たまにはいいよね

秋の晴れた空は、霞がかった春に比べて青く澄んで見える。優しい秋風に吹かれながら見上げれば、どこまでも広く高い空。夏の太陽が落ち着きを取り戻せば、柔らかな日差しと穏やかな静寂がやって来る。
秋はもの悲しい季節と言うが、俺は好きだ。


ヴァイオリンの音色もよく響くし、暑くも寒くもない過ごしやすい気候。木々が赤や黄色に色づき、最も美しくなるのが秋。食物も実りの時期を迎えるから、美味しいものに目がない香穂子は毎日嬉しそうだ。
隣にいる君が楽しそうだから・・・好きだと言うから心が浮き立ち、俺もそう感じるのかも知れない。
香穂子と生活を共にするようになり、同じ歩みで同じものを見る機会が増えてから、俺の目に映る景色の色が変わったと思う。


休日の午後は練習の合間に、街や近くの公園へ二人一緒に散策に出かけるのが日課になっていた。
散策途中に街のパン屋でサンドウィッチを買い、ピクニックのようにランチタイムを過ごす。
街中の公園と言っても、子供の頃に遊んだ遊具のある児童公園とは違い、森や湖まであり規模は大きい。
森を抜ければヨーロッパの国々をいくつも流れる広い河に面していて、俺たちにとっては大切な憩いの場所でもある。


夜だけでなく昼間にも、音出しを控えなくてはいけない時間が国の約束として決められているから、その間はお互いに読書や譜読みをしたり。何よりも、こうして香穂子とのんびり散策をしながら、二人だけの時間が過せる。


河が見渡せる遊歩道に置かれたベンチに寄り添い座りながら、足下には落ち葉の絨毯を敷き詰めて。
指と指を互いに絡め、しっかり握り合った手から伝わる温もりに、心もほっと安らぐのを感じる。
振り仰ぐ日だまりの微笑みが心地良くて、俺もこの秋風のように優しくなれるんだ。
さぁ・・・心に描いた秋を、二人で奏でようか。


「ん〜っ! 空気が美味しいね。森や水がくれる新鮮な空気は、何よりものご馳走だと思うの。私の中も、透明に透き通って、空に溶けこんじゃいそうだよ。ねぇ蓮、見てみて! 空も広くて高いよね、青空のドームだよ」


フランスパンのバゲットサンドイッチを片手に握りしめる香穂子は、目の前に広がる河や空をあちらこちら指さしながら頬を綻ばせていた。先程も森を抜けて河沿いに出たら、うわ〜と喜びの声を上げ、目を輝かせながら走り出してしまったのに。仕方ないな・・・と苦笑しつつ繋いだ腕を引かれ、無邪気にはしゃぐ君を追いかけながらも、一緒になって素直になる自分もいて。穏やかな音楽を奏でる時と同じ空気の中で、君だけに注ぐ瞳と微笑みは、ずっと緩んだままだ。


「空だけではない。この時期は海も同じように青く澄み渡るんだ。春は地面が温められ、対流により埃っぽくなる。だが秋は日が短くなり、地面が冷えて大気の状態が安定する為だと言っていた。・・・とはいえ、ヨーロッパはどこも海が遠いから・・・」
「懐かしいね。でもほらっ、河面がキラキラして凄く綺麗だよ! 大きな河とか運河があるでしょう? 森の中には湖だってある。日本で暮らしていたら見れなかった素敵な場所が、ここにはたくさんあるもの」


ね?とそう言って振り仰ぎながら、愛らしく首を傾ける笑顔に自然と微笑みを返している俺がいる。
パリンと軽い音を立ててサンドイッチにかじりついた香穂子が、硬いパンの皮を口に咥えたまま、必死に引き千切ろうとしていた。む〜っと唸り、難しそうに眉を寄せていたが、やっと千切れた欠片を美味しそうに・・・満足そうにほおばる姿は、見ている俺まで幸せになれる。

だがくるくる変わる表情に堪えられず、肩を揺らす俺に気づくと、顔を赤く染めてフイと逸らしてしまった。


「もう〜っ、蓮ってば何を見てるの? 笑わないでっ! 食べてる姿を見られるのは、とっても恥ずかしいの」
「すまない・・・美味しそうだなと、思ったんだ。君を眺めているだけで、お腹も心も満たされる」
「どうせ子供っぽいですよ〜だ。私、知ってるんだからね。眺めているだけじゃ足りないなくせにっ・・・」
「香穂子の手作りの方が美味しいと俺は思うが・・・そうだな。サンドイッチも君も、どちらも美味しそうだ」
「ほ〜らやっぱり。でも美味しいのは本当だよ、蓮も早く食べよう? あっ、ここではサンドイッチだけだからね!」


