試さずにはいられない
放課後、いつもより長く時間がかかったホームルームが終ると、俺は手早く荷物を纏めて教室を飛び出した。
練習室に向かいながら早足はいつしか駆け足になり、そして数段飛ばすように階段を駆け上がり・・・。
逸る心のままただ一心に前を目指すのは、きっと君はもう既に来ていて、俺の事を一人先に待っていてくれると思うから。心を占めて想うことは唯一つ・・・早く君に会いたい。
切れた息を整えながら重く厚い練習室の扉をゆっくり押し開ければ、弾けるような君の声が聞こえてきた。
「蓮くん!」
窓辺に寄り掛かっていた香穂子が飛ぶように壁から背を離し、笑顔で駆け寄ってくると、まだ切れた息が整いきれていない俺をきょとんと見上げてくる。
「蓮くん、もしかして走ってきたの?」
「あぁ・・・ホームルームが長引いてしまったんだ。待たせて、すまない。遠い普通科校舎から急いで練習室にやってくる香穂子が、先に待っていると思ったから・・・。いや・・・俺が少しでも早く、君に会いたかったんだ」
「嬉しい! でも、急いで怪我でもしたら大変だから、焦らずにゆっくりでいいからね」
「いつもと逆だな。それは毎日走って練習室に駆け込んでくる君に、俺が言っている台詞だ」
「本当だね。急がなくていいからって、私に言う蓮くんの気持がちょっと分かったよ。蓮くんも、私が走ってくる気持が分かったでしょう?」
汗かいてるよとそう言って、ポケットから取り出したハンカチで俺の額を優しく拭ってくれた香穂子が、後ろに組んだ手を伸ばしながら、胸元で俺をまっすぐ見上げてくる。
君の気持が良く分かったと笑みを向ければ、でしょう?と悪戯っぽさを漂わせて小さく笑った。
ピアノの足元に鞄を置きヴァイオリンのケースを開けていると、窓辺から聞こえてくるのは、ぶつぶつと呟くような・・・深く考え込んで唸るような香穂子の声。そういえばまだ、ヴァイオリンの準備もしていないようだが。
手を止め立ち上がってふと声のする方見れば、俺が来た時と同じように窓辺にもたれかかりながら、眉根を寄せて難しい顔をしている。自分の二の腕の下辺りを反対の手で触りながら、上を向いたり下を向いたり、首を捻って何やら深く考え込んでいたり。それだけでなく嬉しそうな顔をしたと思えば、突然シュンと悲しそうに俯いてしまい・・・一体どうしたのだろう。
隠し事が苦手な君はすぐに表情に出るから、考え事や悩み事をしているのはすぐに分かった。
具体的な内容までは分からないけれども、目の前でくるくると変わる表情を見ているのが楽しくて、君に吸い寄せられた俺はじっと魅入ってしまうんだ。
夏も近く、薄着の季節になってきたからだろうか?
