。ねぇ、私の雫もキラキラしてた?」
「あぁ、とても綺麗だった。眩しくて、愛しくて・・・触れると俺の心まで透き通るようだった。だが俺だけの君が、消えてしまうような気がしたんだ。日が昇ればすぐに露が消えて、輝く宝石が見慣れた草原に戻るように。誰にでも優しく、明るい笑顔を向ける香穂子に戻ってしまうのかと」
「消えないよ・・・見えなくなっても、キラキラは心の中にちゃんとしまってあるもの。だって私にキラキラの月の雫を生み出してくれるのは、蓮くんだけだもの。蓮くんだって、そうでしょう?」


ふわりと、だが力強く微笑む君。
だがもう少しで、この腕の中からいなくなってしまうじゃないか。
朝を迎えて消えてしまう露のように、熱く甘く輝く君が、無邪気な愛しさ溢れるいつもの君に戻ってしまう。
明日になればまた会えると分かっていても、離れがたい想いや身勝手な独占欲が止められない。



朝露が輝きの宝石でいられるのは、ほんの僅かの間だけ。
草についた露を大切に持ち帰っても、それはただの水になってしまうように・・・宝の玉手箱は持ち出してはいけないんだ。この、俺の部屋の中から。
香穂子が甘い朝露でその身を輝かせるのも、俺の腕の中にいる時だけなんだ・・・そう俺だけが。


黄昏時の夜明け・・・俺たちの朝日が昇ったら、君という雫は儚く消えてしまうのだろうか。
人が起き出す頃には儚く消えてしまように。
指先や触れ合う肌を濡らした熱い潤いごと、どうか消えないで欲しい。


もしも君がいなくなったら、大事に取っておいた透明で透き通っていた月の雫も、霧のように濁ってしまうだろう。
それ以前に、夜明けなどやってこないと思うから。再び覆い被さり深く抱き締めながら、唇を重ねて呼吸を奪う。俺にの背に強くしがみつく香穂子が、キスの合間に蕩けた眼差しで浅く早く酸素を求めながら囁いた。


「消えないよ、ずっと。朝露は何度でも生まれるから・・・だから消さないで」


朝露はただの水になってしまうけれど、心に染み込んだ愛しさや温かさは消えることはない。
いつまでもまた何度でも、二人だけの夜明を迎えよう。