笑わないでと茹でだこのように頬を膨らませて睨むけれど、威嚇の効果は全く無く、緩む瞳は止まらない。
照れる君も可愛らしいから、もっと見ていたいんだ・・・本当は君ごと食べてしまいたいのだと。そう言ったら、更に拗ねてしまうだろうか。


河沿いの遊歩道を彩る葉のように真っ赤な彼女へ、付いてるぞとそう言って口元のパンくずを摘み、そのまま自分の口へと運ぶ。恥ずかしそうに俯き、具の沢山挟まったパンに小さくかじり付く香穂子を横目で見守りながら、一口俺も食べれば蓮にも付いてるよと。悪戯に輝いた瞳で指先を俺の唇に伸ばし、キスをするように触れてきた。互いの視線が交われば、どちらともなく微笑みが浮かぶ。



歴史ある石造りの建物に囲まれた煌めく河面に、錦の葉を彩り映す様は息をのむ程美しい。妖精が住むと言われても、この街ならばと納得してしまうだろう。君と共に今ヴァイオリンを奏でたら、きっと悪戯な彼らが集まってくるのだろうか・・・それも悪くはないと思う。

ミネラルウォーターを飲み干した香穂子が、ふぅっと息を吐いて青空を見上げた。


「私ね、蓮と離れていた頃は秋の空があまり好きじゃなかったの」
「どうしてなんだ?」
「少し前までは、ソフトクリームの山みたいな入道雲があって、手を伸ばせば空に届きそうだったのに。ふわふわの白い綿菓子が、あんな遠くの空にあるでしょう? この空で繋がっているって分かっても、手を伸ばしても届かない・・・。空が高いと、やっぱり遠くにいるんだって思えて淋しかった。でも今はとても気持ち良くて大好きだよ、不思議だよね。蓮と一緒にいるだけで、見える景色が変わってくるの」
「香穂子・・・・・」


切なげな光を宿した瞳がはにかむ甘さへ変わり、そっと静かに重み預けながらもたれかかってくる。
側にある温もりを求める仔猫のように擦り寄る香穂子の肩を抱き、花の香りを漂わせる髪へ優しくキスをした。
手を伸ばせば届く距離に君がいて、静かな公園のベンチに寄り添い座り、互いの温もりを感じ合う。


君の笑顔を見ていると、もっと嬉しい気持になれる・・・。
こうして同じ時を過ごし、感じ合える今が幸せだと。
君と俺は別々ではないのだな。俺の嬉しかったことを、一緒に思ってくれる君がとても愛おしい。


言葉はなく、ただ互いに肩を預け合い、空いた方の手は膝の上で繋ぎ合いながら。
触れ合う身体と心が、大好きな音楽を奏でるように、心地良い時間が過ぎてゆく。


「ベンチに寝転がって、空を流れる雲を眺められたら気持ちいいだろうね」
「そうだな・・・だが、ベンチは一人分が横になれるスペースしかない。もしも香穂子が横になりたいのなら、座っている俺の膝を枕にするしかないだろうな」
「あっ! それ凄く気持ち良さそう〜。でも、温かくてすぐに寝ちゃうかも」


腕の中で小さく身動ぎ、クスクスと小鳥の囀りを零す香穂子が、ほんのり染まった頬でちょこんと振り仰いだ。
ちょっぴり恥ずかしそうに照れながらも、真っ直ぐな輝きを秘めた瞳に吸い込まれ、言葉よりも早く唇をキスで塞ぐ。だが目を大きく見開いた香穂子も、仕返しだと言わんばかりに背伸びをして啄み返してくる。


ここは河沿いの公園で、俺たちはベンチに座っているのだと・・・。
そんな考えは雄大な河に流れに溶けこみ、俺も君もどこかに行ってしまったらしい。


「ねぇ蓮・・・やっぱり水のある場所は、万国共通で恋人たちの場所なのかな?」
「は!?」
「河に面したコンクリートの土手に腰掛けていたり、この並びの他のベンチとか・・・歩道から降りる階段とかも。さっきまでは人が誰もいなかったのに、アツアツなカップルがいっぱいだよ」
「本当だ、いつの間に・・・気がつかなかった。その・・・目のやり場に困るな」