香穂子が気にしているのが女性の心のデリケート部分ならば、見て見ぬ振りをすべきだと思うのだが・・・。
君はその・・・気にするまでも無く、今でも充分に魅力的だと俺は思う。
しかし君に早く会いたくて急いで来たのに、放って置かれて寂しい気持もあるのは確かで・・・どちらかと言えば今はそちらの方が大きいかも知れない。
「香穂子・・・先程からずっと、何をしているんだ?」
「う〜ん・・・気になっている事があるんだけど、自分じゃ良く分からなくて。あっ、でも蓮くんは男の子だから、女の子の深遠な悩みは分からないだろうし・・・」
「俺が分かるかどうかは、言ってもらわないと答えようが無いな。出来る限り、君の力になりたいと思う」
だが分からない確立の方が遥かに高いと、自分でも思う。
ごにょごにょと言葉尻を濁して君も困ったように曖昧に微笑んでいるのだから、俺もここで深く踏み入れずに通り過ぎれば良いのに、何故だか気になり聞かずにはいられなくて・・・。
それは何かは分からないけれども、胸の高りと俺の心が告げる、予感に近いものかも知れない。
俺を黙って見つめながら暫く悩んでいたものの、目を輝かせてポンと閃きの手を叩くと、ピアノの側で佇んだままの俺の元へ駆け寄ってくる。
「ねぇ、蓮くん。腕、触らせて!」
「腕? 俺の?」
「そう、蓮くんの二の腕。あっ、ジャケット脱いでもらえると嬉しいな」
「別に、構わないが・・・・・・」
質問の内容と意図が掴めないながらも、香穂子の頼みなら断る理由も無い。
期待に大きな瞳を輝かせて待つ君の為にと制服のジャケットを脱ぎ、簡単に折り畳んで閉じたピアノの蓋の上に置く。どうぞ・・・と瞳を緩めながら微笑んで彼女に右腕を差し出すと、ありがとうと笑みを返し、彼女の両手がそっと伸ばされ、俺の上腕を包むようにおずおずと握り締めてくる。
「うわーっ! 凄いね、筋肉で引き締まってる。男の人の腕だね、私とは全然違う。ちょっとドキドキしちゃうよ」
「ヴァイオリンを弾くのには意外と筋力を使うんだ。腕だけでなく全身の筋力やバランスが必要だから、日々練習を重ねるうちに、自然とついてくるのだろうな」
始めは興味深そうに俺の腕の筋肉やら感触を確かめていただけなのだが、気が付けば腕にしがみ付いて頬をすり寄せてくる。どこか嬉しそうにはしゃぎ出す香穂子に、くすぐったさと照れくささが次第に込み上げて。
腕から直接感じる彼女の柔らかさと温かさが俺の中に熱さを生み出し、全身へと勢い良く駆け巡っていくのが分かる・・・自分の耳から聞こえる高鳴る鼓動と共に。
「ねぇ、蓮くん。ちょっといいかな?」
「えっ!? ・・・・・・・っ!!」
腕を離した香穂子が、返事を待たずに今度は正面から抱きついてきた。背に回した手に力を込めてしがみ付き俺の胸に頬をすり寄せて、まるで先程の腕と同じように感触を確かめているようだ。
しかしこれは・・・その、香穂子の持つ疑問と関係があるのだろうか?
それとも、ただ甘えているのだろうか?
「か、香穂子っ・・・!?」
普段は恥ずかしがるのに、今日はいつになく積極的な君に、戸惑いを隠せずうろたえる事しか出来ない。
本来ならば嬉しいのだが、一体どうしてしまったのだろうか・・・香穂子は俺の何が知りたいのか・・・。
教えてくれ・・・俺だって、君の考えている事が知りたいと思う。
心の中ではいろんな想いが交錯するするけれども、もう当初の質問や理由などはどうでも良くなっていて。
我慢の限界を訴え、薄皮一枚で繋がれている切れそうな理性を必死に繋ぎ止めながら、俺も嬉しそうに抱きついてくる彼女の背に手をまわし、そっと抱き締めた。
「うわ〜同じだ! やっぱり本当だったんだ!」
「香穂子・・・その・・・何が同じなんだ?」
「えっ!? な・・・内緒っ!」
「ならば・・・教えてくれるまで、君を放さない」
「れ、蓮くん〜・・・・。い、言わなきゃ駄目かな〜?」
腕の中から慌てて振り仰いだ彼女の顔は、火を噴出しそうなほど真っ赤に染まっおり、ぴたりと触れ合った互いの身体から、早鐘を打つ俺のものではない鼓動が直接響いてくる。
だが・・・ここまで俺を熱く煽っておいて、秘密という事は無いだろう?
甘さを漂わせ困ったように・・・縋るように見上げて訴える瞳ごと真っ直ぐ射抜き、華奢な背がしなるほど強く抱き寄せ胸に押し付けた。困らせない程度にと思っているのだが、そんな俺に放してと身じろぎもがきながら、香穂子は腕から抜け出そうと必死だ。
先程はいつになく君の方からしっかりと、俺にしがみ付いてきたというのに・・・。
少しばかり寂しいと感じてしまうのは、君を求めたい俺の我侭なのだろうかと思ってしまう。
それよりも君を悩ませていた質問とやらが、益々気になってしまうではないか。
やがて無理だと諦めたのか大人しく腕の中に収まると、真っ赤に染まった頬と潤んだ瞳で、おずおずと伺うように見上げてくる。言葉を待ちじっと見つめる俺に降参だと小さな溜息を吐くと、あの・・・あのね・・・と言い淀みながら、恥ずかしそうに呟いた。
「二の腕を触った感触って、その人の胸と同じなんだって・・・・」
「・・・・・・っ!」
「クラスの友達から聞いたんだけど、本当なのかなって気になったから、確かめたかったの。でも自分で自分の腕を触っても分からないし、かと言って蓮くんに聞くのはもっと恥ずかしいし・・・ずっと疑問だったんだよ」
「・・・それで、俺の腕を・・・・・・・?」
「うん・・・・・」
ポソリと呟くと恥ずかしさで耐え切れないとばかりに俯いてしまい、耳や首筋まで更に赤みを増した顔を隠すように胸にしがみ付いてしまう。背に噴出し伝う汗のように、心の中へと一気に噴出した複雑に絡まる想いが押し寄せて、俺は飲み込まれそうになりながら。
香穂子から聞かされた答えは予想を遥かに超えるもので、気になっていた胸のつかえが取れたような・・・それでいて、やはり聞かなければよかったような・・・・・・。
きっと俺の顔も同じか、それ以上に赤く染まっているのだろう。
顔だけでなく抱き締める腕も身体も心も何もかもが熱いのだと、触れるまでも無く自分で分かるから。
だが呼吸が苦しく止まるほど激しく高鳴る鼓動も、互いのものだと分かれば次第に安らぎをもたらすものとなり、君と一つになったような・・・穏やかで優しいそんな感覚に包まれてゆく。
そう感じるのは俺だけでなく、君もなのだと直接響いて伝わる鼓動で分かるんだ。
「腕にしがみ付いた時と胸に抱きついた時の感触がね、どっちも同じだったの。引き締まっていて温かくて、私を丸ごと包み込んでくれるような・・・。どうしよう、これから蓮くんの腕を触るたびにドキドキしちゃうかも」
「同じだと言っていたのは、その事だったのか」
「うん! 蓮くんので本当だって分かったから、スッキリしたよ。ありがとう。さっ、遅くなっちゃったけどヴァイオリン用意しなくちゃ・・・って。あの・・・蓮くん? 腕、そろそろ放して欲しいな・・・・・・」
腕の中から晴れやかな笑顔で俺を見上げながら、放して欲しいと愛らしく小首を傾げてねだる香穂子を放す気はもちろん無く、戸惑う彼女を抱き締める力は余計に強まるばかり。
どうして君はいつも俺の心を一瞬で塗り替えてしまうだけでなく、必死に押さえ込んでいるものを、いとも簡単に内側から突き崩してしまうのだろう。
それが嫌という訳でなく、むしろ嬉しいと・・・心地良いと感じてしまうんだ。
「自分自身の事は分かりにくいものだ。香穂子は、自分の答えが知りたいと思わないか?」
「れ、蓮くんので凄く良く分かったから・・・私のは分からなくても・・・その、平気かな」
「君だけが知っていて、俺が知らないのは不公平だろう?」
「そ、そうかな・・・・あんまり私たちの間には、関係ないと思うけど・・・」
「俺も確かめてみたい・・・駄目だろうか・・・」
幸い俺も君もまだ楽器を用意していないし、直ぐにでも帰ることが出来る・・・俺の家に。
興味を逸らそうと必死に笑みを作りながら誤魔化す香穂子の耳元に顔を寄せて、熱くなる吐息と共にそう言葉を吹き込めば、腕の中の身体が一瞬ピクリと飛び跳ね、力を奪われたように静かに動きを止める。
胸元に顔を埋めたままゆっくりと上がった腕が俺の背に廻され、指先の一本一本から順に力が込められていくのは、そう・・・彼女の了解の合図。
気になった事を納得するまで試さずにいられないのは、君だけでなく俺も一緒なんだ。
だから確かめてみないか? 互いの身体で、直接に・・・・・・。