急にそわそわと身動ぎだす香穂子を不思議に思い、首を傾ける俺に戸惑う視線を彷徨わせてくる。言葉無く懇願されてわれ周囲をぐるりと見渡し、なるほど・・・と驚きに目を見開いた。

俺たちだけでなくこの街で暮らす人々にとっても憩いの場であるように、腕を組んで歩いていたり、抱擁やキスを交わす姿があちらこちらに見える。外国はオープンだと思うが、景色に溶けこむ俺たちも似たようなものだろう。
以前なら照れも合っただろうが、あまり感じず気づかなかったのは、君だけしか見えていなかったから。


「場所を変えるか? もっと静かで、二人だけで落ち着ける場所へ」
「私はこのままでも平気だよ。でも蓮が嫌なのなら、森の中とかに移動してもいいけど。あの・・・ね、照れ臭いけど周りがみんな仲良ければ、私たちも思いっきり甘えても良いのかなって思うし・・・その。蓮にもっとくっついていたいの、この手を離したくなくて・・・駄目かな?」


ベンチから立ち上がりかけた俺の袖口を掴み、火を噴き出しそうなくらい真っ赤な顔で、ぽそぽそと言葉を紡いでゆく。握ったままの手にきゅっと力を込めながら、真っ直ぐ見つめる瞳に心まで射抜かれた。
駄目な訳がないだろう? もうこの手を離さない・・・一緒にいたいんだと、俺だって君に誓ったのだから。


心配そうに見上げる瞳に緩めた頬で微笑みを注ぎ、再びベンチに腰を下ろした。香穂子の華奢な肩を腕の中に抱き寄せれば、花のように綻ぶ頬が仔猫のように擦り寄ってくる。


「よく学校の帰り道に寄り道して、公園のベンチでお話ししたよね。寒くないか・・・もっとこっちへ来ないかって。そう言って蓮が抱き寄せてくれた時のドキドキを思い出すな〜。嬉しくて温かくて、ずっと冬ならいいのになって思ってた」
「懐かしいな・・・ベンチに座る状態は、心の距離にも関係しているのかも知れない。同じ姿勢でいれば、親密になりたい気持や感心を現し、密着するほど求める想いは強くなる。今はこうして自然に寄り添い合える俺たちも、少し近づいていったんだな」
「たまには、こんな休日もいいよね。お日様の下で、心もポカポカ。結婚しても、恋人気分は大切にしなくちゃ」
「俺はいつどこでも、毎日でも構わないが」
「えっと〜たまには、だよ・・・あっ、見てみて! おじいさんとおばあさんが、仲良く手を繋いでベンチに座っているの。幸せそう〜絵の一部みたいに溶けこんでいるよね。あんな風に私たちも、素敵に年が取れたらいいね」


ごにょごにょと言葉尻を濁した香穂子が、話を急に逸らし、繋いだ手で遠くのベンチを指し示した。
どこだと視線を彷徨わせる俺に頬をくっつけて、同じ場所を示そうと必死な香穂子の柔らかさが心地良い。
すぐに見つけたけれども、わざと質問を繰り返していたのは、心の中だけに留めておこう。


木陰のベンチに仲良く寄り添う老夫婦を、目を細めて見守る香穂子の横顔が、日だまりのように温かく優しい。
俺たちも、あのように年を重ねられたらいいと思う・・・。いつまでも寄り添い音色を重ね、手を繋いでいよう。


ベンチの端と端に座っていた俺たちは、いつしか程良く手の届く距離に座っていて。
温もりを感じ合うのに少し遠い距離は、あと一歩のもどかしさを感じてた頃を思い出す。


二人が一つであるように、ベンチの真ん中へ、自然に隙間無く寄り添える今の俺たちがいるのは・・・。
それは触れ合い擦れる事で互いの心が、丸く柔らかな形に姿を変えていった証。
たった一つしかないパズルピースを作りだし、互いがしっかり噛み合ったからこそなんだ。



景色に溶けこむ、木の風合いが優しいベンチが、俺たちを手招いている。
心と身体を休め、寄り添う二人のためにと。